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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第7話(後編)――「黒岩の夜を止める」

ローザは黒岩の車に乗らなかった。だが、黒岩が退いたわけではない。「今夜はな」と言い残し、明日は借金と帳尻の話をすると匂わせた。尚人は店を出ず、五反田ビルに残る。7階ではルースたちが息を潜めていた。横須賀には逃げ部屋ができている。弁護士と通訳も手配へ動いている。後編では、尚人がこの夜を勝ちに行くのではなく、負けない夜として越えていく。

 尚人は店を出ず、3階の入口脇にしばらく立った。客として座れば、黒岩に余計な材料を与える。所有者として立っている方がよい。


 案内係の男が何度かこちらを見たが、話しかけてこなかった。黒岩から何か言われたらしい。店の奥では、黒岩が電話をかけている。声は聞こえない。だが、受話器を持つ肩に力が入っていた。


 午後9時を過ぎたころ、尚人は4階、5階、6階を順に見て回った。店の客から見えない場所で、建物の状態を確認するためである。非常階段の扉、廊下の照明、消火器の位置、物が置かれた踊り場。どれも完全には整っていない。これまでの所有者は、賃料さえ入れば細部を見なかったのだろう。


 7階へ上がると、空気が変わった。


 廊下には湿った洗濯物の匂いがこもっていた。昼間より強い。部屋の中から、女たちの小さな声が聞こえる。尚人が近づくと、その声が一度止まった。


 扉が少し開き、ルースが顔を出した。昼よりも化粧が薄い。目だけが強い。


 「ローザは」


 「下にいる。今夜は事務所へ行かせない」


 ルースは息を吐いた。安心したというより、次の危険を考えている顔だった。


 「黒岩は怒っているでしょう」


 「怒っている」


 「明日は、もっと怒ります」


 「そうだろうな」


 尚人は廊下の壁に背を向け、部屋の中を見ないようにした。女たちの部屋へ、男が不用意に視線を入れるべきではない。


 「荷物はまとめるな。まだ動いたと分かることはしない方がいい。大事な物だけ、自分で持てるようにしておけ。パスポートが誰の手元にあるか、あとで教えてほしい」


 ルースは少し黙った。


 「パスポートは、黒岩さんが持っています」


 「全員分か」


 「多分です。店の金庫にあります。ない子もいるかもしれません。はっきりとは分かりません」


 尚人は頷いた。


 「分かった。無理に取り返すな。場所だけ知りたい」


 部屋の奥から、小さな声がした。タガログ語だった。ルースが振り返り、何か答える。女たちの声には、不安と眠気が混じっていた。店に出ていない者も、今夜の空気を感じているのだろう。


 ルースは尚人を見た。


 「あなたは、本当に私たちを助けるつもりですか」


 「助ける」


 「なぜですか」


 昼にも似た問いだった。だが、今はもっと重かった。尚人は少し考えてから答えた。


 「このビルの中で、見てしまったからだ」


 ルースの眉が動いた。


 「それだけですか」


 「それだけではない。黒岩は、別の土地の件でも人を潰そうとしている。杉山という人が、黒岩たちのような連中に追い込まれた。私はそれを許さない」


 「私たちは、土地とは関係ありません」


 「関係ある」


 尚人ははっきり言った。


 「人を騙す男は、土地でも女でも同じことをする。相手が弱いと思えば、書類でも借金でも部屋でも縛る。だから関係がある」


 ルースは、しばらく尚人を見ていた。やがて、小さく頷いた。


 「分かりました。まだ全部は信じられません。でも、今夜は信じます」


 「それでいい」


 尚人はそう答えた。


 全部信じろと言っても無理である。信じるには時間がいる。今夜必要なのは、全面的な信頼ではない。黒岩の車に乗らないだけの勇気だった。


 下の階から、ドアの閉まる音が響いた。黒岩が動いたのかもしれない。


 尚人は階段の方へ視線を向けた。


 「鍵をかけておけ。誰かが来ても、すぐ開けるな。私かローザの声を聞いてからにしなさい」


 ルースは頷き、静かに扉を閉めた。


 ◇ ◇ ◇


 午後10時すぎ、尚人は506号室へ入った。この日の昼から臨時の拠点にしている部屋である。電気をつけると、裸電球の光が白い壁に落ちた。窓の外では、五反田の看板が相変わらず光っている。店の音は床を通して低く響き、時々、女の笑い声が薄く上がってきた。


