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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第10話(後編)――「道を持たない角地」

黒岩は、町田小山田の入口を手に入れたつもりで5,000万円を払った。だが、契約書に書かれていた通り、売買対象は本体部分だけである。公道へ出るための細い筆は、尚人の手元に残っていた。通行承諾も、掘削承諾も、水道や排水の承諾もない。後編では、現地へ向かった黒岩がその事実に気づく。五反田では債権者が押しかけ、黒岩興業の資金繰りは切れる。一方、横須賀ではローザたちが、自分の鍵で部屋を閉めて眠ろうとしていた。

 (同日午後2時10分、東京・町田小山田、入口角地)


 黒岩は現地にいた。


 黒いクラウンを道路脇に止め、煙草をくわえて土地を見ている。午後の日差しはやや強く、雑草の上に白く落ちていた。古い分譲地の入口に見える角地は、現地で見れば確かにそれらしく見えた。道路から谷の奥へ入る場所にあり、形も悪くない。


 黒岩は満足していた。


 「見ろよ。入口だ」


 先生は公図の写しを持っていた。顔色がよくない。黒岩が道路から土地へ入ろうとすると、先生は慌てて紙を見直した。


 「黒岩さん。待ってください」


 「何だ」


 「道路に接している細いところ、ここは今日買った地番ではありません」


 黒岩は振り返った。


 「何を言ってる」


 先生は公図を広げ、震える指で線を示した。


 「今日買ったのは、この本体部分です。公道へ出る細い筆は別です。契約書にも、隣接私道は売買対象外とありました」


 黒岩の顔から血の気が引いた。


 「入口じゃねえのか」


 「現地では入口に見えます。ですが、登記上、公道へ出る部分は別の筆です」


 「ふざけるな」


 黒岩は公図を奪い取った。だが、線の読み方が分からない。紙の上の細い筆が、道路と本体の間に針のように挟まっている。啓子が見抜いた線である。


 先生は低い声で言った。


 「通行承諾がなければ、この土地から公道へ出る権利を主張するのは難しい。掘削承諾もありません。水道や排水も通せません」


 黒岩は紙を握りつぶした。


 「早乙女にだまされた」


 「契約書には書いてあります。読み上げもありました」


 「お前が見ろと言っただろうが」


 「私は確認した方がいいと言いました」


 黒岩は先生の襟元をつかんだ。


 「てめえ、俺を売ったのか」


 先生の顔が青くなった。


 「違います。あれは、買う前に調べれば分かる話でした」


 その一言が、黒岩の耳に刺さった。


 調べれば分かる。


 つまり、調べなかった自分が悪い。


 黒岩は先生を突き飛ばした。先生はよろめき、雑草の中に足を取られた。


 黒岩は土地の中央へ歩いた。足元の土は乾いていた。雑草が靴に絡む。道路はすぐそこに見える。だが、紙の上では届かない。目の前にある道を、持っていない。


 黒岩は叫んだ。


 「こんなものに5,000万だと」


 谷の奥で、鳥が一羽飛び立った。


 返事をする者はいなかった。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後4時40分、東京・五反田、黒岩の店)


 黒岩の店は、昼間から閉まっていた。


 3階の扉には、臨時休業の紙が貼られている。字は乱れていた。店の前の廊下には、酒屋の若い男が2人立っていた。奥の事務室では、内装業者の男が黒岩を待っている。さらに、黒い背広の金融屋が1人、カウンターに座っていた。


 黒岩が戻ると、全員が顔を上げた。


 酒屋の男が先に言った。


 「黒岩さん。先月分と今月分、今日中にお願いします」


 内装業者も続いた。


 「うちも、残りを払ってもらわないと困ります。念書がありますからね」


 金融屋は、煙草を灰皿に押しつけた。


 「今日の5,000万円、担保価値がつかないようですね」


 黒岩は足を止めた。


 「誰から聞いた」


 金融屋は笑わなかった。


 「金を貸す側は、念のため現地も紙も見ます。町田の地番、道がついていませんね」


 黒岩の顔が歪んだ。


 「これから奥の連中に話をつける」


 「つきませんよ。道を持っていない入口なんて、入口じゃない。うちは明日の返済を待ちません。今日中に担保を追加してください」


 「ふざけるな。まだ店がある」


 酒屋の男が言った。


 「店は女の子が全員いなくなったと聞きました」


 内装業者も書類を出した。


 「黒岩興業だけではなく、黒岩さん個人の保証もあります。払えないなら、こちらも手続きを取ります」


 黒岩は奥の事務室へ入ろうとした。だが、そこにも電話が鳴っていた。受話器を取ると、別の債権者の声が飛び出した。


 「黒岩さん、うちの分はどうなってるんですか」


 黒岩は受話器を叩きつけた。


 店は静かだった。


 昨日まで、ここにはローザたちの声があった。客の笑いがあった。氷の音があった。酒の匂いがあった。今は、紙と借金と男たちの息だけが残っている。


 黒岩は机に手をついた。


 1200万円は、女たちを失った穴を埋めなかった。


 5,000万円の角地は、金を生まなかった。


 五反田の店は、今夜も開けられない。


 黒岩興業の支払いは、もう回らない。


 金融屋が静かに言った。


 「黒岩さん。これはもう、資金繰りが切れていますよ」


 その言葉に、黒岩は顔を上げた。


 殴りかかるかと思った。だが、腕は動かなかった。動かせば、さらに金がかかる。警察沙汰になれば、旅券の件も、寮の件も、給与の件も出る。


 黒岩は、初めて何もできなかった。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後6時30分、品川、早乙女土地売買株式会社)


