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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第9話(後編)――「1DKの灯」

横須賀のアパートでは、10人の女たちがそれぞれ自分の鍵を持ち、1DKへ入った。1階の尚人の3DKは、食事、電話、書類、生活費管理の中心になる。一方、佑馬は横須賀中央裏通りの古い遊興ビル取得を進める。買主は早乙女土地売買株式会社ではなく、尚人個人である。自己資金は入れない。会社資金にも手をつけない。手付も残代金も、改装費も開業資金も、尚人個人保証付きの銀行融資で組む。そのころ五反田では、10人全員を失った黒岩が、町田小山田の角地へ急ぎ始めていた。

 (同日午後5時30分、横須賀中央裏通り、不動産仲介業者事務所)


 佑馬は、古い不動産屋の応接席に座っていた。


 壁の時計は5分遅れている。蛍光灯は白く、机の上の灰皿には吸い殻が2本残っていた。事務所の奥では、帳簿をめくる音と電話のベルが交互に聞こえる。窓際には、物件資料がずらりと貼られていた。駅近、居抜き、即営業可、要補修。赤い文字が目に痛い。


 向かいに座る仲介業者は、50代の男だった。髪に整髪料をつけすぎて、頭の横が光っている。佑馬の名刺を何度も見て、早乙女土地売買株式会社の名前を確かめていた。


 「買付証明は拝見しました。ただ、会社名ではなく、早乙女尚人さん個人名義なのですね」


 佑馬は頷いた。


 「はい。買主は早乙女尚人個人です。早乙女土地売買株式会社は、この件では買主になりません」


 「なるほど。では、資金はご本人の現金ですか」


 「いえ。銀行融資です」


 仲介業者の眉が、わずかに動いた。


 「銀行融資ですか。売主さんは、早い決済を望んでいます」


 「承知しています。手付金も、残代金も、銀行融資で組みます。手付は短期のつなぎ融資、残代金は本融資です。購入物件と、早乙女尚人個人名義の賃貸物件を担保に入れます。ご本人が個人保証も入れます」


 仲介業者は、佑馬の顔を探るように見た。


 「全額融資ですか」


 「全額です。自己資金は入れません」


 「それで銀行は大丈夫なのですか」


 「月曜朝に、杉浦が支店へ正式に持ち込みます。すでに担保に出せる物件の一覧は準備しています。返済原資もあります。横須賀の店の収益だけでなく、早乙女尚人個人の賃貸収入もあります」


 仲介業者は、少し考え込んだ。


 現金一括の客ではない。だが、条件は悪くない。担保が厚く、買主の意志もはっきりしている。売主にとって重要なのは、だらだら引き延ばされないことである。


 「価格は、1億6200万円でよろしいですね」


 「はい。手付は3000万円。これは、銀行のつなぎ融資で用意します。残金は融資実行後に一括で払います」


 「売主さんも、1億6200万円なら前向きです。建物は古いですよ。看板も傷んでいますし、2階の空調も入れ替えた方がいい」


 佑馬は頷いた。


 「そこは承知しています。建物の古さを理由に、これ以上の値下げは求めません。ただし、残置物の処理と、雨漏り箇所の確認は条件に入れます。抵当権の抹消書類も、契約前に確認します」


