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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第7話(前編)――「ローザを渡さない夜」

横須賀に逃げ場はできた。古い遊興ビルも、買えるところまで来た。だが、ローザたちはまだ五反田にいる。黒岩辰夫は異変を嗅ぎ取り、ローザを自分の事務所へ連れて行こうとしていた。尚人は五反田へ戻る。まだ黒岩を追い出す時ではない。町田小山田の罠も、女たちを逃がす段取りも、途中で崩してはならない。今夜の目的は1つだけである。ローザを黒岩の車に乗せないことだった。

 (1986年4月19日土曜日午後7時40分、東京・五反田)


 五反田の夜は、土曜日らしく早い時間から濃くなっていた。


 駅前の信号が変わるたび、人の流れが横断歩道へあふれ出す。背広姿の男、化粧の濃い女、酔う前から声の大きい若い客、店の呼び込み。路面には昼間の湿りがまだ残り、ネオンの赤や青が、ところどころ油膜のようににじんでいた。焼き鳥の煙、安い香水、排気ガス、古いビルの裏口から出る生ごみの匂いが、狭い通りの中で混ざっている。


 尚人はビルから少し離れた駐車場に車を入れた。ビルの前には停めない。黒岩の目がどこにあるか分からないからである。


 車を降りる前に、尚人は小さな封筒の中身を確認した。五反田ビルの賃貸借契約書の写し、3階店舗の家賃入金表、7階住居部分の使用状況を確認するためのメモが入っている。給与明細の束は持って来なかった。今夜それを出せば、黒岩との争いが始まってしまう。


 今夜、争いを始めるつもりはない。


 やることは1つだけだった。


 ローザを渡さない。


 尚人は車のドアを閉め、ビルへ向かった。歩きながら、通りのガラスに映る自分の姿を一度だけ見た。22歳の体は大きく、肩幅もある。だが、顔はまだ若い。黒岩のような男から見れば、金を持った若造に見えるだろう。それは都合がよかった。相手がこちらを軽く見れば、その分だけ油断する。


 ビルの前まで来ると、3階の看板の灯りがついていた。フィリピンパブの文字が古い蛍光灯に照らされ、青白く浮いている。入口脇では、案内係の男が煙草を吸っていた。尚人を見ると、男は一瞬だけ目を細めた。


 「あれ、前にも来たお客さんですよね」


 「今日は客ではありません」


 尚人は内ポケットから名刺を出した。


 「このビルの所有者です。管理上の確認で来ました」


 男の顔から軽さが消えた。煙草を持つ手が止まる。


 「オーナーさんですか」


 「そうです。黒岩さんは中ですか」


 「います。奥の事務室に」


 「呼ばなくていい。こちらから上がります」


 尚人は階段へ足をかけた。鉄の段は昼間より冷たく、靴底が乾いた音を返した。2階からはカラオケの音が漏れ、3階へ近づくほど、酒と煙草と香水の匂いが濃くなっていく。扉の向こうでは、女の笑い声がした。明るい声だった。だが、尚人には、その明るさの底に細い緊張が張っているように聞こえた。


 3階の扉を開けると、店の中は客で半分ほど埋まっていた。


 ローザは奥の席にいた。客の隣でグラスを持ち、笑っている。入口へ目だけが一瞬走った。尚人と目が合った。すぐに客へ向き直ったが、肩に入っていた力が少し変わった。


 黒岩辰夫は、カウンター奥の狭い事務室から出てきたところだった。濃い灰色の背広を着ている。首が太く、顔には赤みがある。目は笑っていなかった。手には黒い手帳を持っている。


 「誰だ」


 声は低く、店の音の下を這うように届いた。


 尚人はまっすぐ歩き、黒岩の前で止まった。


 「早乙女尚人です。このビルの所有者です」


 黒岩の眉が動いた。驚きはすぐに消えたが、目の奥に計算する色が入った。


 「ああ、新しい大家さんか。若いんだな」


 「年齢は関係ありません。建物の使用状況について確認に来ました」


 黒岩は手帳を閉じた。


 「こんな時間にか」


 「夜の店です。夜に来なければ分からないこともあります」


 黒岩は鼻で笑った。


 「ずいぶん熱心だな。こっちはちゃんと商売してる。家賃も払ってる。何か文句でもあるのか」


 尚人は声を荒げなかった。


 「家賃の話は、今日はしません。今夜は7階の住居部分と、従業員の居住実態を確認します」


 黒岩の目が少し細くなった。


 「従業員の居住実態?」


 「この店で働く人が、7階に寝泊まりしている可能性があります。人数、鍵の管理、防火、衛生、非常口の確保。所有者として確認が必要です」


 店の中の音が、少しだけ遠くなった。実際には音は変わっていない。ただ、周囲の何人かが聞き耳を立てたのである。ローザは客のグラスを作りながら、こちらを見ないようにしていた。だが、手の動きがいつもより遅い。


