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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第6話(後編)――「横須賀中央の古い看板」

尚人は、ローザたちを逃がす場所と、その後に働ける場所を作るため、横須賀中央へ向かう。杉浦はすでに、横須賀の1DKへ布団や米、鍋、洗面具を入れ始めていた。さらに、商店街裏手には古い遊興ビルの候補がある。1階は閉めた喫茶店、2階は元スナック、3階は事務所跡、4階は住居と物置。壊れかけた看板と古い床の奥に、尚人はローザたちが黒岩から離れたあとに働ける場所を見始める。だが、五反田では黒岩がローザを事務所へ連れて行こうとしていた。

 (1986年4月19日土曜日午後2時20分、横須賀中央、商店街裏手)


 横須賀中央の商店街は、土曜の午後の顔をしていた。


 魚屋の前には氷が白く積まれ、鯵とイカの匂いが路面に広がっている。惣菜屋からは揚げ物の油の匂いが流れ、焼き鳥屋の煙が看板の下へ薄く溜まっていた。米軍の兵士らしい若い男が2人、英語で笑いながら通りを抜けていく。制服の日本人、買い物袋を下げた主婦、学生服の少年。いろいろな足音が、狭い道の上で重なっていた。


 杉浦は、駅から少し離れた角で待っていた。


 濃紺のスーツに、黒い書類鞄。土曜の商店街には少し硬い格好だったが、彼女は周囲から浮くことを気にしていないようだった。横には佑馬もいた。佑馬は物件探しだけを頼まれたはずなのに、顔にはすでに何かを察した色がある。


 「お待ちしていました」


 杉浦が頭を下げた。


 「横須賀の1DKは、午後1時までに最低限の物を入れました。布団10組、米、味噌、缶詰、卵、鍋、やかん、タオル、石鹸、歯ブラシ。炊飯器は1台では足りないので、もう1台を夕方に入れます」


 「ありがとう。費用は」


 杉浦は手帳を開いた。


 「今日の買い入れで28万6000円です。布団と寝具が大きいです。衣類は、女性たちのサイズを確認してからにしています」


 「それでいい。費用は私個人につけてください。会社の経費にはしない」


 杉浦は小さく頷いた。


 「承知しました」


 佑馬が少し眉を上げた。


 「ずいぶん急ですね」


 尚人は佑馬を見た。


 「事情は、今は聞かないでくれ」


 佑馬は一瞬だけ黙り、それから頷いた。


 「分かりました。物件の話だけします」


 その切り替えは早かった。尚人は、それをありがたいと思った。佑馬は好奇心の強い男だが、聞いてはいけない場所を見分ける程度には大人である。


 杉浦は商店街の裏へ目を向けた。


 「遊興ビルの候補は2件あります。1つは駅に近いですが、権利関係が少し面倒です。もう1つは、この先の角を曲がったところです。古いですが、土地建物とも所有者は1人です。そちらを先に見た方がよいと思います」


 「価格は」


 「売主の希望は1億7800万円です。ただ、相続と借入の整理を急いでいます。決済が早い買い手なら、1億6200万円から1億6500万円で話が通る可能性があります」


 「銀行の融資は間に合うか」


 「月曜朝に支店へ持ち込みます。尚人さん個人名義の賃貸物件を担保に出し、購入物件にも抵当をつける形です。手付金相当は短期のつなぎ融資で組ませます。自己資金は使いません」


 「それでいい」


 尚人は、歩きながら聞いた。


 「建物は」


 「鉄筋コンクリート4階建て。土地は約42坪。延床は約135坪です。1階は閉めた喫茶店、2階は元スナック兼小さなショーパブ、3階は貸し事務所跡、4階は住居と物置です。エレベーターはありません。階段は狭いですが、構造はまだ使えます」


 「水回りは」


 「1階の厨房は古いですが、配管は生きています。2階にも簡単な流しがあります。4階の風呂は、そのままでは使えません。手直しが必要です」


 尚人は頷いた。


 商店街の裏手に入ると、昼の明るさが少し弱まった。表通りの声は近いのに、建物の影が落ちるだけで空気が変わる。古い看板、剥がれたポスター、錆びたシャッター。コンクリートの壁には雨の跡が縦に残り、排気と油の匂いが染み込んでいた。


