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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第8話(前編)――「帳面から出る朝」

ローザは黒岩の車に乗らなかった。だが、それで終わりではない。翌朝、五反田のビルには弁護士と通訳が入る。黒岩は借金とパスポートを握り、女たちを返せと迫るはずだった。尚人は、金を払って女たちを買うつもりはない。黒岩の帳面から10人全員を外し、パスポートを返させ、横須賀へ移す。その前に必要なのは、本人たちの意思を確かめることである。復讐は怒鳴り声ではなく、確認書と領収書で動き出す。

 (1986年4月20日日曜日午前8時40分、東京・五反田、尚人の遊興ビル506号室)


 五反田の朝は、夜の匂いをまだ残していた。


 路地の端には、溶けかけた氷が黒く濡れて転がり、飲み屋の裏口から出されたポリバケツには、酒と生ごみの匂いがこもっている。夜通し光っていた看板は消え、薄い日差しがビルの壁を斜めに照らしていた。昼の町に戻るには、まだ早い時間である。だが、夜の勢いももう残っていない。店の前の路面だけが、昨夜の名残を湿り気として抱えていた。


 尚人は506号室の窓を開け、外の空気を入れた。部屋の中には、昨夜から残る煙草の匂いと、古い畳の乾いた匂いがあった。机の上には、五反田ビルの賃貸借契約書、3階店舗の家賃入金表、7階住居部分の確認メモ、女たちの給与明細の写しが並んでいる。


 給与明細の紙は頼りないほど薄い。だが、その紙の中に、女たちを縛る仕組みが詰まっていた。


 渡航費。

 紹介料。

 衣装代。

 罰金。

 寮費。

 食費。

 遅刻控除。

 送金手数料。


 名目は多い。だが、どこまで本当に使われた金なのか、はっきりしない。書かれた数字は整っているのに、根拠がない。黒岩の帳面は、帳面の形をした鎖だった。


 午前9時前、階段の下で車の止まる音がした。


 尚人は窓から外を見た。黒いタクシーが1台、ビルの前に寄せている。降りてきたのは杉浦真弓だった。濃紺のスーツに、黒い書類鞄を持っている。その後ろから、40代半ばの女が降りた。髪を整え、灰色のスーツを着ている。さらに、もう1人、30歳前後の女が続いた。薄い茶色の上着に白いブラウスを合わせ、顔立ちに南国の柔らかさがあった。


 3人は階段を上がってきた。


 「おはようございます」


 杉浦が入ってすぐに頭を下げた。


 「こちらが高井律子弁護士です。労務と外国人の雇用問題に明るい方です。こちらは山下マリアさん。お父様が日本人、お母様がフィリピンの方で、英語とタガログ語ができます」


 高井律子は名刺を差し出した。紙は厚く、角がきれいに立っている。


 「高井です。状況は杉浦さんから伺いました。今日は、雇用関係、居住実態、旅券の保管、金銭の請求。この4点を確認します」


 山下マリアも軽く頭を下げた。


 「マリアです。女の人たちには、分かる言葉で話します。怖がっていると思いますから、男の人だけで囲まない方がいいです」


 尚人は頷いた。


 「お願いします」


 高井は机の上の書類へ目を落とした。給与明細を1枚取り上げ、しばらく黙って見た。


 「この控除は荒いですね。罰金の根拠が書かれていません。寮費も高い。旅券を店側が持っているなら、そこも問題になります」


 「旅券は3階の金庫にあるようです」


 「本人が自由に取り戻せない状態なら、こちらは強く出られます。ただし、ここで警察を呼ぶと、女性たちまで怖がります。まず本人たちの意思を確認しましょう」


 杉浦が言った。


 「黒岩は午前10時に来ると言っています」


 高井は腕時計を見た。


 「それまでに7階へ上がります。黒岩さんが来る前に、女性たちがどうしたいのかを聞きます。店を辞めたいのか、ここを出たいのか、旅券を返してほしいのか。本人たちの言葉で確認します」


