愛菜の過去
「私ね、父子家庭で育ったんだ。」
その日の飲みの場で愛菜がそう言った。熱った頬に若干半開きの眼。一体何杯飲んだのだろうか。ビールに焼酎に、数えきれない杯数のハイボール。混み合う店内で店側も余裕がないのだろうか。愛菜の横には空いたグラスが何杯もカウンターの隅に追いやられていた。
大学生からサラリーマンまで多種多様な人で賑わう店内。中華料理をメインとして扱うこの店は、レイアウトも中華風になっており、至る所に龍が描かれた絵や中華風の模様が壁に飾られていた。シマウマのキャラクターが特徴的なこの店に来るのも、もう何回目かよく分からなかった。
〜ちゃんにDM送れよ!、なんて同い年ぐらいの若い声が聞こえたり、今の会社はこうした方がいいんすよ、なんて一回り歳上の人の声も聞こえたりする。歳は違えど、今を生きている人は皆、顔に生を感じる。そう思いながらカウンターの方へ視線を戻すと、数年前から形を変えないシマウマが片手を上げてこちらを見つめていた。
酒を飲もうとグラスに手を伸ばすともうあったはずの茶ハイがなくなってた。注文のために酒が沁みた紙に印刷されているQRコードを読み取っていると、
「嫌いだったなぁ。お父さんのこと。」
そう言いながら愛菜はまた飲み切ったグラスを机に叩きつけた。ダン!と大きな音が鳴るが、その音も店の喧騒の中に飲まれていく。ハイボールでーす、という店員の陽気なのに冷たい声が賢治と愛菜の間を通るや否やまた遠くへと消えていった。
「私が何しても怒鳴りつけてくるの。テレビ見てても、勉強してても、ただ座ってても。『何だお前のその態度、俺に文句あるなら今すぐ出てけ』、『お前の目見てるとあいつの顔思い出して不快なんだよ』って。私あの人に何もしてないし何も言ってないのにだよ?挙げ句の果てには『お前なんか産まなきゃよかった』って。こっちだってこんな家産まれなきゃよかったっての。毎日暴言吐かれて、貶されて、お小遣いなんて貰えなかったから遊びも部活も諦めて必死に貯めたバイト代も奪われてしょうもないことに使われるし。私のこと捨てて別の男の人と結婚した母親も、父親も大嫌い。暴言吐かれてる私の横で見て見ぬ振りして携帯触ってるだけのお兄ちゃんも嫌い。」
そこまで言うと愛菜は追加で来たハイボールが入ったグラスを勢いよく掴むと喉へ流し込んだ。みるみる内にグラスの中の液体が無くなっていく。
いつもならこうなると強引にでもグラスを放させるのだが、今はそれができなかった。愛菜の苦しみに寄り添えきれない自分に、それから逃げる手段を没収する資格はないように思えた。
ダン、とグラスがカウンターに叩きつけられた。氷がからん、と音を立てる。愛菜の目線とシマウマの目線が一直線になる。騒がしい店内が静寂に包まれたような気がした。
「でももういいんだ。」
愛菜の目線が逸れる。プリントされたはずのシマウマの目が寂しそうに見えた。
「もう全部終えられたから。大学来るってことで、あの家から逃げられたから。今はもう戻れないし、戻る気もない。家の鍵も変えられたし。次の標的がお兄ちゃんなのかも、分かんないけどいい。もう私は逃げられたから、ちゃんと。法を犯さないで耐え切ったから、、、殺さずにいられたから。」
愛菜はグラスを掴んで口へと傾けるも空っぽになったそれからは水の個体が出口へと押し寄せただけだった。
一口飲んだジンジャーハイを差し出すとそれは素早く愛菜の手の中へ落ち、あっという間に喉元へと流し込まれていった。さよなら、俺のジンジャーハイ。携帯の画面がラストオーダー締切を知らせる機械的な文字を表示しているのを見て、ハイボールを二つ注文した。
「後は私の問題、だと、思うから。」
イッ、という吃逆なのかよくわからない音を立てながら愛菜が言った。
「パパが、そうなったみたいに、私も、ならないようにしないと、、、。」
ハイボールでーす、と店員の冷たい声が聞こえた。