 黒岩は尚人に顔を寄せた。


 「兄ちゃん。そういう話は昼にしてくれ。今は営業中だ」


 「分かりました。営業の邪魔はしません」


 尚人は黒岩の目を見たまま続けた。


 「ただし、今夜、店で働く人を外の事務所へ連れて行く話があるなら、それはこの場で確認します」


 黒岩の表情が止まった。


 ほんの一瞬だった。だが、尚人は見逃さなかった。


 「誰がそんなことを言った」


 「誰から聞いたかは関係ありません。このビルで働き、上階に寝泊まりしている人を、夜間に店の外へ連れて行くなら、本人の意思を確認します。誰が連れて行き、どこで何を話すのかも聞きます。7階が住居として使われている以上、所有者として曖昧にはできません」


 黒岩は笑った。声だけの笑いだった。


 「女の管理まで大家がやるのか。ずいぶん暇な大家だな」


 「人の管理ではありません。建物の管理です」


 尚人は一歩も引かなかった。


 「このビルの中に、住居として使われている部屋がある。そこにいる人が、借金や罰金を理由に夜間外へ連れ出される。あとで何か起きた時、私は知らなかったとは言えません」


 黒岩の手帳を持つ指に力が入った。厚い指の関節が白くなる。


 「借金の話まで知ってるのか」


 「一般論です」


 「一般論にしちゃ、ずいぶん踏み込むじゃないか」


 「踏み込ませたのは、そちらの使い方です」


 黒岩の顔に、怒りがうっすら浮いた。だが、店の中で怒鳴るほど愚かではなかった。ここは自分の持ちビルではない。目の前にいる若い男が本当に所有者なら、ここで騒ぎを大きくするのは得ではない。黒岩もそれを分かっていた。


 黒岩は声を落とした。


 「ローザを少し連れて行くだけだ。給料と借金の確認だよ。うちの女だ」


 「本人に確認します」


 「必要ない」


 「必要です」


 尚人の声は平らだった。


 「本人が行きたくないと言えば、今夜は連れて行かせません」


 黒岩は唇を歪めた。


 「おい、兄ちゃん。若い女に少し優しくされて、勘違いしたか。あいつらはな、金を借りて日本に来てるんだ。遊びに来てるんじゃない。こっちは面倒を見てるんだよ」


 「面倒を見ることと、本人の意思を聞かずに連れて行くことは違います」


 「世間知らずだな」


 「かもしれません」


 尚人はそう答えた。


 「ですが、このビルについては、私が責任を負う立場です。今夜は私の判断で止めます」


 黒岩の目が、初めてはっきり険しくなった。


 「止める?」


 「ええ。止めます」


 その言葉で、店の奥にいたルースがわずかに顔を上げた。客の相手をしているふりをしていたが、耳は完全にこちらへ向いている。ローザの手は、グラスの上で止まっていた。


 黒岩は振り返り、ローザを呼んだ。


 「ローザ、こっちへ来い」


 ローザは一瞬、客に笑いかけ、ゆっくり立った。スカートの裾を直し、グラスをテーブルへ置く。その動きは店の女としては自然だった。だが、尚人には、膝に力が入っていないのが分かった。