 「分かりました」


 仲介業者は手帳に書き込んだ。


 「しかし、夜の匂いが強いビルですよ。駅から近いのに、しばらく買い手がつかなかったんです」


 佑馬は、煙草の匂いが染みた壁を見ながら言った。


 「夜の匂いがあるから買うんです」


 仲介業者は一瞬きょとんとして、それから笑った。


 「なるほど。買う人が違えば、見方も違う」


 佑馬は笑わなかった。


 「1階は軽食と喫茶。昼も開けます。2階はカラオケを残す。3階は小さなラウンジにする。店名はまだ決めていませんが、フィリピン料理を出せる場所にします」


 「フィリピン料理ですか」


 「横須賀には合います。基地もありますし、港の町ですから」


 仲介業者は頷いた。どこまで分かっているかは別として、買う意思のある客の計画に反対する理由はない。


 佑馬は書類を鞄に入れた。


 「明日、建物をもう一度見ます。水回り、電気容量、空調、厨房の排気、非常口。業者を連れていきます」


 「分かりました。鍵を用意しておきます」


 「それと、売主さんには伝えてください。早乙女尚人は、会社の金でこのビルを買うわけではありません。個人名義で買い、銀行融資で決済します。条件を曖昧にしたくない」


 仲介業者は、少し背筋を伸ばした。


 「承知しました。そのように伝えます」


 事務所を出ると、横須賀中央の裏通りには夕方の匂いが濃くなっていた。焼き鳥の煙、揚げ物の油、港から来る湿った風。佑馬は通りの向こうにある古い遊興ビルを見上げた。


 看板は錆び、外壁はくすみ、窓のいくつかは内側から汚れている。だが、入口の幅はある。1階に厨房を入れ、昼の客を入れられる。2階は音を出せる。3階は静かな席にできる。


 尚人が言った通りだった。


 隠すだけでは駄目だ。

 立てる床を作らなければならない。


 佑馬はその場で杉浦へ電話を入れた。


 「佑馬です。遊興ビルの件、売主は前向きです。価格は1億6200万円、手付3000万円。買主は早乙女尚人個人名義。手付も残代金も、銀行融資で組む前提です。明日、業者を入れて再確認します」


 受話器の向こうで、杉浦の声が落ち着いて返った。


 「承知しました。尚人さんへ伝えます。女たちは横須賀へ入りました」


 「全員ですか」


 「10人全員です。1人ずつ、1DKに入りました」


 佑馬は息を吐いた。


 「それなら、こちらも急がないといけませんね」


 「ええ。住む部屋の次は、働く場所です。ただし、銀行融資の段取りを崩さないでください。尚人さんは自己資金を入れない方針です」


 「分かっています」


 「会社資金も使いません」


 「はい。個人名義、全額融資ですね」


 佑馬は古いビルをもう一度見上げた。


 まだ店ではない。ただの古い箱である。だが、今日黒岩の店を出た女たちにとって、そこはいずれ、初めて自分で選んで働く場所になるかもしれない。


 佑馬は電話を切り、駅の方へ歩き出した。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後6時20分、東京・五反田、黒岩の店)


