愛菜
今日も眉間の皺をこれでもかと深く刻み、部屋からでも分かるくらいドシドシと足音を立てて教授はこの狭いゼミ室から出て行った。
とんでもない怒りようだ。
なんて、紛れもなく第一当事者なのに、まるで他人事かのように賢治は考えていた。教授の足音が聞こえなくなったのを確認して部屋のドアを開け、コンバースを履いている右足を一歩踏み出そうとすると、ドアのすぐ側から「きゃっ」と声が聞こえて瞬時に身を引く。
誰かいたのか、とドアの側を見るとそこには唯一同じゼミ生の愛菜がいた。
「ごめん、前見てなかった。」
「あぁうん。」
賢治の謝罪に冷たく返して、愛菜はそそくさと賢治が出たゼミ室の中に入っていく。ゼミ室に入るや否や、パソコンを開いて、パチパチとキーボードを打ち始めていた。
愛菜はゼミが始まった三年時からずっとこの調子だ。他のゼミは学生が複数人いて、和気藹々としている所が多いが、賢治のいるゼミは賢治と愛菜の二人しかいない。ゼミの度に顔を合わせるのに他人のままでは気まづいと思い、賢治から話しかけたのが賢治と愛菜の最初の会話だった。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
無理矢理朗らかに笑おうとしている賢治に対し、愛菜は口角を下げたまま、横目で冷たく返す。
「愛菜さん、だよね?」
「そう。」
「ゼミ同じだからよろしくね。」
「うん。」
「まじでここのゼミだけ人少ないよね。」
「うん。」
「なんでこのゼミにしたの?」
「別に。」
別にって何だ別にって。
冷たくて、ぶっきらぼう。これが賢治から見た愛菜の最初の印象だった。
それからゼミで顔を合わせる度に、挨拶は返してくれるので嫌われてはないと思うが、特段そこから話すようなこともない。本当に文字通りのただの顔見知り。
いつもブチギレの教授(主に賢治のせい)と、叩いても殴ってもすんとも言わないコンクリートみたいな愛菜、そして賢治。その三つの要素で構成された殺伐としたゼミ。二年生の学期末頃に課されるゼミ訪問を適当に済ました自分を今すぐにタイムリープしてぶん殴ってやりたかった。どうせ役なんて覚えられなくて二週間で投げ出す麻雀なんてものに現を抜かしていた自分を。
廊下の向こう側で、おそらくゼミが終わったと思われる学生が複数名キャッキャッと部屋から出てくるのが見えた。
それを恨めしそうに見ながら、賢治は学内のカフェへと逃げるように両足のコンバースを動かした。
*
ポツポツ、ポツポツ。
雨音が耳の中を浸し始めて、それで目が覚めた。カフェに着いてから、気付かないうちに眠ってしまっていたみたいだった。テーブルの上には空になったコーヒーカップと、空っぽのAirPodsのケースが置いてある。耳元につけられたAirPodsの本体からはBASIの"かさぶた"が流れている。一体どのくらい眠ってしまっていたのだろうか、iPhoneのロック画面は16:36を表示しているものの、カフェに入った時間すら曖昧なため答えは分からない。ガラス越しに外を見ると、小雨が少しづつ降り続けていた。学内の道にも所々水溜りが見えている。
うわ、最悪だ。
折りたたみ傘なんて気の利いた物を持っているはずもなく、寝ぼけた目を擦りながら、賢治はお会計をして店を出た。
店を出ると、雨は思っていたよりも強く、賢治の顔をしとしとと湿らせていく。"チッ"と舌打ちを奏でながら家路へと急いでいると、校門の付近で、傘もささずに下を向きながらうろうろしている人影が見えた。
こんな雨の日に何をしているんだこの人は、そう思ってちらりと目を見やると、その人影と目が合った。目が合うなり、どちらともなく「あ」と声が漏れる。
その人影の正体は、あの感じの悪いゼミ生、愛菜だった。
*
「何してんの。」
賢治が声をかけると、愛菜は肩をびくりと震わせ、声をかけたのが賢治だと分かるとホッとしたような顔をして肩の力を緩めた。
「携帯。」
「え?」
「携帯、落としちゃって。探してた。」
しばらくそうしていたのだろうか、愛菜の髪と顔は雨でしっとりと濡れていた。
「友達に電話して貰ったら?」
