月が綺麗
「お父さんみたいにならないようにって、どういこうと?」
ベロベロに酔っ払って足元がおぼつかない愛菜の肩を自分の肩に回して進みながら賢治は尋ねた。
んー?と喉を流しながら目を閉じている愛菜の顔はどこか酒に飲まれているはずなのに幸せそうな顔をしていた。んあぁ、と言いながら愛菜が口を開いた。
「あいつもね、お母さん、あー、私からしたらおばあちゃんに虐待されてたらしいんだよね。飯抜かれたりだとか、顔殴られたりだとか。別にそんなん言われても、お前もやってんじゃねぇかとしか思わないんだけどね。でも、そういうことされてあいつも嫌だったはずなのに、知らず知らず同じこと私にしてるのみて怖くなって。」
ギャハハ、と騒がしく笑う大学生のグループが賢治たちの横を通りすぎる。酔っているのだろうか、不安定な足取りと彼らの手元を見てそう思った。彼らの手に握られている缶チューハイが、先ほどまで自分たちが居酒屋で飲んでいたアルコールとは全くの別物に見えた。感情の振れ幅を広げるだけのアルコールは、味方にもなれば敵にもなる、酔い潰れた女性を介抱した男性が捕まったニュースを思い出して、できるだけ愛菜に触れる面積を減らそうと腕を上げた。
「私も、そうなるのかなぁ。」
「愛菜は大丈夫だよ。」
無責任な自分の発言に、一瞬止まりそうになる足に力を込め、無理矢理アスファルトの上にまた新しい跡をつける。
そう言った後、愛菜の吐息が急に整い出したようにリズムを持ち始めた。一定のリズムを持ち始めた愛菜の呼吸を聴きながら、賢治は愛菜の負った傷の深さをまるで自分のことのように感じていた。
何故なのかは分からない。でも、何故か傷に酒を塗り込むように自暴自棄になる彼女の気持ちが、じわじわと自分の中にも入り込んでくるようだった。小さい傷がどんどんと広がっていき、心が痛いと叫び出していた。
「アハハ、ありがとう。賢治もなんかあったら言ってね。」
「あ、うん。ありがとう。俺は──。」
余程酔っ払っていたのだろう。なんて言ったのかはもはや覚えてもないが、記憶障害の話をしたことは覚えている。その時の愛菜の顔は、驚いたような、悲しいような、なんとも言えないような顔をしていた。
少し歩いて、携帯の画面を除くと、明るいブルーライトが22:00すぎを教えてくれた。乾燥して頬が痛みを帯び出したのと、ちらほらと降り始めた雪を見て、十一月がもう終わるのだとようやく理解してしまった。こうしている間に十一月は終わり、すぐに始まる十二月も終わり、そして来年の十一月もどうせすぐに終わっていく。もうその頃、記憶を思い出した自分は、自分としての原型を留めていないかもしれない。ここにいれるかも分からない。
そんなネガティブが真綿で首を絞めようとしていた矢先、
「あ、月綺麗。」
と愛菜が口を開いた。
言葉本来の使い方を夏目漱石が上書きしたその一節を聞き、まぁ愛菜にかぎってその使い方はないだろうと思いながら空を見上げると、ひよこ色に輝く半月が宙に浮いていた。
「満月じゃないんだ。」
渡されたプレゼントが望んでいたものじゃなかった子どものように言葉を吐いた。
「そうだよ、綺麗じゃない?」
愛菜の問いかけに賢治は、まぁ、と気の抜けた返事をする。
「確かに満月は綺麗だけどさ、半月はそれの半分しかないのにあんなに綺麗な色で輝けるんだよ。なんか愛らしくない?」
そんなことをいいながら彼女は真上を見ながらあんぐりと空いた口から白い息を吐き出した。
半月の美しさは分からない。分からないが、それよりもみんなが顔も上げずに素通りするものに美しさを感じられるあなたは綺麗だった。それだけは分かった。どんな形の月よりも、そんなあなたの心の方がずっとずっと綺麗だということだけ、分かった。