 その角に、問題のビルはあった。


 1階のガラスには、内側から新聞が貼られていた。外れかけた看板に「喫茶みさき」と読める古い文字が残っている。2階には、赤い電飾看板の跡があり、球は半分以上抜けていた。3階の窓にはブラインドが斜めに下がり、4階のベランダには錆びた物干し竿が1本だけ残っている。


 尚人は足を止めた。


 古い。だが、死んではいない。


 表通りから1本入っているため、家賃は正面ほど高くない。しかし、人は流れてくる。駅から歩ける。夜の客も来る。昼の喫茶も出せる。黒岩の五反田とは違う空気がある。雑だが、港の匂いがある。


 「中を見ます」


 杉浦が鍵を出した。


 仲介の男が横から現れ、頭を下げた。50代くらいで、少し古い背広を着ている。首筋に汗が光り、手には大きな鍵束を持っていた。


 「こちらです。だいぶ古いですが、場所は悪くありません」


 尚人は名刺を受け取った。相手の声には、早く決めてほしいという焦りが薄く混じっている。売主側の事情が透けていた。


 1階の扉が開くと、こもった空気が流れ出した。


 古いコーヒー豆、油、埃、湿った木の匂い。カウンターは残っており、奥の厨房には銀色の流しと、錆びたガス台があった。床のタイルは一部が割れている。だが、広さはある。椅子を置き直し、厨房を入れ替えれば、フィリピン料理も出せる喫茶兼軽食店にできる。


 ローザたちが昼間にここで働く姿を、尚人は一瞬だけ思い浮かべた。


 米を炊く。鶏肉を煮る。コーヒーを出す。客に笑う。夜の店へ出ない女でも、ここなら立てる。料理が苦手なら皿を運べばいい。日本語がまだ弱い者には、厨房や仕込みを任せてもいい。


 黒岩の店では、女たちは客の前に立たされるだけだった。


 ここでは、仕事を選べる余地を作る。


 その違いが大事だった。


 2階へ上がる階段は、幅が狭かった。手すりは金属で、触ると冷たく、少しべたついた。2階の扉を開けると、古い酒と煙草の匂いが一気に出た。


 元のスナックは、赤い絨毯の色が褪せ、壁の鏡には曇りが残っていた。小さなステージがあり、古いカラオケ機材の台だけが残っている。天井は低いが、音響を入れ替え、防音を直せば、フィリピン・カラオケパブには十分だった。


 佑馬がステージの端を靴で軽く押した。


 「床は沈んでいませんね」


 「使えそうか」


 「直せば使えます。客席は詰め込みすぎない方がいいでしょう。座席を増やしすぎると、黒岩の店と同じに見えます」


 尚人は佑馬を見た。


 「分かっているじゃないか」


 佑馬は苦笑した。


 「聞くなと言われても、何となくは分かります。女の子を客席に並べるだけの店ではなく、ちゃんと働ける店にしたいんでしょう」


 尚人は返事をしなかった。


 だが、否定もしなかった。


 3階は、事務所跡だった。窓から入る光に、埃が細かく浮いている。壁には古いホワイトボードの跡があり、床には机を引きずった傷が何本も残っていた。ここならライブラウンジにできる。酒を出すにしても、騒ぐ場所ではなく、静かに話せる場所にする。女たちが無理に笑わなくてもいい空間である。


 4階は住居だった。


 6畳と4畳半、台所、風呂、物置。畳は傷んでいるが、窓を開けると海に近い風が少し入った。五反田の空気とは違う。湿っているが、嫌な重さは少ない。遠くに港の気配がある。


 「ここは事務所と仮眠室にできるな」


 尚人が言うと、杉浦が手帳に書いた。


 「改装すれば使えます。ただ、女性たちの住まいにするなら、鍵と出入りの扱いを明確にした方がいいです」


 「住まいにはしない。あくまで事務所と休憩用だ。暮らす場所は別に用意する」


 「その方がよいです」


 杉浦はすぐに頷いた。


 黒岩の店との違いは、そこにもある。


 働く場所と寝る場所を、同じ支配の中へ閉じ込めない。仕事は仕事、住まいは住まい。鍵は本人が持つ。パスポートは本人が持つ。給料は明細を出す。部屋代を勝手に増やさない。