 尚人は電話をかけた。


 杉浦はすぐに出た。


 「はい、杉浦です」


 「尚人です。黒岩がローザを事務所へ連れて行こうとしました。今夜は止めました」


 受話器の向こうで、杉浦の息がわずかに変わった。


 「ご無事ですか」


 「大丈夫です。まだ正面からはぶつかっていません。ビル所有者として、住居使用と従業員の外部連れ出しを確認すると伝えました」


 「黒岩側は引きましたか」


 「今夜だけです。明日は動くでしょう」


 「では、明日の朝までに弁護士に同席してもらう段取りを取ります。通訳も探しています。タガログ語ができる女性を優先します」


 「お願いします。警察はまだ動かさない。先に女たちの意思確認と、パスポート、借金、住居の実態を押さえる」


 「承知しました」


 尚人は続けた。


 「横須賀の1DKはどうなっていますか」


 「布団、米、鍋、洗面用品は入れました。人数が多いので狭いですが、今日から使えます」


 「それでいい。まず寝られればいい」


 「遊興ビルの方は、佑馬さんが売主側と話しています。明日、買付証明と手付の段取りに入れます」


 「止めないでください。そちらは会社の事業として進める」


 「はい」


 尚人は受話器を握り直した。手のひらに汗があった。


 「杉浦さん。明日、黒岩が金を要求してきます」


 「でしょうね」


 「上限は1200万円です。それ以上は出さない。払う場合も、領収書と名目を取る。女たちに返済は求めない」


 「その整理で進めます」


 「会社の金ではありません。私個人の金です」


 「分かっています。会社の遊興ビル取得とは完全に分けます」


 杉浦の声は落ち着いていた。その落ち着きが、尚人の呼吸を整えた。


 「明朝、私は五反田にいます。弁護士と通訳は、こちらへ寄越してください」


 「かしこまりました。午前9時を目標にします」


 電話を切ると、部屋の中に店の低い音だけが残った。


 尚人は椅子に座り、机の上に封筒を置いた。黒岩をすぐ追い出したい気持ちはある。だが、それをやれば、女たちの荷物、パスポート、借金、在留資格の問題が一気に散る。黒岩が逃げ、別の男が出てくるかもしれない。町田小山田の線も切れる。


 怒りで動いてはいけない。


 啓子の声が、また頭の中で響いた。


 表向きは、ただ商売をしている顔で進める。


 尚人は目を閉じ、1度だけ深く息を吐いた。


 ◇ ◇ ◇


 午後11時を過ぎたころ、階段に足音がした。


 重い足音だった。黒岩である。


 尚人は立ち上がらなかった。扉の外で足音が止まる。ノックはない。少し間を置いて、扉の向こうから黒岩の声がした。


 「大家さんよ」


 尚人は扉越しに答えた。


 「何でしょう」


 「明日、話をしようじゃないか。女の借金も、部屋のことも、全部な」


 「分かりました。午前中に」


 「場所はうちの事務所だ」


 「このビルでお願いします」


 沈黙が落ちた。


 黒岩は低く笑った。


 「ずいぶん警戒するな」


 「所有者として、この建物の件を確認するだけです。場所を変える理由はありません」


 「弁護士を連れてくるのか」


 「必要な人を呼びます」


 黒岩の声が少し硬くなった。


 「後悔するぞ」


 「そうならないように、書面で確認します」


 扉の向こうで、黒岩が舌打ちした。足音が離れる。階段を降りる音が、鉄の中で何度も反響した。


 尚人は扉の内側で、しばらく動かなかった。


 怖くないわけではない。黒岩は暴力に慣れた男である。尚人は殴り合いなら負けない自信があったが、これはそういう問題ではない。暴力は、正面から来るとは限らない。女たちの家族、パスポート、在留資格、借金、店の客、町田の土地。黒岩はどこへ手を伸ばすか分からない。


 だからこそ、今夜は勝ちに行かない。


 負けないようにする夜だった。


 下の階では、またカラオケが始まった。女の声が、少し震えながらも明るく伸びている。ローザの声ではない。だが、どの女の声にも、今夜だけの硬さがあった。


 尚人は窓を少し開けた。冷えた夜気が入る。外の路地では、黒岩の車らしい黒いセダンが、しばらく止まっていた。運転席に男が1人いる。煙草の火が赤く点いた。


 やがて、車はゆっくり動き出した。


 尚人はその尾灯が角を曲がるまで見ていた。


 ローザは今夜、車に乗らなかった。


 それだけで十分だった。


 机の上には、横須賀の1DKの住所を書いたメモがある。狭い部屋、積まれた布団、米と鍋。まだ粗末な逃げ場にすぎない。だが、黒岩の車に乗るよりは、はるかにいい。


 尚人はメモを封筒に入れ、上着の内ポケットへしまった。


 明日は、黒岩が金を払えと言うだろう。女たちを返せと言うだろう。パスポートは預かっていると言うかもしれない。逃げれば家族に電話すると脅すかもしれない。


 それでも、今日よりはましである。


 今日、ローザは「行きたくありません」と口にした。


 その言葉が出た以上、もう黒岩だけの夜ではない。


 五反田のビルの中で、最初の線が切れたのである。

後編では、尚人が五反田ビルに残り、ローザを守りながら、翌朝の交渉へ備える。7階のルースたちはまだ完全には尚人を信じていない。それでも、今夜だけは信じると決める。尚人は杉浦へ連絡し、弁護士、女性通訳、横須賀の1DK、借金立替枠の準備を確認する。黒岩は扉の外で明日の話を持ちかけるが、尚人は場所を黒岩の事務所ではなく、このビルに限る。今夜は勝ちに行く夜ではない。負けないようにする夜だった。ローザが黒岩の車に乗らなかったことで、五反田の夜に最初の切れ目が入った。

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