EP 2
合わない算盤と、月兎族の村長
「痛てっ……!」
光が収まった直後、俺は土の匂いが充満する鬱蒼とした森の中に放り出されていた。
スーツの膝を払いながら立ち上がる。
「あのクソニート女神、マジで飛ばしやがった……!」
文句を吐き捨てた、その瞬間だった。
ガサガサッ!
茂みを揺らし、三体の緑色の化け物が飛び出してきた。
身長は子供ほどだが、その手には錆びた鉈が握られ、瞳は明確な殺意に濁っている。
「……は? ゴブリン?」
現実を理解するより先に、ゴブリンの一匹が飛びかかってきた。
咄嗟に腕でガードするが、鋭い刃がスーツの袖を裂き、前腕を深く切り裂いた。
「ぐあっ!?」
熱い痛みと、生暖かい血の感触。
商社マンとして接待ゴルフで鍛えた程度の反射神経では、どうにもならない。
ゴブリンたちが醜い笑い声を上げ、一斉に鉈を振り上げた。
――あ、終わった。
そう覚悟して目を閉じた、次の瞬間。
『――月影流・顎砕き!』
ドォンッ!!
爆発のような打撃音と共に、突風が巻き起こった。
目を開けると、俺の目の前にいたゴブリンの頭部が、あり得ない角度にへし折れて吹き飛んでいた。
「え……?」
そこに立っていたのは、ラフで動きやすい服を着た、小柄な少女だった。
頭にはピンと立ったウサギの耳(月兎族の耳)があり、両手には武骨なダブルトンファーが握られている。
彼女は一瞬で残り二体の懐に潜り込むと、トンファーで体勢を崩し、特注の靴で強烈な膝蹴りを顎に叩き込んだ。
100メートルを5秒台で走るという圧倒的な速度。
文字通りの「瞬殺」だった。
「ふぅ、間に合ってよかったー」
少女はトンファーをクルリと回して腰に収めると、ぽわぽわとした笑顔でこちらを振り向いた。
「怪我、大丈夫?」
「あ、いや……」
俺が腕の傷を押さえていると、彼女は俺のそばにスッとしゃがみ込んだ。
そして、傷口にそっと両手をかざす。
淡い月の光のような魔力が、彼女の手から溢れ出した。
信じられないことに、パックリと開いていた傷口が、シュルシュルと音を立てて塞がっていく。痛みも完全に消え去った。
「す、すげぇ……。あ、ありがてぇ」
「えへへ、どういたしまして。平和が一番だよねー」
彼女はニコッと笑い、ポケットから飴玉を取り出そうとした。
――その時だった。
「……ッ、ケホッ」
彼女の口から、ゴボッと鮮血が吐き出された。
赤い血が、彼女の服と地面を汚す。
「な、何!? お、お前、無理したのか!?」
俺は慌てて彼女の肩を支えた。
魔法の代償か何かは知らないが、明らかに自分の生命力を削って俺を治したのだ。
「大丈夫、大丈夫。いつものことだから」
彼女は人参柄の刺繍が入った手作りのハンカチで口元の血を拭うと、ニコリと笑って飴玉を口に放り込んだ。
「ここはまだ魔物が出るから危ないよ。私の村……ポポロ村に行こっ!」
「お前……」
俺は言葉を失った。
見ず知らずの他人のために、己の血を吐いてまで傷を治す。
そして、見返りすら求めず、安全な場所へ案内しようと笑う。
(……こいつ、算盤が合わねぇ)
元商社マンの俺の脳内で、猛烈な勢いで損益計算が弾き出される。
こんな一方的な『大赤字』の取引、資本主義のルールではあり得ない。
見ず知らずの男への、完全なる『無償の愛』。
「……ふぅ」
俺はポケットから、常備しているコーヒーキャンディを取り出した。
奥歯で、ガリッ! と勢いよく噛み砕く。
苦味と甘みが口の中に広がり、商社マンとしてのスイッチが完全に切り替わる。
(自分を削って他人を助ける、馬鹿みたいなお人好し。……上等だ)
こんな理不尽な善意を向けられて、そのままにしておけるほど、俺のプライドは安くない。
(こいつの算盤……俺が黒字にしてやらねぇと、俺の気が済まねぇ!)
「……分かった。案内してくれ。俺は力武義正だ」
「義正くんだね! 私はキャルル。ポポロ村の村長だよ。よろしくね!」
血のついた口元で笑うウサギ耳の村長と、スーツ姿の元エリート商社マン。
俺の異世界での『取引』は、この瞬間から始まった。