 当たり前のことばかりだった。


 だが、その当たり前が、ローザたちには与えられていなかった。


 ◇ ◇ ◇


 1階へ戻ると、仲介の男が少し前のめりになった。


 「いかがでしょう。古いですが、横須賀中央でこの大きさはなかなか出ません」


 尚人は、すぐには答えなかった。


 焦っているのは売り手側である。こちらが前のめりになる必要はない。床、配管、階段、看板、周辺の客の流れ。全部を頭の中で並べ直した。


 杉浦が小声で言った。


 「建物は古いですが、所有者が1人という点は強いです。担保は入っていますが、抹消の段取りは組めます。権利関係で長く揉める物件ではありません」


 「売主の事情は」


 「先代の店を閉めたあと、相続人が維持費を嫌がっています。固定資産税、借入、空き店舗の管理が重い。早く現金に変えたいようです」


 尚人は、仲介の男へ向いた。


 「売主の希望は1億7800万円でしたね」


 「はい。ただ、ご相談には応じます」


 「1億6200万円。手付は3000万円。月曜日に買付証明を入れます。契約は今週中。手付金は銀行の短期つなぎ融資で用意します。残代金も、銀行融資の実行で一括決済します。抵当権の抹消と残置物の扱いは、そちらで売主と詰めてください」


 仲介の男は、目を見開いた。


 金額を下げられた驚きではない。条件があまりに具体的だったからである。買う気のある客の言葉だった。


 「1億6200万円ですか。融資をお使いになるということですね」


 「そうです。ただし、銀行にはこちらから話を通します。売主に長く待たせるつもりはありません」


 「融資特約は」


 尚人は杉浦を見た。


 杉浦が静かに答えた。


 「買付段階では、銀行の事前内諾を条件にします。月曜朝に支店へ持ち込みます。尚人さん個人名義で買い、購入物件と個人名義の賃貸物件を担保に入れます。売主側には、決済日までに融資実行の見通しを明確にします」


 仲介の男は、少し考えてから頷いた。


 「承知しました。売主へ本日中に連絡します」


 杉浦が続けた。


 「諸費用と抹消書類の確認が必要です。買付証明は早乙女尚人個人名義で出します。登記関係は、こちらの司法書士も入れます」


 「個人名義ですね」


 「はい。会社名義ではありません」


 仲介の男は、そこを手帳に強く書き込んだ。


 尚人は、1階の古いカウンターをもう一度見た。


 ここでローザたちが、昼に食事を出す。夜は2階で歌う。3階では静かに客と話す。黒岩の店から抜けたあと、いきなり立派な生活が始まるわけではない。狭い1DKで身を寄せ合い、ここが開くまで待つことになる。それでも、先に働く場所が見えるだけで、人は違う息ができる。


 「買います」


 尚人は言った。


 仲介の男は、深く頭を下げた。


 その時、外の商店街から、子どもの声が聞こえた。買い物袋を下げた母親が、子どもの手を引いて歩いている。揚げ物の匂いと、港から来る湿った風が、開け放した入口から入った。


 尚人は思った。


 復讐は、五反田の暗い階段だけで終わらない。


 横須賀のこの古いビルでも、もう始まっている。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月19日土曜日午後4時40分、横須賀の独身者向け1DK)


 横須賀の1DKは、商店街から少し離れた古いマンションの2階にあった。


 外壁は薄い灰色で、階段の手すりには錆が浮いている。廊下を歩くと、洗濯物の匂いと味噌汁の匂いが混じっていた。どこかの部屋でテレビがついており、野球中継の声が壁越しに聞こえる。


 杉浦が鍵を開けた。


 部屋は狭い。玄関を入ると台所があり、その奥に6畳の和室がある。風呂とトイレは一緒だった。窓を開けると、隣の屋根と物干しが見えた。けれど、五反田の上階の部屋よりは、ずっとましだった。


 床には布団が畳まれて積まれ、壁際には米袋、缶詰、鍋、やかん、洗面具、タオルが並んでいた。新品の布団からは、綿と布の匂いがした。台所には、炊飯器が1台置かれている。もう1台は夕方に届く予定だという。


