第10話(前編)――「五千万円の契約」
ローザたち10人は、横須賀の1DKに1人ずつ入った。尚人の居室である1階の1DKには、杉浦とマリアが待機し、連絡、食事、生活費の管理を受け持つ。女たちの旅券は本人の手に戻り、黒岩の帳面からは外れた。だが、黒岩はまだ倒れていない。五反田の店を失いかけた黒岩は、町田小山田の角地へ手を伸ばす。尚人は、啓子から教わった通り、嘘をつかず、余計な約束もせず、売る地番だけを書面に示す。黒岩は入口を手に入れたつもりで、5,000万円を払う。
(1986年4月21日月曜日午前8時20分、神奈川県横須賀市、尚人の1階1DK)
横須賀の朝は、五反田の朝よりも湿りが軽かった。
1階の尚人の1DKには、炊いた米の匂いと味噌汁の湯気が残っている。流し台の横には、椀が10個並べられていた。昨夜、杉浦とマリアが2階と3階の部屋へ食事を運び、女たちはそれぞれ自分の部屋で食べた。
尚人の部屋は広くない。玄関を入ると台所があり、その奥に6畳の和室があるだけである。電話台、折り畳み机、座布団、書類を入れた鞄。昨夜から人の出入りが続き、部屋の中はもう独身男の部屋というより、臨時の詰所のようになっていた。
それでも、管理室ではない。
ここは尚人の部屋だった。
杉浦真弓は台所で湯を沸かしていた。スーツの上着は畳に置き、白いブラウスの袖をまくっている。山下マリアは、10人分の希望を書き取った紙を整理していた。名前の横には、体調、必要な衣類、病院へ行きたいかどうか、日本へ残りたいか、帰国したいか、という項目が並んでいる。
尚人は窓を開けた。
外廊下の向こうに、2階へ上がる階段が見える。朝の光の中で、階段の手すりが鈍く光っていた。上の階では、どこかの部屋の扉が開く音がした。ローザか、ルースか、それとも別の女か。すぐに閉まる音が続いた。
1人に1つの扉。
1人に1つの鍵。
その音を聞くだけで、尚人は昨夜の判断が間違っていなかったと思った。10人を1つの部屋へ押し込めれば、黒岩の上階と同じである。横須賀へ連れてきた意味がなくなる。
杉浦が湯呑みを置いた。
「昨夜は、大きな混乱はありませんでした。眠れなかった方は何人かいます。ローザさんとルースさんは、何度か廊下に出て、互いの部屋を確認していました」
「黒岩の気配は」
「ありません。五反田からの連絡でも、黒岩は昨夜、店を開けられなかったようです」
尚人は頷いた。
「今日、動く」
杉浦の手が止まった。
「町田小山田ですね」
「ああ」
尚人は机の上の封筒を開いた。中には、小沼司法書士から届いた公図、地積測量図、道路台帳の写し、登記簿の控えが入っている。町田小山田の入口に見える角地は、紙の上では2つに分かれていた。
入口に見える広い本体部分。
公道へ出るための細い筆。
尚人が売るのは、本体部分だけである。公道へ接する細い筆は売らない。通行承諾も出さない。掘削承諾も出さない。水道管と排水管を通す権利も渡さない。
ただし、嘘はつかない。
売買対象地番は契約書に明記する。現況有姿であることも書く。建築可能性を保証しないことも書く。通行、掘削、水道、排水について売主は承諾を与えないことも書く。
それでも黒岩が買うなら、黒岩の責任である。
杉浦は書類を読み、静かに言った。
「5,000万円は、かなり高い金額です」
「黒岩には高すぎるとは見えない」
「なぜですか」
「黒岩は土地を買うのではない。奥の谷を持つ相手を脅す道具を買うつもりでいる。入口を押さえれば、奥の土地に口を出せると思っている。だから5,000万円でも、あとで1億、2億に化けると考える」
杉浦は少し黙った。
「本当に道を持っていないと分かれば、黒岩は怒ります」
「怒るだろうな」
尚人は湯呑みに手を伸ばした。
「だが、こちらは売る土地を示す。書面も渡す。調べる時間も与える。黒岩が急いで判を押すなら、それは黒岩の欲だ」
マリアが顔を上げた。
「ローザさんたちには、今日のことは伝えますか」
「詳しくは伝えない。黒岩がしばらく近づけなくなるとは言っておいてくれ。怖がらせる必要はない」
その時、2階から軽い足音が降りてきた。
ローザだった。髪を後ろで結び、昨日買ったばかりの灰色のトレーナーを着ている。店の赤いワンピースとは違い、袖が少し長い。手には201号室の鍵を握っていた。
「尚人さん。今日、黒岩さん、来る?」
マリアが訳す前に、尚人は答えた。
「ここへは来ない。来ても入れない」
