第7話(後編)――「黒岩の夜を止める」
ローザは黒岩の車に乗らなかった。だが、黒岩が退いたわけではない。「今夜はな」と言い残し、明日は借金と帳尻の話をすると匂わせた。尚人は店を出ず、五反田ビルに残る。7階ではルースたちが息を潜めていた。横須賀には逃げ部屋ができている。弁護士と通訳も手配へ動いている。後編では、尚人がこの夜を勝ちに行くのではなく、負けない夜として越えていく。
尚人は店を出ず、3階の入口脇にしばらく立った。客として座れば、黒岩に余計な材料を与える。所有者として立っている方がよい。
案内係の男が何度かこちらを見たが、話しかけてこなかった。黒岩から何か言われたらしい。店の奥では、黒岩が電話をかけている。声は聞こえない。だが、受話器を持つ肩に力が入っていた。
午後9時を過ぎたころ、尚人は4階、5階、6階を順に見て回った。店の客から見えない場所で、建物の状態を確認するためである。非常階段の扉、廊下の照明、消火器の位置、物が置かれた踊り場。どれも完全には整っていない。これまでの所有者は、賃料さえ入れば細部を見なかったのだろう。
7階へ上がると、空気が変わった。
廊下には湿った洗濯物の匂いがこもっていた。昼間より強い。部屋の中から、女たちの小さな声が聞こえる。尚人が近づくと、その声が一度止まった。
扉が少し開き、ルースが顔を出した。昼よりも化粧が薄い。目だけが強い。
「ローザは」
「下にいる。今夜は事務所へ行かせない」
ルースは息を吐いた。安心したというより、次の危険を考えている顔だった。
「黒岩は怒っているでしょう」
「怒っている」
「明日は、もっと怒ります」
「そうだろうな」
尚人は廊下の壁に背を向け、部屋の中を見ないようにした。女たちの部屋へ、男が不用意に視線を入れるべきではない。
「荷物はまとめるな。まだ動いたと分かることはしない方がいい。大事な物だけ、自分で持てるようにしておけ。パスポートが誰の手元にあるか、あとで教えてほしい」
ルースは少し黙った。
「パスポートは、黒岩さんが持っています」
「全員分か」
「多分です。店の金庫にあります。ない子もいるかもしれません。はっきりとは分かりません」
尚人は頷いた。
「分かった。無理に取り返すな。場所だけ知りたい」
部屋の奥から、小さな声がした。タガログ語だった。ルースが振り返り、何か答える。女たちの声には、不安と眠気が混じっていた。店に出ていない者も、今夜の空気を感じているのだろう。
ルースは尚人を見た。
「あなたは、本当に私たちを助けるつもりですか」
「助ける」
「なぜですか」
昼にも似た問いだった。だが、今はもっと重かった。尚人は少し考えてから答えた。
「このビルの中で、見てしまったからだ」
ルースの眉が動いた。
「それだけですか」
「それだけではない。黒岩は、別の土地の件でも人を潰そうとしている。杉山という人が、黒岩たちのような連中に追い込まれた。私はそれを許さない」
「私たちは、土地とは関係ありません」
「関係ある」
尚人ははっきり言った。
「人を騙す男は、土地でも女でも同じことをする。相手が弱いと思えば、書類でも借金でも部屋でも縛る。だから関係がある」
ルースは、しばらく尚人を見ていた。やがて、小さく頷いた。
「分かりました。まだ全部は信じられません。でも、今夜は信じます」
「それでいい」
尚人はそう答えた。
全部信じろと言っても無理である。信じるには時間がいる。今夜必要なのは、全面的な信頼ではない。黒岩の車に乗らないだけの勇気だった。
下の階から、ドアの閉まる音が響いた。黒岩が動いたのかもしれない。
尚人は階段の方へ視線を向けた。
「鍵をかけておけ。誰かが来ても、すぐ開けるな。私かローザの声を聞いてからにしなさい」
ルースは頷き、静かに扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
午後10時すぎ、尚人は506号室へ入った。この日の昼から臨時の拠点にしている部屋である。電気をつけると、裸電球の光が白い壁に落ちた。窓の外では、五反田の看板が相変わらず光っている。店の音は床を通して低く響き、時々、女の笑い声が薄く上がってきた。
尚人は電話をかけた。
杉浦はすぐに出た。
「はい、杉浦です」
「尚人です。黒岩がローザを事務所へ連れて行こうとしました。今夜は止めました」
受話器の向こうで、杉浦の息がわずかに変わった。
「ご無事ですか」
「大丈夫です。まだ正面からはぶつかっていません。ビル所有者として、住居使用と従業員の外部連れ出しを確認すると伝えました」
「黒岩側は引きましたか」
「今夜だけです。明日は動くでしょう」
「では、明日の朝までに弁護士に同席してもらう段取りを取ります。通訳も探しています。タガログ語ができる女性を優先します」
