第11話――「秋谷の右拳」
黒岩辰夫は、町田小山田の角地に5,000万円を払った。だが、その土地は道を持たず、金にもならなかった。五反田の店は開けず、女たちは戻らず、債権者は黒岩を待たなかった。4月29日、黒岩は資金繰りの行き詰まりを突きつけられ、商売人として終わったことを知る。その日の深夜、黒岩は仲間を連れ、横須賀秋谷の尚人の屋敷へ向かう。
(1986年4月29日火曜日午後5時40分、品川、早乙女土地売買株式会社)
品川の事務所には、夕方の光が残っていた。机の上には、町田小山田と相原の図面が広げられている。杉浦真弓は電話のメモを整理しながら、尚人へ報告した。
「町田小山田は、5月下旬から6月上旬に買い手が出ると思います。宅地分譲の再生に慣れた中堅業者が関心を示しています。測量、道路、水道の見通しを示せば動きます」
尚人は頷いた。
「相原は」
「こちらは少し遅れます。6月下旬から7月でしょう。流通団地の話を大きく見せるより、倉庫、資材置き場、運送会社の車庫として見せた方が早いです」
「それでいい。焦って安く売る必要はない」
杉浦は、もう1枚の紙へ目を落とした。声が少し低くなる。
「黒岩の方ですが、今日、完全に詰まったようです。五反田の店には、酒屋、内装業者、金融筋が次々に押しかけています。黒岩興業としては、今夜の支払いができません」
「本人はどうしている」
「一時、姿を消しました。ただ、横須賀の不動産屋筋を当たっているという話が入りました」
尚人は顔を上げた。
「秋谷を嗅いだか」
「可能性があります。旧海運商別邸を若い男が買った話は、横須賀では目立ちます」
尚人は短く息を吐いた。
黒岩は、大人しく倒れる男ではない。金を失い、女を失い、店を失い、最後に面子まで失った。そういう男は、理屈ではなく、相手の体を壊しに来る。
「杉浦さん。横須賀の女たちは、今夜も外へ出さないでください」
「分かりました」
「警察には、黒岩が脅しに来る可能性があるとだけ伝えておく。こちらから騒ぎにはしない。ただ、秋谷の屋敷の電話は生かしておく」
杉浦は尚人を見た。
「尚人さんは、秋谷へ戻るのですか」
「戻る。来るなら、あそこだ」
杉浦は何か言いたそうだった。だが、止めても無駄だと分かっていた。
◇ ◇ ◇
(同日午後11時50分、横須賀・秋谷、尚人の屋敷)
秋谷の屋敷は、夜の海風を受けていた。
黒松の枝が低く鳴り、庭の池には月の光が薄く揺れている。母屋の廊下は暗く、障子の向こうに灯りがひとつだけ残っていた。澄江は台所を片づけ、新三は門の内側と勝手口の戸締まりを確かめていた。
尚人は洋間にいた。上着は脱いでいる。白いシャツの袖をまくり、手首には薄いバンテージを巻いていた。拳を守るためである。
新三が静かに入ってきた。
「旦那様。門の外に車が止まりました。男が数人おります」
「警察へ電話を」
「もう、澄江が掛けております」
「よし。新三さんは奥へ下がってください。澄江さんも台所から出ないように」
新三は一瞬だけ迷った。
「旦那様おひとりで」
「ひとりの方が動けます」
尚人はそう言って、洋間を出た。
玄関の外で、砂利を踏む乱暴な音がした。門扉が叩かれ、すぐに金具が外れる音が続いた。外から無理にこじ開けたのだ。
庭へ入ってきたのは5人だった。
先頭に黒岩辰夫がいた。顔は赤黒く、目だけが濁って光っている。後ろの男たちは、鉄パイプや木刀を手にしていた。薄い背広の「先生」はいない。逃げたのか、あるいは黒岩を見捨てたのだろう。
黒岩は母屋の前で足を止めた。
「早乙女ぇ。出てこい」
尚人は玄関の戸を開け、敷石の上に立った。
「黒岩。刃物と鉄パイプを持って、夜中に人の屋敷へ押し入れば、もう脅しでは済まない。今すぐ帰れ」
黒岩は笑った。笑い声は乾いていた。
「俺をはめたな」
「契約書は読んでもらった。説明もした。調べる時間もやると言った」
「黙れ」
黒岩の声が庭に響いた。
