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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第9話(前編)――「10の鍵」

黒岩の金庫から、10人分の旅券が出た。ローザたちは五反田を離れ、横須賀へ向かう。尚人が用意していたのは、1つの部屋ではない。独身者用の1DK、10室である。1人に1つの部屋。1人に1つの鍵。そして、連絡と食事の中心になるのは、同じ建物の1階にある尚人の居室3DKだった。黒岩の店では、女たちはまとめて扱われ、帳面の数字に押し込められていた。横須賀では違う。尚人はまず、それぞれに扉と鍵を渡す。

 (1986年4月20日日曜日午後2時10分、神奈川県横須賀市、尚人所有のアパート)


 横須賀の建物は、商店街からほど近いところにあった。


 外壁は薄い灰色で、雨の跡が縦に残っている。階段の手すりには赤錆が浮き、踊り場の隅には乾いた落ち葉が吹き寄せられていた。古い建物である。だが、廊下には昼間の洗濯物の匂いがあり、どこかの部屋から味噌汁の匂いも流れていた。五反田の夜の店とは違う。ここには人の暮らしの匂いがあった。


 この建物の中に、独身者用の1DKが10室空いていた。


 2階に5室。

 3階に5室。


 そして1階には、尚人が横須賀で使う3DKの居室があった。人を集めて話をする場所も、食事を配る場所も、電話を受ける場所も、書類をまとめる場所も、この3DKを使えばよい。管理室はない。あるのは、尚人の居室だけである。


 杉浦真弓は、朝から業者と手伝いを入れ、10室の支度を終えさせていた。各部屋には、布団1組、小さな折り畳み机、やかん、鍋、茶碗、箸、湯呑み、タオル、石鹸、歯ブラシ、洗面器が置かれている。台所の横には米2キロの袋と缶詰、卵、味噌、インスタントコーヒー、砂糖、バナナが並んでいた。


 どの部屋も広くはない。玄関を入るとすぐ台所があり、その奥に6畳の和室がある。風呂とトイレは一緒だった。窓を開けても、見えるのは隣の屋根と物干しである。


 それでも、1人で扉を閉められる。


 それが大きかった。


 午後2時を過ぎて、ワゴン車が2台、建物の前に止まった。最初の車からローザ、ルース、テレサ、ジョイ、マリベルが降りた。次の車からセシリア、リナ、エレナ、ベラ、ミーナが降りる。みな、小さな鞄を1つか2つ持っていた。旅券は、それぞれ服の内側や鞄の底にしまっている。


 女たちは、建物を見上げたまま動かなかった。


 五反田のビルとは違う。看板もない。カラオケの音も聞こえない。客の笑い声も、酒の匂いもない。あるのは、古い廊下の生活臭と、午後の横須賀の風だけだった。


 通訳の山下マリアが、女たちにタガログ語で説明した。ここは今夜から休む場所であること。1人ずつ部屋があること。鍵は本人が持つこと。旅券も本人が持つこと。黒岩の店へ戻る必要はないこと。そして、困った時は1階の尚人の3DKへ来ればよいこと。


