氷と水
「フリン。」
「そう不倫、まんまと騙されてたわ。」
賢治にとって「不倫」なんてどこかの有名人のスキャンダルくらいでしか聞かないフィクションみたいなもので、それが目の前のママが経験者だったとしても、どこか実感が湧かなかった。
氷が溶け切ったハイボールは緑茶みたいな色をしていた。
「結婚して二年目くらいかしらね、友達とお茶をしていた時に変なことを言われたの。『こないだ街で旦那さん見かけたんだけど、同い年くらいの女の人と歩いてたよ。』って。『手繋いでたよ。』って。『あれ誰?』って聞かれたけど、そんなの私も知らなかったわ。家族か仕事関係の人じゃない?って誤魔化したけど、脈打ちだした心臓のうるさい音は今でも覚えてる。仕事関係の人ならもちろんだけど、いい年した大人が家族と手繋いで街を歩くのもなんだか変じゃない。まぁ、そういう人もいると思うけど。でも、一度考え出したらもう止めることができなくて、その日の夜、彼が寝てる時に携帯を見ちゃったの。」
「え。」
「見るものじゃないわね、携帯なんて。メールのやり取りを遡ると、やけにやり取りをしている子がいたの。そのメールを開いてみると、『今日も可愛かった。』とか『またイチャイチャしたい!』とか、気持ち悪いメールがたくさんあって、挙げ句の果てに、私と結婚した一週間後には『早く別れるね。』なんてメールもしてたの。」
「うわ、きっしょ。何そいつ。」
「本当、気持ち悪いわよね。もう心臓だけじゃなくて、全身がドクドク脈打ってるみたいにうるさくて、何も理解できなくて、吐き気も止まらなくて、もうどうすればいいのか分からなかったけど、気づいた時には彼を叩き起こしてたの。寝ぼけながら起きた彼に携帯の画面を見せつけて、これ何?って。ボケっとした彼の顔はどんどん青ざめていって、ごめんって何回も言ってた。その後問い詰めてみたら、彼女とは私と会う前に付き合ってた人みたいで、別れた後も彼は彼女を思ってたみたいなの。私と付き合う前に復縁を申し込んだら相手がいるから無理って断られて、それでそのまま私と付き合って結婚して、そしたら結婚してすぐの頃に、『別れたから会いたい。』ってメッセージが来てって感じ。私、馬鹿みたい。でも、あぁ、だからあの人は私と会ったばかり時死にそうな顔をしていたのね。あの人は私と会ってる時も、ずっとその子のことを考えていたのかしら。私と新しい家具を選んでるときも、一緒にご飯を食べてる時もあの子のことを考えていたの?私を抱きしめているときも、プロポーズをした時も?ねぇ、ごめんって、何に対してのごめん?」
ママのウイスキーのグラスの氷も溶け切って、混ざり合ったそれはちょっとでも動かせば淵から溢れ出しそうだった。氷になってもう揺るがないような過去に対する気持ちは、ふとした瞬間に水になる。
「そのまま彼とは別れたわ。今どこで何をしているのか、あの子とよろしくやってるのかも分からない。分からないけど、どうでもいいの。もう、全部どうでもいいの。結局人は生きている時も死んでいる時も一人で、一人でいたら傷つかないもの。愛することさえしなければ、傷つかないの、、、。」
そう言うとママはやつれきった顔を無理矢理笑わせた。口元に皺を寄せたその顔は、この世で一番、笑顔とはかけ離れた笑顔だった。目から静かに溢れ出した涙は、氷じゃなくて水だった。嘘つきだ、ママも。本当に、どうでもいいなら、あなたの目からその水は溢れないはずだ。暗くなったDJブースを見つめているはずの目は、もう何も見ていないようだった。
「真っ暗だね。」
「そうね。」
「真っ暗だけど、別にいつも通りだ。」
「え?」
「何も変わらないよ。あそこが明るくても、明るくなくても。いつも通り俺はここに来て、いつもみたいにママが酒をくれて、いつもみたいに酒を飲んでいる。そのうち霞が来て、客が来て、いつもみたいに話をして、笑って、いつもみたいに夜の時間は消えていく。それは多分、明日も、明後日も続く。」
「そうかもね。」
「だから、それはママにクソみたいなことがあった日もそう。好きな男に騙されて死にたくなったって、俺らはここで酒を飲む。ママの話を聞いて、みんなで笑って泣いて、クソなことは記憶を飛ばしてリセットさ。ママがどう思ってるのか分からないけど、俺たちはここに居座るよ。好きな男にだってなんだって、突っ込んで裏切られていい。俺たちはここにいるから。ママは一人にならないよ。嫌なことがあったらまたここに戻ってくればいい。だから、ほら、お酒飲も?次はウイスキーのロックが飲みたいな。」
「飲めないくせに。」
生意気なガキ、そう言うママの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。満面の笑みで、ぐしゃぐしゃになっていた。化粧も髪も、何もかもめちゃくちゃな彼女の顔は、これまでで一番美しかった。
「強めでいいわよね。」
「え?あ、うん、いいよ。」
「マルガリータよ。特別ね。」
「知らない酒だな。あ、美味しい、あ、強。」
賢治の渋い顔を見てアハハとママが笑うと、〈ホーネス〉の扉が鈴を鳴らした。
「ママ、カルーア!ねぇ、聞いてよ!」
今日もバチバチに身なりを着飾った霞が大きな声を出しながら入ってくる。
「あら、遅かったわね。すぐ用意するわね。」
「ありがとう!あれ、ママ泣いてる?賢治、何したの!」
「何もしてないよ。うるさいって。」
アハハ、とママがまた笑う。
笑い声に包まれながら、みんなでグラスに口をつけた。
ふと見たDJ ブースには、オレンジ色の光が照らされたいた。




