石井精神科③
「元気だったかい?」
石井がそう優しくいうので、賢治は少し身構えた。友達みたいに接していた石井の大人の部分を見た様で、なんだか怖かった。
「あ、あぁうん元気だよ。何、今日はなんか雰囲気違うけど、なんかあった?」
「あぁ、ばれちゃったか。精神科なのに、気を遣わせてしまってごめんね。」
そう言って石井は下を向いた。パソコンを見ている様な、カルテを見ている様な、何も見ていない様な石井を見ながら、賢治も何も言わなかった。
音のない、何とも言えない空間が診察室の中に広がっていた。石井が口を開くまでのその時間は、たった数分の様にも思えたし、何時間もあった様に感じた。
「話があるんだ。」
「う、うん。何?話って。」
「君の、記憶のこと。」
デスクを向いていた石井が顔を上げて、身体ごと
こちらを向いた。また項垂れる様に下を向いたと思ったら、顔を上げて口を開いた。
「今、君は記憶を思い出そうとしている。過去の、失っていた記憶が夢として君の中に再び思い起こされつつある。」
石井の言葉を聞いて、前にママが言っていたことを思い出した。
もしかしたらその夢は、あんたが抜け落ちた記憶を思い出そうとしているのかもね──。
「あの夢が、俺の記憶。」
「君の夢を直接見た訳じゃないから断定はできないけどね。もう、十一年。前から記憶が戻り始めると踏んでいて時期なんだ。だから、何もおかしいことはない。おかしいことはないんだけど──。」
そう言って石井はまた下を向いた。ズッ、と鼻を啜る音が聞こえた。なんだ、泣いているのか?なんで?
「君が思い出す記憶はね、必ずしもいいこととは限らない。もしかしたら、酷くて醜くて、今記憶がなくても毎日を生きられている君自身を、どん底に陥れる様なものかもしれない。これからを生きる君を、蝕み続けるものかもしれない。」
目頭を抑えながらそう言う石井を前に、賢治は何も言えずにただ丸椅子の上に座っていた。診察室にも貼られている「健康促進!」のやけにうるさいポスターが腹立たしく見えた。
「でもこれだけは忘れないでいてほしい。君がこれから思い起こす記憶がなんであれ、僕と入江は君のそばにいる。いつでもここにおいで。夜間でも、僕たちはずっとここにいる。」
そう言う石井を見て賢治はなんとも言えない気持ちになったのと同時に、過去の記憶についてなんとなく察しがついた。あの罵声が聞こえてくる白い部屋も、鳥籠も、泣いていた少年のことも、全部自分のことで、自分が経験していたことで──。
「なんとなく、分かったよ。まだ思い出しきれてないけど、ありがとう。どうせまだ次の診察もあるし、すぐに来るよ。」
うん、と言った石井はティッシュを一枚取り、思いっきり鼻を噛んでそのティッシュで涙を拭った。そのティッシュをゴミ箱に投げ捨て、あぁ、と口を開いた。
「い、入江がデートの時は来るなよ。あいつ怒るから。」
そう言って笑う石井に挨拶をして診察室を出た。
デコピンをかました掲示板も素通りで入江のいる受付へと向かった。
ぶっきらぼうな入江は表情を変えないまま、
「1230円。」
と言った。
言われるがままお金を払って立ち尽くしていると、レジをいじりながら入江が口を開いた。
「大丈夫だから。」
「え?」
「大丈夫だから。あんたは今も生きてて、私と石井センセーはここにいる。あんたがどんなやつになったって戻ってくる場所は私らが守っていてやるよ。だからとっとと寝て夢見て、早いとこ思い出しちまいな。」
ほらお釣り、と言って向けられた入江の手の平のうえには五十円とピースライトが置かれていた。
「あんたいつもここ出た後隠れて吸ってるだろ。餞別だよ。こいつが無くなる頃にまた来な。」
礼を言って〈石井精神科〉を出た。いつもみたいに隠れて吸ったタバコは、いつもとは違う味がした。