 説明が終わると、女たちは互いの顔を見た。


 ルースがマリアに聞いた。


 「1人、1部屋?」


 マリアは頷いた。


 「そうです。1人に1つの部屋です」


 ルースは、すぐには笑わなかった。信じきれない顔で、杉浦を見た。


 杉浦は黒い書類鞄から封筒を10通出した。封筒には部屋番号と名前が書かれている。中には鍵が1本ずつ入っていた。


 「部屋の鍵です。なくさないでください。合鍵は尚人さんの3DKに保管しますが、火事や急病などの緊急時以外、本人の許しなしに使うことはありません」


 マリアが訳した。


 ローザは封筒を受け取り、指で紙の表面をなぞった。


 「ローザ、201」


 彼女は自分の名前と部屋番号を声に出した。それから、封筒の中の鍵を掌に落とした。銀色の鍵は軽かった。だが、その軽さに似合わない重みがあった。


 ルースは202号室。

 テレサは203号室。

 ジョイは204号室。

 マリベルは205号室。

 セシリアは301号室。

 リナは302号室。

 エレナは303号室。

 ベラは304号室。

 ミーナは305号室。


 女たちは名前を呼ばれるたび、鍵を受け取った。黒岩の店で、客のテーブルへ呼ばれるのとは違う。今度は、自分の部屋へ入るために名前を呼ばれている。


 尚人は少し離れた場所に立っていた。


 女たちの輪の中には入らない。男が近くに立てば、かえって緊張させる。今は杉浦とマリアが前に出る方がよい。


 ローザが鍵を握りしめたまま、尚人へ視線を向けた。


 「尚人さん、本当に、私の部屋ですか」


 マリアが訳す前に、尚人は頷いた。


 「そうだ。201号室は、しばらくあなたが使う部屋です」


 「お金、払う?」


 「今日からすぐに家賃を払えとは言わない。ここへ入るための金も、黒岩に払った金も、あなたたちに返せとは言わない」


 マリアがタガログ語で訳すと、女たちの間にざわめきが起きた。


 尚人は続けた。


 「ただし、約束があります。部屋をきれいに使うこと。火の扱いに気をつけること。知らない人を入れないこと。黒岩の者が来たら、扉を開けず、すぐ1階の私の部屋へ来ること」


 マリアが訳した。


 ルースが尋ねた。


 「外へ出てもいい?」


 「危ない間は、1人では出ない方がいい。買い物や病院には、杉浦さんかマリアさん、または早乙女側の者が一緒に行く。閉じ込めるためではない。黒岩に見つけさせないためだ」


 ルースは、尚人の目をしばらく見た。


 「黒岩と同じにしない?」


 「同じにしない」


 尚人は言った。


 「だから、鍵はあなたたちが持つ。旅券もあなたたちが持つ。部屋に入る時は、必ず本人の許しを取る。分からない紙に署名させることもしない。明日、高井先生にも来てもらう」


 マリアが訳すと、ルースは深く息を吐いた。


 「それなら、入る」


 そう言って、202号室の鍵を握り直した。


 ◇ ◇ ◇


 ローザは201号室の前で足を止めた。


 鍵穴に鍵を差し込む手が、うまく動かなかった。金属がかちかちと鳴る。横で見ていたマリアが手を出そうとしたが、ローザは首を振った。


 「私が、開けます」


 声は小さかったが、はっきりしていた。


 鍵が回った。扉が開く。


 部屋の中には、畳の匂いがあった。窓際には布団が1組、きちんと畳まれている。台所には米、鍋、やかん、味噌、卵、缶詰が並ぶ。洗面所には新品のタオルと歯ブラシが置いてあった。


 ローザは靴を脱ぎ、畳に上がった。鞄を置くと、部屋の中央に立ったまま周囲を見回した。


 誰もいない。


 客もいない。

 黒岩もいない。

 同じ部屋で眠る女たちもいない。


 狭いが、自分だけの空間だった。


 ローザは窓を開けた。外から、商店街の揚げ物の匂いと、港から来る湿った風が入ってくる。遠くで電車の音がした。


 「静か」


 ローザはそう言った。


 マリアが廊下から声をかけた。


 「あとで、杉浦さんが各部屋を回ります。困ったことがあったら、扉を開けて呼んでください。大きな用事は1階の尚人さんの部屋で聞きます」


 ローザは頷いた。


 「はい」


 隣の202号室では、ルースが窓を開けていた。203号室のテレサは、布団の端に座ったまま旅券を何度も見ている。204号室のジョイは、台所の棚を開けたり閉めたりしていた。205号室のマリベルは、洗面所のタオルを見て、泣きそうな顔をした。


 3階でも同じように、女たちは自分の部屋へ入っていった。


 301号室のセシリアは、畳の上へ鞄を置く前に、部屋の隅を見て回った。302号室のリナは、鍵を内側からかけ、すぐ開け、もう一度かけた。303号室のエレナは、窓の外を見たまま動かなかった。304号室のベラは、台所に置かれた米袋を見て、ようやく笑った。305号室のミーナは、布団を広げ、手のひらで何度も押した。


