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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第8話(後編)――「旅券を返す日」

女たち10人は、全員が店を辞め、五反田を出たいと望んでいた。尚人は、黒岩側の請求をそのまま認めるつもりはない。だが、女たちを黒岩の帳面から切り離すため、清算金として1200万円を用意する。条件は明確である。旅券を返すこと。10人全員の退職を認めること。本人や家族へ今後請求しないこと。荷物の持ち出しを邪魔しないこと。後編では、黒岩との交渉、旅券の返還、そして横須賀への移動が描かれる。

 黒岩辰夫は、午前10時ちょうどに3階へ上がってきた。


 昨夜と同じ灰色の背広だったが、顔つきは違っていた。酒が残っているのか、目の白い部分が濁っている。後ろに、昨日の案内係の男と、もう1人、角刈りの男を連れていた。


 尚人は3階の店内で待っていた。高井、杉浦、マリアが同席している。店はまだ営業前で、椅子はテーブルの下に入れられ、床には昨夜の酒の跡が薄く残っていた。カラオケの機械は黒い箱のまま黙っている。昼の光の中で見る店は、夜よりも狭く、くたびれて見えた。


 黒岩は入ってくるなり、高井たちを見た。


 「何だ、これは。朝から大げさだな」


 高井が立ち上がった。


 「弁護士の高井です。本日は、こちらの建物の使用状況と、従業員の方々の退職、旅券の返還、金銭関係の清算について確認します」


 黒岩は舌打ちした。


 「女どもが何か吹き込んだのか」


 「本人たちの意思を確認しました」


 「本人たち?」


 黒岩は鼻で笑った。


 「あいつらは金を借りて日本に来てるんだよ。辞めたい、帰りたい、そんな話が通るか」


 尚人は静かに言った。


 「通します」


 黒岩の目が尚人へ向いた。


 「大家さんよ。あんた、何様のつもりだ」


 「このビルの所有者です。それ以上でも、それ以下でもありません」


 「なら、家賃だけ見てろ。女の話に首を突っ込むな」


 「この店の従業員が、7階に寝泊まりしています。この建物の使い方に関わる話です。私は見なかったことにはできません」


 黒岩は椅子を引き、乱暴に座った。椅子の脚が床をこすり、嫌な音を立てた。後ろの2人は壁際に立ったままだった。


 高井が書類を開いた。


 「まず旅券です。女性たちの旅券を店側で保管していますね」


 黒岩は口を歪めた。


 「預かってるだけだ。なくすと困るからな」


 「本人が求めれば、すぐ返せますか」


 「借金が残ってる」


 「質問に答えてください。本人が求めれば、すぐ返せますか」


 黒岩は黙った。


 高井の声は変わらなかった。


 「返せないなら、預かっているのではなく、押さえていると見られます」


 黒岩の顔が赤くなった。


 「脅しか」


 「説明です」


 高井は次の紙を出した。


 「次に金銭です。女性たちの給与から、渡航費、紹介料、寮費、食費、罰金が引かれています。根拠資料を出してください」


 黒岩は笑った。


 「そんなもん、いちいち持ってくるかよ」


 「では、こちらは請求を認めません」


 「認めない?」


 黒岩が身を乗り出した。


 「こっちは金を出してるんだ。飛行機代も、紹介料も、住む場所も、全部こっちが面倒を見てる。女どもを連れて行きたいなら、金を払え」


 尚人は黒岩の目を見た。


 「いくらですか」


 黒岩の口元に、薄い笑いが出た。


 「10人で1800万円だ」


 杉浦が無表情のまま、手元の紙に数字を書いた。


 高井は、すぐに言った。


 「根拠がありません。論外です」


 黒岩は高井を睨んだ。


 「あんたに払えと言ってるんじゃない」


 尚人は言った。


 「1200万円までなら、今日ここで用意します」


 黒岩の目が変わった。怒りの奥で、計算が動いた。


 「1200万?」


 「ただし条件があります」


 尚人は続けた。


 「旅券を10人全員に返す。10人全員の退職を認める。黒岩さん側は今後、本人にも家族にも請求しない。7階の部屋から全員退去させる。荷物の持ち出しを邪魔しない。今日以降、本人たちに直接連絡を取らない。これを確認書にします」