「お願いします。警察はまだ動かさない。先に女たちの意思確認と、パスポート、借金、住居の実態を押さえる」
「承知しました」
尚人は続けた。
「横須賀の1DKはどうなっていますか」
「布団、米、鍋、洗面用品は入れました。人数が多いので狭いですが、今日から使えます」
「それでいい。まず寝られればいい」
「遊興ビルの方は、佑馬さんが売主側と話しています。明日、買付証明と手付の段取りに入れます」
「止めないでください。そちらは会社の事業として進める」
「はい」
尚人は受話器を握り直した。手のひらに汗があった。
「杉浦さん。明日、黒岩が金を要求してきます」
「でしょうね」
「上限は1200万円です。それ以上は出さない。払う場合も、領収書と名目を取る。女たちに返済は求めない」
「その整理で進めます」
「会社の金ではありません。私個人の金です」
「分かっています。会社の遊興ビル取得とは完全に分けます」
杉浦の声は落ち着いていた。その落ち着きが、尚人の呼吸を整えた。
「明朝、私は五反田にいます。弁護士と通訳は、こちらへ寄越してください」
「かしこまりました。午前9時を目標にします」
電話を切ると、部屋の中に店の低い音だけが残った。
尚人は椅子に座り、机の上に封筒を置いた。黒岩をすぐ追い出したい気持ちはある。だが、それをやれば、女たちの荷物、パスポート、借金、在留資格の問題が一気に散る。黒岩が逃げ、別の男が出てくるかもしれない。町田小山田の線も切れる。
怒りで動いてはいけない。
啓子の声が、また頭の中で響いた。
表向きは、ただ商売をしている顔で進める。
尚人は目を閉じ、1度だけ深く息を吐いた。
◇ ◇ ◇
午後11時を過ぎたころ、階段に足音がした。
重い足音だった。黒岩である。
尚人は立ち上がらなかった。扉の外で足音が止まる。ノックはない。少し間を置いて、扉の向こうから黒岩の声がした。
「大家さんよ」
尚人は扉越しに答えた。
「何でしょう」
「明日、話をしようじゃないか。女の借金も、部屋のことも、全部な」
「分かりました。午前中に」
「場所はうちの事務所だ」
「このビルでお願いします」
沈黙が落ちた。
黒岩は低く笑った。
「ずいぶん警戒するな」
「所有者として、この建物の件を確認するだけです。場所を変える理由はありません」
「弁護士を連れてくるのか」
「必要な人を呼びます」
黒岩の声が少し硬くなった。
「後悔するぞ」
「そうならないように、書面で確認します」
扉の向こうで、黒岩が舌打ちした。足音が離れる。階段を降りる音が、鉄の中で何度も反響した。
尚人は扉の内側で、しばらく動かなかった。
怖くないわけではない。黒岩は暴力に慣れた男である。尚人は殴り合いなら負けない自信があったが、これはそういう問題ではない。暴力は、正面から来るとは限らない。女たちの家族、パスポート、在留資格、借金、店の客、町田の土地。黒岩はどこへ手を伸ばすか分からない。
だからこそ、今夜は勝ちに行かない。
負けないようにする夜だった。
下の階では、またカラオケが始まった。女の声が、少し震えながらも明るく伸びている。ローザの声ではない。だが、どの女の声にも、今夜だけの硬さがあった。
尚人は窓を少し開けた。冷えた夜気が入る。外の路地では、黒岩の車らしい黒いセダンが、しばらく止まっていた。運転席に男が1人いる。煙草の火が赤く点いた。
やがて、車はゆっくり動き出した。
尚人はその尾灯が角を曲がるまで見ていた。
ローザは今夜、車に乗らなかった。
それだけで十分だった。
机の上には、横須賀の1DKの住所を書いたメモがある。狭い部屋、積まれた布団、米と鍋。まだ粗末な逃げ場にすぎない。だが、黒岩の車に乗るよりは、はるかにいい。
尚人はメモを封筒に入れ、上着の内ポケットへしまった。
明日は、黒岩が金を払えと言うだろう。女たちを返せと言うだろう。パスポートは預かっていると言うかもしれない。逃げれば家族に電話すると脅すかもしれない。
それでも、今日よりはましである。
今日、ローザは「行きたくありません」と口にした。
その言葉が出た以上、もう黒岩だけの夜ではない。
五反田のビルの中で、最初の線が切れたのである。
後編では、尚人が五反田ビルに残り、ローザを守りながら、翌朝の交渉へ備える。7階のルースたちはまだ完全には尚人を信じていない。それでも、今夜だけは信じると決める。尚人は杉浦へ連絡し、弁護士、女性通訳、横須賀の1DK、借金立替枠の準備を確認する。黒岩は扉の外で明日の話を持ちかけるが、尚人は場所を黒岩の事務所ではなく、このビルに限る。今夜は勝ちに行く夜ではない。負けないようにする夜だった。ローザが黒岩の車に乗らなかったことで、五反田の夜に最初の切れ目が入った。