 尚人は畳に上がり、部屋の隅に立った。


 10人が入れば、身動きは取りにくい。眠る時は足の向きも考えなければならない。風呂も順番待ちだ。台所も狭い。ここを長く使うのは無理である。


 だが、黒岩から見えない。


 それだけで、今は十分だった。


 「近所には、何と説明しますか」


 杉浦が聞いた。


 「早乙女の関係者が短期で使う部屋、とだけでいい。会社の社宅とは言わないでください。女たちに早乙女土地売買の仕事をさせるわけではありません」


 「分かりました。尚人さん個人が一時的に借りている部屋という扱いにします」


 「それでいい」


 佑馬が台所を見て言った。


 「米は足りますか」


 「最初は足りる。足りなければ買えばいい」


 尚人は窓の外を見た。


 夕方の光が、屋根の上に斜めに落ちている。五反田のネオンとは違う、生活の光だった。どこかの家で包丁がまな板を叩く音がした。子どもが階段を駆け上がる音も聞こえる。


 ローザたちがここへ来たら、最初は泣くかもしれない。疑うかもしれない。眠れないかもしれない。黒岩が追ってくると怯えるかもしれない。


 それでも、黒岩の手下が勝手に鍵を開ける部屋ではない。


 パスポートを取り上げられる部屋ではない。


 それだけで、最初の夜は越せる。


 尚人は杉浦へ向いた。


 「通訳は」


 「1人、当たりがつきました。山下マリテスさんです。フィリピン出身で、日本人の夫がいます。英語とタガログ語、日本語ができます。夜の店の経験はありませんが、教会関係で在日フィリピン女性の相談を受けたことがあるそうです」


 「女性ですね」


 「はい」


 「会えるのは」


 「明日の午後なら可能です」


 「お願いします。弁護士は」


 「労務と外国人の在留手続きに明るい弁護士を探しています。月曜午前に一度相談を入れられると思います」


 尚人は頷いた。


 まだ足りない。だが、部屋は用意できた。通訳の線もできた。弁護士も動く。遊興ビルも手を伸ばせる位置に来た。


 あと足りないのは、パスポートと借金証文である。


 そこを黒岩の事務所からどう出すか。


 尚人は、まだ答えを決めていなかった。


 金で取れるなら、それでよい。払って領収書を取る。だが、黒岩が金以上の支配を見せようとするなら、別の札を切る必要がある。家賃滞納、契約違反、寮部屋の不正使用、給与天引き、パスポートの預かり。すでに札は何枚もある。


 問題は、切る順番である。


 佑馬がふと聞いた。


 「会長。俺はどこまで動けばいいですか」


 尚人は答えた。


 「横須賀のビル購入と改装だけを見てくれ。女たちのことは、まだ見なくていい。だが、店を作る時は、働く人間を閉じ込める形にしない。そこだけ覚えておけ」


 佑馬は真顔で頷いた。


 「分かりました」


 「それと、ビルは会社では買わない。私個人の名義で買う。銀行融資も、私個人の保証で組む」


 佑馬は少し目を細めた。


 「会社の金は使わないんですか」


 「使わない。早乙女土地売買の金は、土地を動かすために残す。横須賀の件は、私が個人で背負う」


 佑馬は、それ以上聞かなかった。


 「分かりました。物件と改装だけを見ます」


 尚人は部屋の中をもう一度見た。


 布団10組。米。鍋。石鹸。タオル。狭い台所。古い窓。夕方の生活音。


 五反田の上階の部屋とは違う。


 ここには、まだ黒岩の匂いがない。


 ◇ ◇ ◇


 午後5時30分、尚人たちが横須賀の1DKを出ようとした時、階段下から若い男が駆け上がってきた。先ほどビルを案内した不動産屋の社員だった。息を切らしながら、杉浦へ声をかけた。


 「杉浦さん。お電話です。五反田の方からです」


 杉浦はすぐに尚人を見た。


 1986年である。どこでも電話が取れるわけではない。杉浦は横須賀に来る前、品川と五反田に、この時間帯なら横須賀の仲介業者へ連絡を回すよう伝えていた。その伝言が、いま届いたのだった。


 尚人たちは急いで1階へ降り、通りを渡って不動産屋へ戻った。店内には古い住宅地図が貼られ、机の上には灰皿と赤鉛筆が置かれている。黒電話の受話器が、机の端に横たわっていた。