 黒岩は笑った。


 「ずいぶん勝手な話だな」


 「嫌なら払いません」


 店内の空気が止まった。


 黒岩の後ろに立つ角刈りの男が、一歩動きかけた。だが、黒岩が手を上げて止めた。黒岩は尚人を見ている。金を取るか、女たちを押さえ続けるか。その場で天秤にかけている顔だった。


 高井が静かに言った。


 「黒岩さん。ここで話をまとめなければ、旅券の件、居住実態の件、給与控除の件は、別の手続きで確認することになります。どちらが得か、考えてください」


 黒岩は唇を噛んだ。


 「女どもは全員出るのか」


 マリアが答えた。


 「全員です。10人全員が、ここを出たいと言っています」


 黒岩は鋭く言った。


 「誰がそんなことを言わせた」


 高井がすぐに言った。


 「本人たちです。脅しや説得の場にはしません。本人の意思は、私たちが確認しました」


 黒岩は椅子の背にもたれた。背広の腹が少し持ち上がり、太い指が膝の上で動いた。


 「1200万じゃ足りねえ」


 「では話は終わりです」


 尚人は立ち上がりかけた。


 黒岩の目が動いた。


 「待て」


 尚人は座り直した。


 黒岩は、ゆっくり言った。


 「1500だ」


 「1200です」


 「せめて1300」


 「1200です。領収書と確認書に署名するなら、今日払います。署名しないなら、1円も払いません」


 黒岩は、しばらく尚人を見ていた。


 その目に、昨夜の余裕はなかった。自分の店で、自分の女を前にしているはずなのに、流れを握り切れていない。尚人はそれを感じた。だが、勝った顔はしなかった。ここで黒岩を追い詰めすぎれば、町田小山田の線が切れる。黒岩はまだ、あの土地の罠へ入る前である。


 黒岩は、やがて低い声で言った。


 「分かった。1200でいい。ただし、店は続ける。そこまで口を出すな」


 尚人は言った。


 「契約に従って営業するなら、今すぐ退去を求めるつもりはありません。ただし、7階に人を寝泊まりさせる使い方と、旅券を押さえるやり方は認めません」


 黒岩は尚人を見た。


 「女どもが抜けたら、営業にならねえ」


 「それは、あなたの商売の問題です。私が考えることではありません」


 黒岩の目の奥に、また計算が戻った。


 尚人には分かっていた。黒岩は金を失うことより、すぐに店を失うことを嫌がっている。店が残れば、次の手を考えられると思う男である。尚人は、そこを残した。


 まだ刃は抜かない。


 高井が確認書の文面を読み上げた。


 旅券は10人全員へ返還すること。

 10人全員の退職を認めること。

 黒岩側は、本人および家族に対して今後いかなる請求もしないこと。

 7階住居部分から全員を退去させること。

 荷物の持ち出しを妨げないこと。

 清算金1200万円の受領をもって、雇用関係、居住関係、金銭関係をすべて終了させること。

 今後、本人たちへ直接連絡を取らないこと。


 黒岩は何度も舌打ちした。だが、最後には署名した。


 朱肉の赤が、確認書の下に濃く残った。


 ◇ ◇ ◇


 旅券は、3階奥の事務室にある金庫から出てきた。


 黒岩が鍵を回すと、古い金庫の扉が重く開いた。中には封筒が何通も入っていた。旅券は輪ゴムでまとめられている。女たちの名前が、黒いペンで封筒に書かれていた。


 マリアが1人ずつ名前を読み上げた。


 ローザ。

 ルース。

 テレサ。

 ジョイ。

 マリベル。

 セシリア。

 リナ。

 エレナ。

 ベラ。

 ミーナ。


 呼ばれた女たちは、店の奥に並んでいた。マリアがタガログ語で説明し、高井が確認する。旅券は、本人の手に返された。受け取る手は、それぞれ違っていた。すぐ胸に抱く者。震える指で表紙を開く者。何度も名前を確かめる者。泣きそうになって、唇を噛む者。