「確かに、綺麗な月だね。」
呟くように言葉を絞り出した。
ニ足歩行でチンタラと進んでいたadidasのスニーカーはいつの前にか愛菜の住む学生アパートの部屋の前についていた。
「着いたよ。」
愛菜はんん、と唸り声と顔を上げてドアの方を見ていた。
「帰るの?」
「帰るよ、鍵出せる?」
愛菜の宙ぶらりんになっていた左手が、賢治の左肩に添えられる。
「今日一人なの、寂しい。」
抱きついてくるような体制をした愛菜の目を見て、自分の心臓が飛び跳ねるように音を立てていたのを感じた。でも賢治はビビリだから「鍵どこ?」なんてまた聞いて知らないふりをした。
賢治がビビっていたのはお酒を飲んだ下半身の具合がどうだとかではなくて、ただその先の愛菜との関係のことで不安の知恵の輪の中に囚われてしまうことだった。もし過ちを犯したら、この夜が明けた先、愛菜は自分からどう見えているのか、愛菜からどう見られているのか、今日みたいにいつも飲んでいた酒も、愛菜が何度も置いていって部屋に溜まっているつまらない漫画本も、腹がいっぱいだといつも押し付けてくるあと少しの料理も、全部なくなってしまう気がした。
ただゼミが同じだった人で、ただ近くにいたから一緒にいただけ。ただ一緒にいたから仲良くなって、ただ一緒にいたから、賢治はもう愛菜のことを好きになっていた。会ったばかりの頃のコンクリートのような冷たさも、嬉しい時は人一倍笑って、悲しい時はあからさまにしょぼくれてる、一喜一憂する純粋さも、とても賢いのにいつもどこか抜けてるような、聡明な脆さも、自分のことを雑に扱う様に見えて裏にある優しさも、普通の環境で産まれることのできなかった傷も、全部好きだった。
そんな賢治の気持ちなんてよそに愛菜はアルコールの入ったとろんとした、でも力強さを持つ大きな猫目を下から賢治に向けていた。
「帰るんだ。じゃ、別な人に連絡する。」
理性と戦い、欲に打ち勝とうとする男に対して、猫は意地悪だった。
ポケットからキラキラにデコられた携帯を取り出し、薄暗いブルーライトを光らせていた。
その瞬間、エサとは異なるマタタビを与えられた賢治は愛菜を部屋に押し込み、ブルーライトはまるで分かりきっていたように息を殺した。
賢治も愛菜ももみくちゃになりながら部屋の中を進んで行った。
賢治か愛菜か、どちらかに当たった調理器具や置き物が床に落ちて音を立てていたが、どちらに当たったのかなんてもう分からなかった。
真っ暗な部屋で壁や家具に当たりながら彼女を乱暴に部屋に押し込んで、ベッドに押し倒す自分の行動がただの空っぽな性欲であることを願った。
自分のこの行動が、エモやチルを代名詞とした賢治の大っ嫌いな気持ち悪い令和のラブソングの一部であればいいのに、と。
彼女の寂しさに触れた時、賢治は怖くなった。今愛菜を一人にして帰ってしまえば、もうこれまでの愛菜との友人関係ではいられなくなってしまうどころか、もう二度と会えないような気すらしてしまった。同じ大学にいて、同じゼミにいるのだから、卒業するまでは少なくともどこかで会えると分かっているのに、何故だかそんな気がして怖くなった。そうなった先にいる彼女は、もう彼女ではないと気がしたのだ。
愛菜の耳元のイヤリングが吹っ飛び、どこかでカツン、と音を立てた。
セックスなんてしてしまった時点で元の人間関係でなんていられるはずもないのに、賢治は必死にその現実から目を逸らした。なにが悔いのない生き方だ、内側から聴こえる声を無視するかのように、引っ張られた賢治のネックレスも千切れてどこかへ飛んで逃げていった。
全てを捨てた気になった賢治と愛菜の口は、罪を互いに押し付け合うように触れ合い続けた。
敵になったアルコールだけが、心の奥底からいつまでも賢治を笑っていた。