 杉浦が受話器を取り、数秒だけ聞いた。


 表情が変わった。


 「尚人さん。五反田の管理人さんです」


 尚人は受話器を受け取った。


 「早乙女です」


 向こうの声は抑えていたが、息が荒かった。


 「旦那様。黒岩がまた来ました。今度は手下を2人連れています」


 「女たちは」


 「店の準備をさせられています。いまのところ、手は出していません。ただ、ローザという子を事務所へ連れて行く、と言っています」


 尚人の指に力が入った。


 「いつ」


 「今夜です。店が終わったあとか、その前かは分かりません。パスポートのことで話がある、と」


 尚人は目を閉じた。


 黒岩も動き始めた。


 ローザが何かをしたと、まだ確信しているわけではない。だが、女たちの中でローザが中心にいることは分かっている。そこを締めれば、他の女も黙る。黒岩はそう考える男である。


 「管理人さん。まだ動かないでください。ローザを1人で外へ出す流れになったら、すぐ連絡をください。車の番号も見てください。危険なら、店の設備トラブルを理由にして時間を稼ぐ。停電でも水漏れでもいい。ただし、黒岩と喧嘩はしない」


 「分かりました」


 「私は戻ります」


 受話器を置くと、杉浦と佑馬が尚人を見ていた。


 尚人は低い声で言った。


 「黒岩が、ローザを事務所へ連れて行くと言っている」


 杉浦の顔がこわばった。


 「今夜ですか」


 「ええ」


 「どうしますか」


 尚人は横須賀の1DKの窓を思い出した。夕方の光は弱まり、部屋の中には布団の白さだけが浮いていた。


 部屋は用意できた。

 だが、まだ女たちはそこへ来ていない。


 横須賀の古いビルも、買えるところまで来た。

 だが、まだ働く場所にはなっていない。


 黒岩は、それを待ってはくれない。


 尚人は言った。


 「今夜、五反田へ戻ります。ただし、まだ正面からはぶつからない。ローザを1人で連れて行かせない。それだけを止める」


 「理由はどうします」


 杉浦が聞いた。


 尚人は少し考えた。


 「ビルの所有者として、夜間に借り主以外が従業員を外へ連れ出すことは認めない、と言う。上の部屋の使用状況を確認中だとも伝える。契約違反の話は、まだ出さない。まず、ローザを事務所へ渡さない」


 佑馬が言った。


 「俺も行きますか」


 「来るな」


 尚人はすぐに答えた。


 「横須賀のビルを押さえる話を進めろ。明日、売主の返事を取る。ここは止めるな」


 「銀行の方は」


 「杉浦さんと進めてくれ。月曜朝に、私個人名義の融資として支店へ持ち込む。自己資金は入れない。つなぎ融資も含めて、全額銀行に組ませる」


 佑馬は唇を結んだが、反論しなかった。


 「分かりました」


 尚人は、もう一度横須賀の1DKを思い浮かべた。


 狭い部屋。

 積まれた布団。

 米と鍋。

 窓の外の夕方。


 ここへ女たちを連れてくる。


 そのためには、今夜の五反田を越えなければならない。


 尚人は不動産屋を出た。


 通りへ出ると、横須賀の夕方の匂いが濃くなっていた。揚げ物の油、港の湿り、商店街の人声。そこに、これから動く夜の気配が混じっている。


 尚人は車へ向かった。


 まだ刃は抜かない。


 だが、鞘に手はかけた。

後編では、尚人が横須賀中央の古い遊興ビルを見て、ローザたちが黒岩から離れたあとに働ける場所を具体的に思い描く。1階はフィリピン料理も出せる喫茶兼軽食店、2階はフィリピン・カラオケパブ、3階は小さなライブラウンジ。建物は早乙女土地売買株式会社ではなく、尚人個人の名義で買う。自己資金は一切入れず、手付、残代金、諸費用、改装費、開業資金まで、全額を尚人個人保証付きの銀行融資でまかなう。横須賀の1DKには、布団と米と鍋が入った。逃げ場はできた。だが、五反田では黒岩がローザを事務所へ連れて行こうとしている。尚人は、横須賀の準備を佑馬と杉浦に任せ、自分は五反田へ戻る。まだ刃は抜かない。しかし、鞘には手をかけた。

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