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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第6話(前編)――「黒岩の足音」

黒岩辰夫は、まだ尚人の正体を知らない。五反田ビルの持ち主が、すでに上階の部屋を見て、給与明細を押さえ、横須賀に逃げ場を作り始めていることも知らない。尚人は、ローザたちの借金を自分の金で立て替えると決めた。さらに、横須賀中央の商店街にある古い遊興ビルを、自分個人の名義で買う方針も固めた。自己資金は一切入れない。購入費、諸費用、改装費、開業資金まで、全額を銀行からの個人保証付き融資でまかなう。だが、黒岩も五反田の空気の変化を感じ始めていた。尚人は、まだ刃を抜かず、まず黒岩の足音を聞く。

 (1986年4月19日土曜日午後0時15分、東京・五反田、尚人の遊興ビル506号室)


 黒岩辰夫の足音は、階段の中でよく響いた。


 重い革靴の底が、鉄の段を踏むたび、乾いた音を立てる。急いではいない。自分の縄張りを歩く男の足取りだった。3階の扉が開く音がし、すぐに男の声が漏れた。


 「昨夜、変な客はいなかったか」


 声は低く、ざらついていた。酒の残りか、煙草のせいか、朝から喉に砂が入っているような声である。


 尚人は506号室の内側で動かなかった。


 机の引き出しには、契約書の写しと給与明細が入っている。鍵はかけてある。窓からは昼の光が入っていたが、部屋の中には古い畳の匂いが残り、空気は少し重かった。


 3階の店の奥で、誰かが答えた。言葉までは聞き取れない。黒岩の声だけが、廊下の壁に当たって上へ抜けてくる。


 「女どもが勝手に客と話してないだろうな」


 尚人は、まぶたを少し下げた。


 黒岩はまだ何もつかんでいない。だが、店の中の空気が少し変わったことは感じている。そういう男である。理屈ではなく、支配している場所の湿り気の変化を嗅ぐ。だからこそ、雑に動いてはいけなかった。


 廊下で小さな足音がした。


 ローザか。ルースか。あるいは別の女か。尚人には分からない。だが、その足音は一度止まり、それからまた動いた。急がない。走らない。何も知らない顔をしている。それでよかった。


 黒岩の声がまたした。


 「町田の話は、先生が来てからだ。余計なことを言うな。フランスの女も急いでいる」


 町田。先生。フランスの女。


 尚人は、その3つを頭の中で並べた。


 黒岩は町田小山田に、まだ大金を入れてはいない。だが、話は進み始めている。角地を取れば金になる。そう思い込んでいる。そこへ、尚人が啓子から教わった細い私道の線がある。黒岩は、女たちを借金で縛りながら、自分もまた土地の欲に縛られ始めていた。


 やがて、3階の扉が閉まった。


 足音はすぐには降りなかった。店の奥で、黒岩が誰かに何かを言っている。女の声が低く返る。叱られているのではない。報告をしている声だった。


 尚人は椅子から立ち上がり、部屋の中をゆっくり歩いた。焦りを体から逃がすためである。怒りが先に立てば、黒岩の思う壺になる。怒鳴ることは簡単だ。店を閉めることも、契約違反で追い出すことも、尚人にはできる。


 だが、それではローザたちが危ない。


 黒岩は追い出されたあと、女たちのパスポートを握ったまま姿を消すかもしれない。借金証文を別の業者へ売るかもしれない。フィリピンの家族へ電話をかけると脅すかもしれない。彼女たちが恐れているのは、今ここにいる黒岩だけではない。黒岩が背後に持っている線である。


 尚人は受話器に手を置いた。


 いま必要なのは、怒りではない。場所である。


 ◇ ◇ ◇


 午後0時40分、黒岩は店から出ていった。


 黒いクラウンのエンジン音が、ビルの前で低く唸った。ドアが閉まる音がして、車は五反田駅の方へ流れていく。排気の匂いが、入口から一瞬だけ上がってきた。


 尚人はすぐには部屋を出なかった。


 5分待った。さらに5分待った。階段に誰の足音もないことを確かめてから、506号室を出た。


 管理人は管理室にいた。目の下に眠気が残っているが、表情は引き締まっている。机の上には、昨日からの出入りを書いたノートが置かれていた。鉛筆の跡が濃く、ところどころ消しゴムで擦った跡がある。


 「黒岩は何を言っていました」


 尚人が聞くと、管理人は声を落とした。


 「昨夜の客のことを聞いていました。店の女の子が誰かと話していないか、と。まだ旦那様のことまでは分かっていないと思います」


 「こちらの名前は出ていないな」


 「出ていません」


 「よし。今日から、黒岩と手下の出入りを記録してください。時刻、人数、車、持ち込んだ荷物。女の子に直接聞く必要はありません。見たものだけでいい」


 管理人は頷いた。


 「分かりました」


 「それから、上の部屋に余計なことはしないでください。急に親切にしても、黒岩に怪しまれる。今まで通りに見せることです」


 「はい」


 尚人は少し間を置いた。


 「ただし、暴力の気配があれば、すぐ知らせる。怒鳴り声だけでは動かない。物を投げた、殴った、外へ連れ出した。そこまで来たら、連絡してください」


 管理人の顔がこわばった。


 「承知しました」


 尚人は管理室の電話を指さした。


 「横須賀へ行きます。戻るのは夜になるかもしれません。私に直接つながらなければ、品川の杉浦さんへ連絡してください」


 「分かりました」


 管理人がメモに番号を書き写す。鉛筆の芯が紙を擦る音がした。尚人はその音を聞きながら、黒岩とは別の意味で、この男ももう巻き込まれているのだと思った。


 このビルは、ただの収益物件ではなくなった。


 女たちの寝る部屋があり、黒岩の店があり、町田小山田へ伸びる線がある。五反田の古い床下から、復讐の根が何本も伸びている。


 尚人は管理室を出た。


 1階の入口で、昼の五反田の匂いが鼻へ入った。ラーメンの湯気、排気ガス、古い酒、雨の残り。朝より街は起きている。だが、明るさの下に夜の汚れが薄く残っていた。


 尚人は車へ向かった。


 横須賀へ行く。


 逃げる場所と、働く場所を、自分の目で見るためだった。

前編では、黒岩が五反田の店に現れ、ローザたちの動きに疑いを持ち始める。尚人は506号室で息を殺しながら、黒岩がまだ自分の正体を知らないことを確かめる。怒って店を閉めることはできる。契約違反で追い出すこともできる。だが、それでは女たちが危ない。黒岩を倒すには、まず逃げる場所と働く場所を用意しなければならない。尚人は管理人に出入りの記録を頼み、横須賀へ向かう。


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