 尚人は立ち上がった。


 「私も行きます」


 高井はすぐに首を横に振った。


 「早乙女さんは廊下までにしてください。中へ入るのは、私と山下さんと杉浦さんで十分です。男性が入ると、話せない人が出ます」


 尚人は少し黙り、それから頷いた。


 「分かりました」


 ◇ ◇ ◇


 7階の廊下は、朝になっても湿っていた。


 洗濯物の匂い、古い畳の匂い、化粧品の甘い匂いが混じっている。部屋の中では、女たちが声を落として話していた。昨夜より声が多い。眠れなかった者もいるのだろう。


 杉浦が扉を叩いた。


 中で動く気配があり、少し間を置いてルースが顔を出した。目の下に薄い影がある。だが、逃げ腰ではなかった。尚人を見ると、すぐに高井とマリアへ視線を移した。


 「女の人?」


 マリアが英語で答え、そのあとタガログ語で説明した。ルースの顔が少し変わった。完全に安心したわけではない。だが、言葉が届いたことで、張りつめた目が少しだけ緩んだ。


 高井は日本語で言った。


 「私は弁護士です。あなたたちを責めに来たのではありません。今日は、あなたたちがどうしたいかを聞きます」


 マリアが訳すと、部屋の奥で何人かが顔を上げた。


 尚人は廊下の壁際に立ち、部屋の中を見ないようにした。入口の向こうに、布団の端と、畳の上に置かれた洗面器だけが見える。女たちの生活が、そこにあった。店の照明の下ではなく、朝の湿った部屋の中にある生活だった。


 ローザが入口へ来た。昨夜より顔色は悪いが、目ははっきりしている。


 「尚人さん」


 「私はここにいる。話は、高井先生とマリアさんにしなさい」


 ローザは頷いた。


 高井たちは部屋へ入り、扉は半分だけ閉められた。尚人は廊下に残った。中から、マリアの声が聞こえる。タガログ語は尚人には分からない。だが、声の調子で、女たちの緊張がほどけていくのは分かった。


 最初に泣いたのは、奥にいた若い女だった。押し殺した泣き声が廊下まで漏れた。すぐに誰かが背中をさする音がした。次に、ルースの低い声が続いた。怒っているのではない。堪えていたものを、言葉に直している声だった。


 30分ほどして、扉が開いた。


 高井が出てきた。顔は険しい。


 「10人全員が、店を辞めたいと言っています。今夜ここへ戻りたい人はいません。旅券は黒岩さんが持っている。借金は、本人たちにも正確な残額が分かっていません」


 尚人は静かに頷いた。


 「横須賀へ移します」


 「できます。ただし、黒岩さんは必ず騒ぎます。だから、旅券の返還、雇用関係の終了、7階からの退去、今後の請求放棄。この4つを書面にします」


 杉浦が続けた。


 「借金については、立替という言葉を使わない方がいいです。黒岩側の請求をそのまま認めた形にすると、あとで問題が残ります」


 高井が頷いた。


 「支払いをするなら、名目は清算金です。未払賃金、寮費、立替金、その他の名目をまとめて、双方がこれ以上請求しない形にする。ただし、女性たちには請求しない。早乙女さん個人が、黒岩側との関係を切るために払う金です」


 尚人は言った。


 「上限は1200万円です」


 高井は、はっきり頷いた。


 「それ以上は払わない方がいい。法外な請求なら、その場で打ち切ります」


 そのとき、下から重い足音が聞こえた。


 黒岩だった。

前編では、弁護士の高井律子と通訳の山下マリアが五反田ビルへ入り、女たち10人の意思を確認する。尚人は部屋の中へ入らず、廊下で待つ。そこで、10人全員が店を辞め、ここを出たいと望んでいることが分かる。黒岩との交渉は、怒りではなく書面で進める。旅券の返還、雇用関係の終了、7階からの退去、今後の請求放棄。この4つを確認書にする方針が固まったところで、黒岩が階段を上がってくる。

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