「みんな帰っちゃった。」
「連絡して来て貰えばいいじゃ、あ、携帯ないのか。」
「そうなの。」
賢治は自分の上着のポケットを弄り、自分の携帯を取り出す。
カチ、と電源ボタンを押すと右上の電池マークがなけなしの三パーセントの充電を示している。
「電話番号何?」
「かけてくれるの?」
「うん、電池ないから早く。」
愛菜が言った電話番号を打ち込み、電話をかける。
「え、嘘。」
耳元に携帯を当てたまま愛菜の方を見ていると、慌てて手首にかかったハンドバッグを弄っていた。賢治ぐらいの若者たちがこぞって欲しがるブランドのロゴが貼られている、空気以外に一体何が入るのかと思うほど小さいバッグ。ブランド物に全くと言っていい程無頓着な賢治とは縁遠いものだった。愛菜はその中からシールでデコられたiPhoneを取り出し、耳元に当てる。
「もしもし、ごめんね。」
目の前にいるはずの愛菜の声が耳元から聞こえてくる。いつの間にか強くなり始めた雨音で愛菜本人からの声は聞こえない。
「あるじゃん。」
そう発した賢治の声も、愛菜の耳元で響いているのだろうか。
「うん、あった。賢治君、あのね−−−。」
「あ。」
愛菜の声が途中で途切れ、携帯の画面を見てみると画面が真っ暗になっていた。電源ボタンを押しても点かない、電池が切れてしまった。
ごめん、切れちゃった。
そう伝えようと愛菜の方を見ると、なんだか悲しそうな、泣きそうな顔をしているように見えるくらい、目に力がこもっていた。
「ごめん電池切れちゃった!何か言おうとしてた?」
「ううん、なんでもない。」
雨音に負けないように賢治は大きな声で話しかけたのだが、愛菜は聴き取るのがやっとのくらいの小さな声でぼそぼそと話した。
「雨強いからもう帰ろう、溺れちゃう。」
溺れる訳ないだろ、と言おうと思ったがそうも言い切れないくらい雨が強くなっていた。賢治と愛菜はどちらもびしゃびしゃになりながら黙って家路を歩いた。
歩く途中、道の水たまりに気づかず足元のコンバースをダイブさせて愛菜の足元に思いっきり水飛沫をかけてしまった。ごめん、と言うが愛菜の反応はない。聞こえてないのだろうか、と思いながら歩いていると、目の前にまた大きな水たまりがあった。
今度はダイブさせないよう大股で跨ごうとすると、視界の下の方で黒のブーツが踏みつけるように水たまりに着地するのが見え、次の瞬間賢治のコンバースのパンツの裾は大洪水に巻き込まれる。
びしょびしょなんて言葉が可愛いくらいには水没したコンバースの感触を感じながら愛菜の方を見ると、ニヤニヤ笑いながらこちらを見ていた。口が三日月と同じ形をしていた。
この女。
その後、帰り道で見つけた水たまりに賢治はまた大股で繰り出す。だが今度は跨ぐためではない、飛び込みの如くダイブするためだ。
びしゃっ!!と言う音と共にコンバースの底と地面の間で水たまりが飛び散り、愛菜の足元を水飛沫が包み込んだ。
横を見ると、は?という顔をしながらも三日月はまだ浮かんでいた。その後も水たまりを見つけるとお互い競争のように急ぎ足になり、片足を水たまりに突っ込む。結局どちらも水たまりに突っ込むものだから、もうどちらの足もパンツの裾もびっちゃびっちゃに水没しきっていた。それなのに、三日月はより綺麗に輝いているように見えた。
町の時計台はまだ夕方の17:12を指していた。
*
その後も、もう雨はとっくにあがっていたのに、賢治と愛菜は濡れ続けていた。
髪も顔も、特に足元もびしゃびしゃのまま二人は歩き、愛菜が木造アパートの前で立ち止まった。
「じゃ、私の家ここだから。」
愛菜のアパートは、彼女の普段の服装の印象とは異なる質素な佇まいのアパートだった。違和感のようなものを感じたが、初めて見たような彼女の笑った顔を見て、まぁいいか、と手を振った。
だが、その違和感は見逃すべきではなかったと、賢治は後から思うことになる。
でもそんなの今の賢治は知る由もない。
愛菜と水たまりを踏み合うのが変に楽しかったせいなのか、自分でも分からないが、家路からわざわざ遠回りしていたことを悟られないよう、びしょびしょのコンバースで家路を歩いた。