 黒岩辰夫は、3階奥の事務室で札束を机に広げていた。


 1200万円は重かった。帯のついた札束を前にすると、一瞬だけ腹の底が落ち着く。だが、女たち10人が消えた店は、金の重みとは別の穴を開けていた。


 今夜、店は開けられない。


 代わりの女をすぐに10人そろえることはできない。紹介屋に頼めば金がかかる。呼べたとしても、教育も客の引き継ぎも要る。黒岩は、口の中に苦い唾がたまるのを感じた。


 手元の金は増えた。だが、店の売上は止まった。


 黒岩は受話器を取り、番号を回した。ダイヤルが戻る音が、事務室の中で乾いて響く。


 相手が出ると、黒岩は声を低くした。


 「俺だ。黒岩だ」


 受話器の向こうで、男の声がした。


 「何だ、今日は店じゃないのか」


 「うるせえ。五反田で面倒が起きた。女を抜かれた」


 「何人だ」


 黒岩は一瞬黙った。


 「全部だ」


 相手の男は、すぐには返事をしなかった。やがて、低く笑った。


 「全部? お前、何をやった」


 「若い大家が出てきた。弁護士まで連れてきやがった。旅券だ、寮だ、借金だと騒がれた」


 「警察は」


 「まだだ。だが、これ以上騒がれると面倒だ」


 黒岩は札束に目を落とした。


 「清算金は取った。1200ある」


 「なら、しばらくは動けるだろう」


 「だから電話してる」


 黒岩は声をさらに落とした。


 「町田の角地、話を進めろ。あれを押さえれば、奥の土地へ手が出るんだろう」


 受話器の向こうの男は、間を置いた。


 「焦るな。あれは、早く押せばいい話じゃない」


 「こっちは焦るんだよ。店の女が消えた。売上が止まる。次の女を入れるにも金がいる。遊んでる暇はねえ」


 「町田は350万円の話だったな」


 「最初はな。だが、向こうが欲を出すかもしれない。1000万でも2000万でも、取れればいい。入口を押さえりゃ、奥を持ってる連中を困らせられる」


 男の声が硬くなった。


 「本当に入口か、確認したのか」


 黒岩は苛立った。


 「現地は見た。角だ。道に面してる」


 「公図は」


 「紙なんか、あとで見ればいい」


 受話器の向こうで、男が息を吐いた。


 「そういうところで足をすくわれるんだ」


 黒岩は机を叩いた。


 「うるせえ。俺は金を用意した。あとは、お前らが話を持ってこい。早くしろ」


 電話を切ると、黒岩は受話器を握ったまま動かなかった。


 若い大家の顔が頭に浮かぶ。早乙女尚人。金を出すのに、目が冷えている男だった。女たちを買う顔ではない。だからこそ腹が立つ。黒岩は、自分が支配していたものを、金で奪われたのではなく、紙で外されたのだと感じていた。


 紙。

 確認書。

 領収書。

 旅券。


 黒岩は机の上の札束を鞄へしまった。


 五反田の店は、今夜だけ休みにするしかない。だが、休めば噂が立つ。噂が立てば、客が離れる。客が離れれば、金が細る。


 ならば、町田で取り返す。


 黒岩はそう決めた。


 公図の細い線など、頭になかった。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後8時、横須賀のアパート)


 夜になって、2階と3階の廊下に、炊いた米の匂いが流れていた。


 杉浦とマリアは、1階の尚人の3DKで握り飯と味噌汁を用意し、部屋ごとに盆へ分けた。各部屋へ持っていく時も、扉の前で声をかけ、本人が開けてから渡した。部屋の中へは入らない。


 201号室のローザは、布団を敷き終えていた。窓際には旅券と家族の写真が置かれている。握り飯を受け取ると、両手で包むように持った。


 「熱い」


 そう言って、ようやく笑った。


 202号室のルースは、味噌汁の椀を受け取りながら言った。


 「隣に人がいる。けど、同じ部屋じゃない。変な感じ」


 マリアが笑いながら訳した。


 杉浦は答えた。


 「隣にいても、扉は別です。それが大事です」


 ルースは、その言葉を聞いて、202号室の扉を振り返った。


 「扉、別。鍵、別」


 「そうです」


 ルースは頷いた。


 「それ、いい」


 203号室のテレサは、握り飯を受け取ると、すぐには食べなかった。涙を拭き、それから「ありがとう」と言った。204号室のジョイは、味噌汁の匂いをかいで、腹が鳴ったことに自分で笑った。205号室のマリベルは、バナナを見て「朝に食べる」と言い、大事そうに机の上へ置いた。


 3階でも、同じように盆が配られた。


 301号室のセシリアは、食べる前に手を洗い、タオルで指を丁寧に拭いた。302号室のリナは、部屋の隅に座り、壁に背をつけて食べ始めた。303号室のエレナは、家族の写真の前に握り飯を置き、数秒だけ目を閉じた。304号室のベラは、缶詰を開ける音に驚き、305号室のミーナは、風呂に湯を張ったあとで食べると言った。