 ローザは旅券を受け取ると、しばらく表紙を見ていた。それから、尚人ではなく、マリアの方を見た。


 「私の、ですか」


 マリアが訳すまでもなく、意味は分かった。


 高井が静かに言った。


 「あなたのものです」


 マリアがタガログ語で伝えると、ローザの目に涙が浮かんだ。だが、昨夜と同じように泣かなかった。泣けば黒岩に見られる。そう思っている顔だった。


 ルースは旅券を受け取ると、すぐに服の内側へしまった。目は黒岩を見ていた。


 黒岩は、その視線を避けた。


 杉浦は清算金の封筒を机に置いた。中身は銀行で用意した現金である。帯のついた札束が、黒岩の目を引いた。杉浦は領収書を差し出した。


 「こちらに署名と押印をお願いします。名目は、雇用関係および居住関係の清算金です」


 黒岩は渋い顔をしたが、金の前では手が動いた。署名し、印を押す。領収書が返ってくると、杉浦はすぐに確認し、書類ケースへ収めた。


 尚人は黒岩へ言った。


 「10人全員の荷物を、昼までに運び出します。邪魔はしないでください」


 「勝手にしろ」


 黒岩は札束を鞄にしまいながら言った。


 「だが、大家さんよ。これで終わりだと思うなよ」


 尚人は静かに返した。


 「終わりではありません。始まりです」


 黒岩の顔が、わずかに歪んだ。


 ◇ ◇ ◇


 7階では、女たちが荷物をまとめていた。


 荷物といっても、多くは小さな鞄1つか2つだった。服、写真、化粧品、手紙、安いアクセサリー、使い古した辞書。国から持ってきた布の袋に、家族の写真を入れている者もいた。マリアが1人ずつ確認し、高井が退職の意思を書面に残した。日本語が難しい者には、マリアが訳し、本人が頷いたうえで署名した。


 尚人は廊下で待っていた。


 荷物を運ぶため、杉浦が手配したワゴン車が2台、ビルの前に着いている。運転手は早乙女側の人間で、黒岩の店とは関係がない。行き先は横須賀の1DKである。広い部屋ではない。だが、今夜10人が体を休める場所にはなる。黒岩の建物から出ることが、まず先だった。


 ローザが部屋から出てきた。手には小さな鞄が1つだけだった。


 「それだけか」


 尚人が聞くと、ローザは頷いた。


 「これだけです。あと、旅券」


 「大事な物は持ったな」


 「はい」


 ローザは廊下の奥を一度振り返った。そこには、湿った洗濯物の匂いと、薄い布団が残っている。何カ月も、あるいはもっと長く、彼女たちはそこで眠った。笑って働くために、笑えない部屋へ戻ってきた。


 ルースが言った。


 「ここは嫌いです。でも、出るのも怖いです」


 マリアが訳した。


 尚人は答えた。


 「怖いのは当然だ。今日から全部が良くなるわけではない。だが、今夜は黒岩の車に乗らなくていい。パスポートも自分の手にある」


 マリアが訳すと、ルースは小さく頷いた。


 階段を降りる時、誰も大きな声を出さなかった。靴音だけが、鉄の段に続いた。3階の店の前を通ると、黒岩がカウンターの奥に立っていた。腕を組み、こちらを見ている。女たちは目を合わせなかった。


 外へ出ると、朝から昼へ変わりかけた五反田の光がまぶしかった。


 ワゴン車のドアが開く。女たちは1人ずつ乗り込んだ。荷物は少ないのに、乗り込むまでに時間がかかった。場所を離れるには、足だけでは足りない。心の中で、何かを切らなければならないからである。