ローザは鍵を見た。
「この鍵、ほんとうに私の?」
「そうだ」
「黒岩さん、開けられない?」
「開けられない」
ローザは、少しだけ息を吐いた。
尚人は続けた。
「今日は、黒岩の目を別の方へ向ける。あなたたちを探す余裕はなくなる」
ローザは意味が分からない顔をした。
「でも、外へは出るな。必要なものは杉浦さんとマリアさんに言いなさい」
「はい」
ローザは頷き、階段へ戻っていった。
尚人はその背中を見送った。
今日、黒岩の資金繰りを切る。
その言葉を口にすれば、ただの復讐に聞こえる。だが、尚人の中では違った。黒岩の金を絶つことは、ローザたちへ伸びる手を折ることだった。
◇ ◇ ◇
(同日午前10時30分、東京・品川、早乙女土地売買株式会社応接室)
小沼司法書士は、応接室の机に書類を並べた。
公図。
登記簿。
地積測量図。
道路台帳。
売買契約書案。
紙が並ぶと、町田小山田の土地は急に静かな顔になった。現地ではただの古い角地に見える。だが、紙の上では、入口に見える土地と公道へ出る細い筆が別々に分かれている。
小沼は眼鏡を押し上げた。
「契約書には、売買対象をこの地番だけに限定しています。隣接する私道部分、通行承諾、掘削承諾、水道管、排水管については、売買対象外です。建築の可否についても、売主は保証しない形にしました」
尚人は頷いた。
「それでいい」
「ただし、買主がきちんと読めば気づきます」
「気づけば買わなければいい」
小沼は、少しだけ苦い顔をした。
「早乙女さん。これは、かなりきわどい売買です」
「嘘は書いていません」
「ええ。嘘はありません。むしろ、必要なことは書いてあります。だからこそ、きわどい。読まない買主だけが落ちます」
尚人は書類へ目を落とした。
「杉山社長も、読ませてもらえなかった。急がされ、判を押さされ、あとで気づいた時には遅かった」
小沼は黙った。
尚人は続けた。
「私は、黒岩に読ませないとは言っていない。説明もする。調査したいなら待つとも言う。黒岩がそれでも急ぐなら、止めない」
応接室の空気が少し重くなった。
小沼は契約書の最後のページを指で押さえた。
「売買代金は5,000万円。手付1,000万円。残金4,000万円は本日中に銀行振出小切手で受領。所有権移転登記は、代金決済と同時。これでよろしいですか」
「はい」
「かなり早い決済です」
「黒岩が急いでいる。こちらが急がせる必要はない。だが、相手が今日中に払うと言うなら受ける」
杉浦が隣で言った。
「黒岩側からは、午前中に連絡がありました。『入口の土地なら今日買う。金もそろえた』とのことです。先生と呼ばれる男も同席します」
「フランス女は」
「表には出ません。裏で急かしているようです」
尚人は、窓の外を見た。品川の空は白く、ビルの壁に光が反射している。五反田の夜や横須賀の湿りとは違う、事務所街の乾いた朝だった。
「通してください」
◇ ◇ ◇
黒岩辰夫は、午前11時に来た。
灰色の背広を着ている。昨夜の疲れが顔に残っていた。だが、目には妙な熱がある。女たちを失った穴を、別の金で埋めようとしている目だった。後ろには、薄い灰色の背広の男がいた。ローザたちが「先生」と呼んでいた男だろう。痩せていて、唇が薄い。手には革の書類鞄を持っていた。
黒岩は応接室に入るなり、尚人を見て顔を歪めた。
「大家さんじゃねえか」
「早乙女です」
尚人は名刺を差し出した。
「早乙女土地売買株式会社の代表でもあります」
黒岩は名刺を受け取り、鼻で笑った。
「若いのに、いろいろやってるな」
「土地を扱っています」
「五反田の女を持っていったと思ったら、今度は町田の土地か。ずいぶん手広い」
尚人は答えなかった。
先生と呼ばれる男が、書類へ目を向けた。
「売買対象は、町田小山田の入口角地で間違いありませんね」
小沼が淡々と答えた。
「売買対象は、契約書記載の地番です。こちらの地番、面積、登記名義。ここに記載した範囲だけです」
黒岩は苛立ったように言った。
「だから、入口の角だろう」
尚人は静かに言った。
「現地で入口に見える土地です。売買するのは、契約書記載の地番だけです」
先生の目が少し動いた。
小沼が続けた。
「契約書にもある通り、隣接する私道部分は売買対象外です。通行、掘削、水道、排水について、売主は承諾を与えません。建築確認が下りることも保証しません。必要なら、買主側で調査してください」
黒岩は小沼を睨んだ。