 小沼からの電話を受けた杉浦は、尚人へ報告した。


 「町田の現地で、黒岩が気づいたようです。先生と揉めたと聞いています」


 尚人は窓際に立っていた。


 「五反田は」


 「酒屋、内装業者、金融筋が店へ入っています。黒岩興業は、今日中の支払いに応じられない可能性が高いです。個人保証もありますので、黒岩個人にも請求が行きます」


 「破産か」


 「法的な破産手続きは、まだ少し時間がかかります。ただ、資金繰りは今日で切れました。店は開けられない。女たちは戻らない。町田の土地は換金できない。債権者は待たない。実質的には破産です」


 尚人は頷いた。


 「それでいい」


 杉浦は少しだけ表情を曇らせた。


 「よろしいのですか」


 「黒岩が持っていたものを、黒岩の欲で潰しただけだ」


 「町田の土地は、5,000万円で売れました」


 「この5,000万円から経費を引いた分は、杉山社長の遺族へ回す」


 杉浦は顔を上げた。


 「全額ですか」


 「経費を引いた残りは、杉山社長の奥さんへ渡す。名目は見舞金でも、土地損害の補填でもいい。法的に無理がない形を高井先生と相談してください」


 杉浦は静かに頭を下げた。


 「承知しました」


 尚人は机の上に置かれた契約書の控えを見た。そこには黒岩辰夫の署名と印がある。太く、乱暴な字だった。5,000万円の代わりに、黒岩は道のない土地を手に入れた。


 嘘はついていない。


 だが、救いもしなかった。


 尚人はその紙を閉じた。


 「黒岩は、もうローザたちを追えないな」


 「追う金も、人も、残っていないでしょう。むしろ、債権者から逃げる方で精一杯です」


 「それでいい」


 尚人は窓の外を見た。


 品川の夕方は、灰色のビルの間へ落ちていた。道路を走る車の光が、少しずつ増えていく。東京の夜がまた始まる。五反田では黒岩の店が閉まり、横須賀では10の部屋に灯りがともる。


 復讐は、血の色をしていなかった。


 朱肉の赤。


 領収書の黒い文字。


 公図の細い線。


 鍵の銀色。


 旅券の表紙。


 そういうものが、黒岩を追い詰めた。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後8時、横須賀、尚人の1階1DK)


 尚人が横須賀へ戻ると、1階の1DKには味噌汁の匂いがあった。


 杉浦とマリアは、また食事を部屋ごとに分けていた。2階と3階の廊下には、静かな人の気配がある。ローザは201号室の扉を少し開け、尚人の顔を見ると廊下へ出てきた。


 「黒岩さん、来ない?」


 「来ない」


 尚人は答えた。


 「しばらくは、来られない」


 ローザは、その意味を完全には分からないようだった。だが、声の中に危険がないことは分かったらしい。鍵を両手で包み、胸の前に置いた。


 「今日は、寝られる?」


 「寝なさい」


 「はい」


 ローザは小さく笑った。


 「尚人さんも、寝てください」


 尚人は少しだけ笑った。


 「そうする」


 ローザが部屋へ戻ると、201号室の扉が閉まった。鍵が回る音がした。続いて、202号室、203号室、遠くの304号室でも鍵の音がした。


 尚人は1階の自分の部屋へ入った。


 台所には、杉浦が残した湯呑みがある。机の上には、生活費の記録と、女たちの希望を書いた紙が置かれていた。黒岩の契約書とは違う紙である。誰かを縛る紙ではない。これからを決めるための紙だった。


 尚人は畳に座り、深く息を吐いた。


 黒岩辰夫は、今日破産した。


 まだ役所や裁判所の紙は出ていない。だが、商売人としては終わった。店は開かず、女たちは戻らず、債権者は押し寄せ、5,000万円の土地は金を生まない。


 そして、ローザたちは今夜、自分の鍵で扉を閉めて眠る。


 それは大きな前進だった。


 だが、終わりではない。


 まだ、杉山社長の遺族がいる。フランス女もいる。先生と呼ばれる男もいる。町田小山田の奥には、まだ別の線が残っている。


 だが、黒岩の線は切れた。


 尚人は窓を少し開けた。横須賀の夜風が入り、米と味噌汁の匂いを外へ押し出す。遠くで電車が走り、港の湿った空気がわずかに流れてきた。


 啓子の声が、また頭の中に戻る。


 家は、広い座敷より、狭いところから崩れます。


 黒岩は、まさにそこから崩れた。


 旅券。


 鍵。


 領収書。


 公図の線。


 尚人は、今日の売買契約書の控えを鞄から取り出した。黒岩の印が押された紙をしばらく見つめ、それから封筒へ戻した。


 復讐は、1つ終わった。


 だが、道はまだ残っている。

後編では、黒岩が町田小山田の現地で、自分の買った土地に道がないことを知る。契約書には書かれていた。小沼も読み上げた。それでも黒岩は、入口を押さえれば奥の土地で金を取れると思い込み、急いで判を押した。女たちを失い、店を開けられず、金に追われていた黒岩は、土地を見る目を失っていた。5,000万円の支払いで資金繰りは切れ、五反田の店には債権者が押しかける。法的な破産手続きはこれからだが、黒岩興業と黒岩辰夫は、この日、実質的に破産した。横須賀では、ローザたちが自分の鍵で部屋を閉めて眠る。黒岩の支配は、紙の上でも、暮らしの上でも、ここで大きく切れた。

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