nobody holness
もうすっかり冬の世界となった〈夕福町〉を歩いた。真っ白の地面を歩くとギュッ、ギュッと音がする。
ギュッ、ギュッ。
何度もその音を聞いて汚い街を通り過ぎていく。この寒空の下でもこの街の煌びやかさは相も変わらずで、キャッチや夜のお店の女性たちはみんな黒か白のダウンジャケットを着て今日も逞しく目の前を通り過ぎていく人々へと声をかけている。
ギュッ、ギュッ。
昨日見た夢が夜になっても頭から離れない。夢も、あの白い部屋も、開けてしまったドアの先も。
見たくないものは無理して見たりしない方がいいのかもしれない。
何日も続く頭痛に今日も苦しめられている。
靴裏が真っ白になるぐらい歩いて、〈ホーネス〉の前に到着した。
でもなんだか今日は店の様子が変だ。
ドア上の照明もついてないし、看板も出ていない。
今日は休みなのか。
でも店休日でもないし、ママが体調でも崩さない限り店は休みにならない。
ドアに手をかけると鍵はかかっておらず、簡単に開いた。
不用心だな、とは思いながらも、たまたま忘れていただけかもしれない、そうも思って店に入った。
音楽もかかっていない、ただの無音な店内の階段を降りて、もう一つのドアを開けた。
カランカラン。
鳴った鈴の音に反応したカウンターの客と目が合った。
「賢治。」
聞き慣れたハスキーボイスが自分の名前を呼んだ。聞き慣れているのに、しばらく聞いてなかった、霞の声だ。ママはいない。カウンターだけを照らす照明が、店内に一人だけの霞にスポットライトを当てていた。
「ママは?」
「今日は休むんだって、休むのも大人の大事な仕事だって言って。店に入ったらそう言って、酒は勝手に飲んでいいからって出て行ったわ。」
ママにしては珍しい。店休日は週に一度しか取らないママが。ふと目をやったDJブースにも光は灯ってなかった。
「賢治何飲む?」
そう言った霞の声はいつもよりも低かった。いつもの通りの派手な見た目の彼女が、なんだか今日はしおらしく見えた。
「なんて、聞くまでもないか、はいハイボール。今日は私がママやったげる。」
音楽も照明も消えた〈ホーネス〉で霞が言った。
「あ、いや、レモンサワーお願い。」
「うん。」
喉で相槌だけして、霞はレモンサワーをカウンターに置いた。
「ありがとう」とだけ言って、カウンターに座ってレモンサワーに口をつけた。
いつもみたいに口を開けばいい。軽口を叩いたり、賢治の知らない仕事のことを聞いたりすればいい。いつもみたいに、くだらないことで笑えばいい。ただ、ただいつも通りに。それなのに賢治の口は一向に開こうとはしなかった。
「もう、ここで私とハイボールは飲まないんだね。」
「え?」
霞の一言が、無人のDJブースを動かしたみたいに響いた。
「なんでもない。私行くね。鍵の場所、分かるでしょ?」
そう言った霞は〈ホーネス〉を後にした。
DJブースのレコードは、いつまでも回り続けていた。