 ローザが乗る前に、尚人へ振り返った。


 「尚人さん、私たち、横須賀で何をしますか」


 尚人は答えた。


 「まず寝る。飯を食う。風呂に入る。それから、これからの生活を話し合う」


 ローザは、少しだけ笑った。


 「仕事は」


 「仕事の話は、落ち着いてからだ。黒岩の店を出たその日に、すぐ別の働き先を決めさせるつもりはない」


 マリアが訳すと、ワゴン車の中で何人かが顔を上げた。ルースは分かったらしく、深く息を吐いた。


 「それ、いい」


 ルースは日本語で言った。


 尚人は頷いた。


 「横須賀へ行きなさい」


 ワゴン車のドアが閉まった。エンジンがかかり、車はゆっくり路地を出ていく。後ろの車も続いた。黒岩の店から出た10人の女たちは、五反田の角を曲がり、横須賀へ向かった。


 尚人は、その車が見えなくなるまで立っていた。


 ◇ ◇ ◇


 昼過ぎ、3階の店内には、尚人、高井、杉浦だけが残った。


 黒岩は奥の事務室にこもっている。金を数えているのか、電話をしているのかは分からない。だが、表へは出てこなかった。


 高井は確認書の控えを揃えながら言った。


 「今日のところは、10人全員を出せました。ただし、黒岩は諦めていません」


 「分かっています」


 「確認書は取れています。旅券も返りました。今後、本人や家族へ請求があれば、こちらはすぐ動けます」


 杉浦が言った。


 「横須賀の1DKに10人入ります。余裕はありませんが、今夜はどうにかなります。明日以降、別室も押さえます」


 「お願いします」


 尚人は椅子に座った。昨夜からの緊張が、少し遅れて体に出てきた。肩が重い。だが、気持ちは沈んでいなかった。


 10人は出た。

 旅券は返った。

 黒岩の帳面には、赤い線が1本入った。


 その朝、黒岩は女たちを全員失った。


 杉浦は書類ケースを閉じた。


 「遊興ビルの買付は、今日の午後にも返事が来ます」


 尚人は顔を上げた。


 「止めないでください」


 「もちろんです」


 「彼女たちを隠すだけでは駄目です。暮らせる場所と、働ける場所がいる」


 高井は、その言葉を聞いて、少しだけ表情を緩めた。


 「そこまで考えているなら、今日払った1200万円も意味が変わりますね」


 「意味を変えなければ、黒岩と同じになります」


 尚人は言った。


 「金で人を買うのではなく、金で鎖を切る。そうでなければ、払う意味がない」


 高井は頷いた。


 「その考えは、確認書の運用でも大事になります。女性たちに返済を求めない。働くかどうかは本人が決める。この2点は、必ず守ってください」


 「守ります」


 尚人はそう答えた。


 窓の外では、昼の五反田が動き始めていた。トラックが荷を下ろし、スーツ姿の男が急ぎ足で角を曲がり、店の前の路面から夜の湿りが消えていく。


 黒岩の夜は、まだ終わっていない。


 町田小山田の罠も、まだ動き切っていない。


 だが、女たち10人は、もう黒岩の建物にはいない。


 尚人は机の上に残った領収書の控えを見た。そこには1200万円という数字があった。大きな金である。だが、その数字よりも重いのは、旅券を胸に抱いて車へ乗ったローザの顔だった。


 復讐は、相手を破滅させることだけではない。


 相手が奪っていたものを、元の持ち主へ返すことでもある。


 その最初のものが、今日、金庫から出てきた。

後編では、黒岩を殴り倒すのではなく、確認書と領収書で女たち10人全員を外へ出した。尚人は1200万円を払うが、それは女たちを買う金ではない。黒岩側との関係を切るための清算金であり、女たちには返済を求めない。旅券を返させ、退職の意思を本人から確認し、横須賀の1DKへ移すことで、黒岩の支配は具体的に崩れ始める。ただし、黒岩はまだ店に残り、町田小山田の罠も残っている。復讐の刃は、まだ完全には抜かれていない。だが、金庫から10人分の旅券が出た朝、黒岩の帳面には確かに赤い線が引かれた。

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