 杉浦は廊下を歩きながら、各部屋の入口で声をかけた。中へは入らない。必ず扉の外で止まる。


 「困ったことはありませんか」


 マリアが訳す。


 女たちはそれぞれ答えた。


 鍋の使い方が分からない者。

 風呂の湯の出し方を聞く者。

 電話はあるのかと尋ねる者。

 黒岩が来たらどうするのかと心配する者。

 今夜、電気をつけたまま寝てもよいかと聞く者。


 杉浦は1つずつ答えた。


 電話は各部屋にはない。必要なら1階の尚人の3DKからかける。

 黒岩が来ても扉を開けない。

 電気代は当面こちらで払う。

 体調が悪ければ、すぐ知らせる。

 明日、必要な衣類と下着を買いに行く。


 説明は何度も同じことを繰り返した。だが、誰も急がせなかった。黒岩の店で急かされ続けた女たちには、同じ説明を何度でも聞ける時間が必要だった。


 ◇ ◇ ◇


 午後3時半、尚人の3DKには米の匂いが満ちていた。


 1階の部屋は、尚人が横須賀で使う居室である。玄関を入ると台所があり、奥には3つの部屋がある。1室は尚人の寝室、1室は書類と電話の部屋、もう1室は女たちが相談に来た時に使えるよう空けてあった。


 今日はその3DKが、連絡と食事の場所になっていた。


 台所では大きな鍋に味噌汁が煮えている。具は豆腐、わかめ、長ねぎだけだったが、湯気に味噌の匂いが混じると、部屋全体が落ち着いた空気になった。炊飯器は2台用意していた。杉浦が業者に頼み、急ぎで持ち込ませたものである。それでも10人分を一度に賄うには足りず、米は何度か炊くことになった。


 マリアは台所でおにぎりを作っていた。杉浦もスーツの袖をまくり、味噌汁を椀へ分けている。普段なら契約書と数字を扱う女である。だが今は、真剣な顔で長ねぎの量を調整していた。


 尚人は、書類の部屋で杉浦と向かい合った。


 机の上には、10人分の部屋番号一覧、旅券返還確認の控え、黒岩との確認書、領収書、生活費の封筒が置かれている。


 杉浦は言った。


 「10室、全員入りました。鍵は本人たちが持っています。合鍵は、この3DKの鍵棚へ封筒で保管します。使う場合は、急病、火事、本人からの依頼、この3つに限ります」


 「それでいい」


 尚人は言った。


 「部屋に入る時は、必ず本人の許可を取る。黒岩と同じことはしない」


 「承知しました」


 杉浦は表に丸をつけた。


 「食事ですが、今日はこの3DKで作って、各部屋へ運びます。明日、小型炊飯器を10台、各部屋へ入れます。鍋とやかんは入りましたが、調理に慣れていない人もいます」


 「米、味噌、卵、缶詰、果物は切らさないように」


 「はい。下着と衣類は、本人のサイズを確認してから買います。女性同士で確認してもらい、マリアさんにまとめてもらいます」


 尚人は頷いた。


 「病院は」


 「明日、希望者を聞きます。婦人科も必要になるかもしれません。高井先生に紹介先を相談します」


 尚人の表情が重くなった。


 「お願いします。本人が嫌がることはしない。ただし、必要な医療は用意する」


 「分かっています」


 杉浦は筆記具を置いた。


 「それから、現金の扱いです。生活費として30万円を預かりました。領収書を取り、使途を記録します。女性たち個人へ現金を渡す場合も、借金と誤解されないよう、支援金として記録します」


 「本人に借りだと思わせないことが大事です」


 「はい」


 その時、廊下の向こうから女の笑い声が聞こえた。


 たぶん、どこかの部屋で風呂の湯の出し方が分からず、騒ぎになったのだろう。マリアの声が続き、すぐに落ち着いた。


 尚人は3DKの窓から外を見た。


 1人1室。


 それだけで、建物の意味が違っていた。10人を1つの部屋へ押し込めば、黒岩の上階と大して変わらない。ここで必要なのは避難だけではない。黒岩に奪われていた個人の境目を戻すことだった。