 10の部屋に、10の夜が始まっていた。


 尚人は1階の3DKの窓から、上の階を見ていた。窓に灯りがついている。201号室、202号室、203号室。3階にも小さな灯りが並ぶ。


 五反田では、女たちは上階の部屋にまとめられていた。そこでは、人数で数えられ、借金で数えられ、給与明細の控除欄で数えられていた。


 横須賀では違う。


 ローザは201号室。

 ルースは202号室。

 テレサは203号室。

 ジョイは204号室。

 マリベルは205号室。

 セシリアは301号室。

 リナは302号室。

 エレナは303号室。

 ベラは304号室。

 ミーナは305号室。


 部屋番号は、ただの数字ではない。黒岩の帳面から出た女たちが、初めて自分の扉を持った証だった。


 ローザが201号室の窓を開けた。


 「尚人さん」


 窓から顔を出し、小さく手を振った。


 「今日は、眠れそうです」


 尚人は1階の窓から見上げた。


 「鍵をかけて寝なさい」


 「はい」


 ローザは鍵を手に持って見せた。


 「私の鍵です」


 「そうだ」


 尚人は頷いた。


 「あなたの鍵だ」


 ローザは、窓を閉めた。カーテンが引かれ、201号室の灯りだけが残る。


 しばらくして、202号室の灯りも落ちた。次に203号室、204号室。すぐ眠れる者もいれば、灯りをつけたまま座っている者もいた。尚人はそれを急がせる気はなかった。安心の仕方は、人によって違う。


 杉浦が台所から出てきた。


 「今夜は、私とマリアさんがこちらの3DKに残ります。何かあれば、ここで電話を受けます。早乙女側の者も、近くで待機させます」


 「お願いします」


 尚人は封筒を差し出した。生活費としての現金である。


 「必要なものを買ってください。使った分は記録を残す。ただし、女たちに借金と思わせないようにしてください」


 「分かっています」


 杉浦は封筒を受け取った。


 「この金は支援金として扱います。本人たちへ返済は求めません」


 尚人は頷いた。


 「黒岩の帳面から出したのに、こちらで別の帳面へ入れては意味がない」


 「はい」


 窓の外を、港の湿りを含んだ風が通った。五反田の夜より、匂いが軽い。


 尚人は廊下へ出た。


 頭の中で、今日1日で動いたものを並べた。


 女たち10人。

 1DK、10室。

 尚人の3DK。

 旅券10冊。

 清算金1200万円。

 横須賀の遊興ビル1億6200万円。

 手付3000万円も、残代金も銀行融資で用意する。

 自己資金は入れない。

 会社資金は使わない。

 黒岩の五反田の店。

 町田小山田の入口角地。


 線は、ようやくつながってきた。


 黒岩は女たちを失った。だから金を急ぐ。金を急げば、町田の土地へ手を伸ばす。町田の土地へ手を伸ばせば、公図の細い線を見落とす。


 尚人は階段の踊り場で足を止め、息を吐いた。


 啓子の声が、頭の中で静かに戻る。


 家は、広い座敷より、狭いところから崩れます。


 黒岩も同じだった。大きな店、大きな声、札束、女たちへの支配。そういうものは見せかけである。崩れるのは、もっと狭いところだ。


 旅券。

 確認書。

 領収書。

 鍵。

 公図の線。

 銀行融資の名義。

 会社資金と個人責任の切り分け。


 尚人は、2階と3階の灯りを見た。


 10の窓に、10人分の夜がある。全部の灯りが消えたわけではない。眠れない者もいるだろう。泣いている者もいるだろう。旅券を何度も確かめている者もいるだろう。


 それでも、今夜は黒岩の車に乗らない。


 黒岩の店にも戻らない。


 そして、1人ずつ、自分の部屋の鍵を持っている。


 復讐は、殴るよりも静かに進んでいる。


 尚人は1階の3DKへ戻った。台所には、米と味噌汁の匂いがまだ残っていた。その匂いは、黒岩の店から連れ出した女たちが、この夜を越えるための最初の匂いだった。

後編では、佑馬が横須賀中央裏通りの古い遊興ビル取得を進め、黒岩が五反田で女たちを失った穴を町田小山田で埋めようと焦り始める。買主は早乙女土地売買株式会社ではなく、尚人個人である。自己資金は入れず、会社資金も使わず、手付、残代金、諸費用、改装費、開業資金まで全額を尚人個人保証付きの銀行融資で組む。一方、横須賀のアパートでは、10の部屋に10の灯がともる。ローザたちは初めて自分の扉と鍵を持った。黒岩は町田の角地へ急ぎ、尚人は公図の細い線を思う。女たちを救う話と、土地で黒岩を追い込む話が、ここで同じ線の上に並び始めた。

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