 ローザは黒岩の前で止まった。


 黒岩は日本語で言った。


 「事務所へ行く。給料の話だ。車を下に回してある」


 ローザは唇を動かしたが、声が出なかった。


 尚人はローザを見た。


 「ローザさん。今夜、事務所へ行きたいですか」


 黒岩が割って入る。


 「お前は黙ってろ」


 尚人は黒岩を見ずに続けた。


 「あなたの意思を聞いています。行きたいなら止めません。行きたくないなら、ここに残りなさい」


 ローザの目が揺れた。店の照明が、その黒い瞳の中で小さく割れている。彼女は黒岩を見た。次に尚人を見た。さらに、客席の奥にいるルースを見た。


 ルースは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ顎を引いた。


 ローザは、かすれた声で言った。


 「今日は、行きたくありません」


 黒岩の顔が赤くなった。


 「何だと」


 ローザは肩を震わせた。だが、もう一度言った。


 「今日は店があります。お客さんもいます。私は、事務所へ行きたくありません」


 黒岩が一歩前へ出た。尚人も同時に半歩動いた。黒岩とローザの間に、体を割り込ませるほどではない。ただ、黒岩の進路に尚人の肩が入る位置だった。


 「黒岩さん」


 尚人は静かに言った。


 「本人は行かないと言いました。今夜はここまでです」


 黒岩は尚人の胸元を見た。身長差はある。黒岩も大きい男だったが、尚人の肩と腕の厚みは背広越しにも分かる。殴り合いになれば面倒な相手だと見たのだろう。黒岩はすぐには手を出さなかった。


 「大家さんよ。あんた、うちの商売を邪魔する気か」


 「邪魔はしません。営業は続けてください」


 「じゃあ、引っ込んでろ」


 「今夜は引っ込みません」


 尚人は言った。


 「閉店まで、この建物にいます。7階の確認もします。必要なら明日、契約名義、使用人数、防火設備、非常口、鍵の管理について、書面で説明を求めます」


 黒岩は笑った。今度は怒りを隠すための笑いだった。


 「細かいことを言いやがる」


 「建物は、細かいところから崩れます」


 言った瞬間、尚人は秋谷で啓子が口にした言葉を思い出した。


 広い座敷より、狭いところから崩れる。


 黒岩はその意味を知らない。だが、尚人には分かっていた。黒岩の商売も同じである。派手な店構えや大声ではなく、鍵、部屋、借金、名簿、パスポート。そういう狭いところから人を縛っている。ならば、そこを1つずつ外していくしかない。


 黒岩はローザを睨んだ。


 「後で話す」


 ローザは顔を伏せた。


 尚人はすぐに言った。


 「後で話すなら、このビル内で、第三者のいる場所でお願いします。少なくとも今夜、車には乗せない」


 黒岩は尚人を見た。


 「本気で言ってるのか」


 「本気です」


 黒岩はしばらく黙った。店のカラオケがちょうど終わり、拍手がまばらに起きた。その音の中で、黒岩は手帳を背広の内ポケットへ入れた。


 「分かったよ。今夜はな」


 尚人は答えなかった。


 黒岩は続けた。


 「だが、明日は別だ。こっちにも帳尻ってもんがある。女どもをただで置いてるわけじゃない」


 「その話は、明日聞きます」


 「弁護士でも連れてくる気か」


 「必要なら」


 黒岩の口元がゆがんだ。


 「若造が」


 黒岩はそれだけ言うと、カウンターの奥へ戻った。だが、完全に引いたわけではない。背中に怒りが残っている。店の女たちは、誰もそれを見ないふりをした。客も、ただ空気が悪くなったことだけを感じ、酒を飲む速度を少し変えた。


 ローザは尚人のそばに立ったままだった。


 尚人は声を落とした。


 「席へ戻りなさい。急に態度を変えない。いつも通りにする」


 ローザは頷いた。


 「尚人さん、怖いです」


 「怖いなら、怖い顔をしない方がいい。客には笑っておきなさい」


 ローザは唇を結び、無理に笑おうとした。うまく笑えなかった。尚人は、少しだけ声を柔らかくした。


 「今夜は、私がこのビルにいます」


 ローザの目に、かすかに水が浮いた。だが、泣かなかった。店の中で泣けば、あとで理由を聞かれる。それが分かっているのだろう。


 「はい」


 ローザはそれだけ言い、席へ戻った。

前編では、尚人が黒岩と初めて正面から向き合い、ローザを事務所へ連れて行かせない。黒岩を倒すためではなく、今夜だけローザを車に乗せないための対決である。尚人はビル所有者として、住居部分、鍵、防火、非常口、従業員の外部連れ出しという建物管理の線から入る。ローザが「今日は、行きたくありません」と自分の口で言えたことが、この夜の大きな変化である。

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