 ローザの部屋。

 ルースの部屋。

 テレサの部屋。

 ジョイの部屋。

 マリベルの部屋。

 セシリアの部屋。

 リナの部屋。

 エレナの部屋。

 ベラの部屋。

 ミーナの部屋。


 名前と部屋が結びつく。そこから始めなければならなかった。


 ◇ ◇ ◇


 午後4時半、尚人は各部屋の前を回った。


 ただし、扉は開けない。廊下から声をかけるだけである。マリアがそばにつき、必要に応じて訳した。


 201号室のローザは、畳の上に座り、旅券を膝の上に置いていた。扉を開けたまま、尚人の顔を見る。


 「困っていることはあるか」


 「鍋、使えます。お湯、出ます。布団、あります」


 ローザは、ひとつひとつ確かめたことを報告するように言った。


 「怖くないか」


 「怖いです。でも、鍵があります」


 ローザは右手の中の鍵を見せた。


 「この鍵、私が持つ。黒岩さん、持たない」


 「そうだ」


 尚人は頷いた。


 「その鍵は、あなたが持ちなさい」


 202号室のルースは、扉の前に立ったまま腕を組んでいた。


 「ここ、いい。でも、慣れない」


 「慣れなくていい。今日は休め」


 「休むと、考える。考えると、怖い」


 尚人は返事に詰まった。


 マリアが訳しながら、尚人の顔を見た。


 尚人は言った。


 「怖いことを考えたら、紙に書いておけ。明日、マリアさんに読んでもらう。言葉にできないなら、絵でもいい」


 ルースは目を細めた。


 「子どもみたい」


 「子どもでも大人でも、怖い時は書けばいい」


 ルースは、そこで初めて笑った。


 「尚人さん、変な人」


 「よく言われる」


 マリアが訳すと、ルースは声を出して笑った。五反田の店で見た笑いとは違う。客へ向ける笑いではなかった。


 203号室のテレサは、まだ泣きはらした顔をしていた。だが、扉の隙間から顔を出し、「ありがとう」とだけ言った。


 204号室のジョイは、部屋の電気を何度もつけたり消したりしていた。


 「自分の電気?」


 「そうだ。あなたの部屋の電気だ」


 ジョイは、しばらく天井を見ていた。


 205号室のマリベルは、タオルをきれいに畳み直していた。


 「店では、タオル、みんなで使う。ここ、自分の?」


 「自分のものだ。足りなければ増やす」


 マリベルは、その言葉を聞くと、タオルを胸に抱いた。


 3階でも、同じように声をかけた。


 301号室のセシリアは、窓の鍵を何度も確認していた。302号室のリナは、布団の位置を部屋の奥へ動かしていた。303号室のエレナは、鞄から家族の写真を出し、机の上に置いていた。304号室のベラは、缶詰を並べて数えていた。305号室のミーナは、風呂に湯を張る音を聞いているだけで安心したような顔をしていた。


 尚人は、すべての部屋の前で同じことを言った。


 「ここは、黒岩の店ではない。働く話は、今日はしない。まず休む。明日から、1人ずつ希望を聞く」


 マリアは10回訳した。


 10回聞いて、尚人はようやく分かった。


 10人は、ひとまとめではない。


 同じ店から出てきたからといって、同じ傷を負っているわけではない。同じ望みを持っているわけでもない。同じ速さで安心できるわけでもない。


 だから、1人1室なのだ。

前編では、ローザたち10人が横須賀の独身者用1DKへ入る。重要なのは、1人に1室、1人に1本の鍵を渡したことである。黒岩の上階では、女たちはまとめて置かれ、鍵も旅券も握られていた。横須賀では、尚人がそれを逆にする。旅券は本人が持つ。鍵も本人が持つ。合鍵や書類、生活費は1階の尚人の居室3DKで管理するが、本人の許可なしに部屋へ入らない。ここで尚人は、女たちを助けるだけでなく、黒岩に奪われていた個人の境目を戻し始める。

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