もう、好きになるのやめたの
石井精神科を出た賢治はそのまま〈ホーネス〉へと向かった。冬が顔を出し始めたこの空気の中ではもう落ち葉を踏んでクシャリという音を出せないが、もう少し寒くなって、真っ白な雪を踏んでギュッ、とまた新しい音が奏でられるのを楽しみにコンクリートの上を歩いた。
コンバースの靴で歩いていると、冷たい風が頬をチクチクと刺してくる。ピンク色に染まった頬が金切り声を上げているようだった。
その後も紅潮した頬と、寒さで縮こまった身体を必死に進ませながら、〈ホーネス〉のオレンジ色のドアの前に着いた。
帰る頃にはもっと冷えてるだろうなぁ。もっと厚めの上着を持ってくるべきだった。
寒さが嫌なら帰ればいいのに、そんな意思に抗うかのように賢治はオレンジ色のドアを開けた。
*
〈ホーネス〉の階段を降りて二つ目のドアを開けると、ドアに吊るされた鈴の音が鳴った。
「ハーイ、ママ。」
「あら、今日もこんばんは。ここにどうぞ。」
今日もママは一段と綺麗だ。そんなママに案内されたカウンターの椅子へと座り、メニュー表を見た。
「生一つちょうだい。」
「あら、珍しい。今日はハイボールじゃないのね。」
「後で飲むさ。今日は生の気分なんだ。」
「ふぅん」と相槌を打ったママは、あまり使われることのないビールサーバーへと向かった。シューッ、と音を立ててグラスに泡と麦が注がれていく。
「霞は?」
「まだ来てないわね。」
そう言うとママはちらっと時計を見た。時刻は午後八時半を指している。
「そろそろ来ると思うけど。ハイ、ビール。」
「ありがとう。」
出されたビールを飲みながら後ろの無人のDJブースをチラっと見た。DJブースに人がいないのはいつものことだが、今日はいつものオレンジ色の照明が焚かれていなかった。DJコントローラーもそのままのヘッドホンも、まるで死んだように暗闇の中に置き去りにされていた。
「今日はDJブース暗いんだね。」
「そうね。」
そう言ったママに対して賢治は何も言わず、ママも言葉を続けようとはしなかった。黙って賢治はビールを一口飲んだ。
二人してDJブースを向いたまま、口を開かない。賢治はこの沈黙が、永遠に続いていくような気さえした。
でもその沈黙は寿命を迎える。賢治がまたビールを飲んだ時、ママは重い唇を開いた。
「もう辞めることにしたの。」
「え?」
ママのタバコに火がついた。
「もう、あの人のこと好きなるの、辞めたの。」
「え、なんで?あんなに好きだったじゃないか。」
燃えたタバコの先が煙となって宙に舞っていく。ふわふわと空中を散歩する煙は、目に見えていたはずなのに、いつの間にやら空気に溶け込んでいって、タバコの匂いだけを残して消えていった。
ママの口から放たれた新しい煙が、また現れては消えていった。
「もう、疲れたの。もう。」
燃えカスになったタバコは、ジュッ、と灰皿の上で寿命を迎えた。
「これ以上、裏切られたくないの。」
「ママに何があったの?」
「私ね、本当は一回結婚してるの。」
また新しいタバコに火が灯った。
「もういつのことかしらね、二十年くらい前、本当に好きだったと思った人と結婚したの。出会ったのは高校生の頃だったわ。自分で進学したのに、学校にに行くのなんて馬鹿らしくて、近所の公園でタバコを吸ってた時に彼とは出会ったの。」
「高校生でタバコ吸ってたんだ、ヤンキーだ。」
「うるさい、あんたもでしょ。」
そう言えばそうだったと、自分の罪を棚に上げていたことなんてすっかり忘れていた賢治はお口にチャックをした。
「その時、当時絡んでいた先輩から、紹介したいやつがいるって言われて。そいつも高校ほとんど行ってないし、お前と気が合うよって。そう言われて会ったのが彼との初めての出会い。初めて会った時は、髪も伸びっぱなしで、正気がなくて、どことなく死にそうな人だった。でも二人で会った後もなんだかんだで会うことがあって、二人で会うようになって、そしたらあの人も髪を切ったりして身を整えたりして、そしてそのまま付き合うことになったの。」
「はぁん。」
「付き合って数年経った日、彼からプロポーズされて結婚したの。本当に幸せだった。私、本当に好きな人と結婚できるんだって。プロポーズはお決まりのレストランとか最上階のホテルとかじゃなくて、いつもの彼の部屋のベッドの上だったけど、それでも嬉しかったの。その後一緒に住む部屋を借りて、一緒に家具を見に行って、その家具で溢れた部屋で二人でご飯を食べた。ご飯を食べた後口にいつも何かつけっぱなしにする人でね。そこも含めて大好きで、使い古された言葉だけど、私世界で一番幸せだわって思ってたわ。」
はぁ、と、ママの口からため息みたいな声と煙が〈ホーネス〉に広がった。そうしている間も、ママはずっと下を向いたままだった。
「それで、なんで裏切られるって話になるの?」
「不倫されたの。ありがちな話ね。」
酒へと伸びていたはずの手は動きを止め、カウンターの下へと引っ込んでいき、照明は嘲笑うかの様にママの顔を照らし続けた。オレンジ色のその顔は、もう全部諦めたかの様な乙女の顔をしていた。