「そんな細かい話はいいんだよ。現地は角だ。車も入れる。俺は見てる」
先生は書類をめくった。だが、1枚1枚を丁寧には見ていない。黒岩の顔色を見ている。黒岩が急いでいることを知っているのだ。
尚人は言った。
「調査するなら、契約は後日で構いません」
黒岩の目が鋭くなった。
「後日にしたら、ほかへ売るつもりだろう」
「売る可能性はあります」
「ふざけるな。こっちは今日買うと言ってる」
「では、契約書を読んでください」
黒岩は笑った。
「読んでる暇はねえ。5,000万だろう。入口を押さえりゃ、奥の連中は困る。そこまで分かってる」
先生が小さく咳払いした。
「黒岩さん、一応、私道の扱いは確認した方が」
黒岩は手で遮った。
「先生。あんたがそうやって慎重にやってるから、話が遅くなるんだ。入口だぞ。入口を取れば、奥は頭を下げる。そういう話だろうが」
先生は黙った。
尚人は、黒岩の顔を見ていた。
黒岩は土地を見ていない。自分が脅す相手の顔を見ている。奥の土地の持ち主が困る姿を見ている。困らせたあと、金を取る場面だけを見ている。
だから、公図の細い線が見えない。
啓子の言葉通りだった。
人は、欲しいものが見えた時、自分に都合の悪い線を消してしまう。
小沼が契約書を差し出した。
「では、読み上げます」
黒岩は椅子にもたれた。
「早くしろ」
小沼は、感情を入れずに読んだ。
売買対象地番。
面積。
現況有姿。
売主は建築の可否を保証しないこと。
隣接私道部分は売買対象外であること。
通行、掘削、水道、排水に関して、売主は何ら承諾を与えないこと。
買主は自らの責任で調査し、売買契約を締結すること。
読み上げる間、黒岩は貧乏ゆすりをしていた。先生は目を伏せている。杉浦は無表情で筆記していた。
小沼が読み終えると、黒岩は胸ポケットから印鑑を出した。
「押せばいいんだろう」
先生が最後に言った。
「黒岩さん、本当に今日でいいんですか」
黒岩は先生を睨んだ。
「女が消えて、店が止まってるんだ。ここで金を作らなきゃ、こっちが潰れる。入口を取れば、奥の土地を持ってる連中から金を引ける。分かってるだろう」
先生は、もう止めなかった。
黒岩は署名し、印を押した。
朱肉の赤が、白い紙ににじんだ。
その色を見た時、尚人は杉山社長の仏前に上がっていた線香の灰を思い出した。
これは復讐である。
だが、怒鳴り声は要らなかった。
紙があれば足りた。
◇ ◇ ◇
午後0時20分、決済は終わった。
手付金1,000万円と、残金4,000万円の銀行振出小切手。合計5,000万円が、早乙女土地売買株式会社の入金処理へ回された。黒岩は金をそろえるため、朝から高利の金を借り、五反田の店の売上債権と自分の車、さらに黒岩興業の残った什器まで担保に入れていた。
小沼は登記書類を整え、司法書士として必要な確認を済ませた。
売ったのは、本体部分だけである。
道ではない。
黒岩は契約書の控えを鞄へ入れ、立ち上がった。
「大家さんよ。これで町田は俺の入口だ」
尚人は答えた。
「買われた地番は、あなたの土地です」
「奥の連中が泣きついてきたら、あんたにも少しは回してやるよ」
「不要です」
黒岩は笑った。
「若造が。きれいごとで金は増えねえんだよ」
尚人は、黒岩の目を見た。
「金は、よく見ない人間から減ります」
黒岩は意味が分からない顔をした。
「何だと」
「お気をつけください」
それだけ言った。
黒岩は舌打ちし、先生を連れて出ていった。応接室の扉が閉まると、杉浦が深く息を吐いた。
「本当に買いましたね」
「買った」
小沼は契約書の控えを見ながら言った。
「こちらは説明しました。契約書にも書いてあります。隣接私道は売っていません」
「それでいい」
尚人は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
勝ったとは思わなかった。
ただ、線が締まったと思った。
前編では、尚人が町田小山田の入口に見える角地本体だけを、黒岩に5,000万円で売る。尚人は嘘をつかない。売買対象地番、私道部分が対象外であること、通行や掘削を保証しないこと、建築可能性も保証しないことを契約書に書き、小沼が読み上げる。それでも黒岩は、入口を押さえれば奥の土地で金を取れると思い込み、急いで判を押した。黒岩は入口を買ったつもりだった。だが、尚人が売ったのは、道を持たない本体部分だけである。