「俺の店を潰し、女を盗り、土地で金を吸いやがった。若造が、調子に乗りすぎたんだよ」
尚人は黒岩の手元を見た。黒岩は刃物を持っていた。隠す気もない。今日は脅しではない。殺すつもりで来ている。
尚人は、体の力を抜いた。
「最後にもう一度だけ言う。帰れ。ここで踏み込めば、強盗と殺人未遂で終わる」
「終わるのは、お前だ」
黒岩が顎をしゃくった。
後ろの男が2人、左右から踏み込んできた。
尚人は下がらなかった。最初の男の木刀が肩口へ来る前に、尚人の左ジャブが顔面を打った。短い音がして、男の足が止まる。続けて右の拳が腹へ入った。男は声も出せず、砂利の上に膝を落とした。
もう1人が鉄パイプを振った。尚人は半歩内へ入り、肘で腕を止めた。次の瞬間、左フックが頬へ入る。殺す場所ではない。倒す場所である。男は庭石に尻をつき、鉄パイプを落とした。
黒岩の顔色が変わった。
「何だ、こいつ」
尚人は答えなかった。
3人目が後ろから回ろうとした。尚人は足音だけで位置を拾い、振り向きざまに右ストレートを胸へ打ち込んだ。拳が肋骨の上に沈む。男は息を失い、両手で胸を抱えて崩れた。
残った1人は、庭の暗がりで動きを止めた。目が泳いでいる。黒岩に雇われただけの男だろう。人を殺す覚悟まではない。
「逃げるな」
黒岩が怒鳴った。
その声で、男は無理に前へ出た。尚人はかわし、肩口へ拳を落とした。骨を折るほどではない。ただ、腕が上がらなくなる強さだった。男は悲鳴をあげて転がった。
庭に残ったのは、黒岩だけだった。
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえ始めた。海風に乗り、音はまだ細い。だが、確実に近づいている。
黒岩は刃物を握り直した。
「終わらせてやる」
「終わっているのは、お前の方だ」
尚人は静かに言った。
黒岩が突っ込んできた。動きは荒い。怒りだけで体が前へ出ている。尚人は刃物の線を外し、黒岩の手首を押さえた。刃が庭石に当たり、硬い音を立てて跳ねた。
次の瞬間、尚人の右拳が黒岩の腹へ入った。
黒岩の体が折れた。尚人はさらに踏み込み、左で肩を止め、右をもう一度、鳩尾の下へ打った。黒岩の口から空気が漏れ、膝が崩れる。尚人はそこで止めた。
殺さない。
死なせれば、こちらの負けである。
黒岩は砂利の上に倒れ、呻き声だけを出した。顔には、まだ憎しみが残っている。だが、体はもう動かなかった。
尚人は黒岩の手から刃物を蹴り離した。
「新三さん」
奥から新三が出てきた。手には太い縄があった。
「はい」
「全員、手を縛ってください。警察が来るまで動かさない」
「承知しました」
澄江も台所の陰から顔を出した。顔は青いが、取り乱してはいない。
「旦那様、お怪我は」
「ありません」
尚人は自分の拳を見た。バンテージの上に、薄く血がにじんでいる。自分の血ではない。だが、拳は痛んでいない。
やがて門の外にパトカーが止まった。警官が懐中電灯を向け、庭へ駆け込んでくる。光が砂利の上を走り、倒れた男たちの顔を照らした。
警官の1人が尚人を見た。
「これは、どういう状況ですか」
尚人は落ち着いて答えた。
「深夜に押し入ってきました。黒岩は刃物を持っていました。ほかの男たちは鉄パイプと木刀です。こちらは警察へ通報済みです。新三さんと澄江さんが証人です」
黒岩は呻きながら顔を上げた。
「こいつが……俺を……」
警官は黒岩のそばに落ちていた刃物を見た。さらに、鉄パイプと木刀を確認した。
「全員、署で話を聞く」
黒岩は何か叫ぼうとした。だが、腹に入った拳が声を許さなかった。
◇ ◇ ◇
(1986年4月30日水曜日午前2時10分、秋谷の屋敷)
警察が去ると、屋敷には静けさが戻った。
壊れた門扉の金具が、風で小さく揺れている。庭の砂利には乱れた足跡が残り、池の水面だけが何事もなかったように月を映していた。
尚人は縁側に腰を下ろした。澄江が熱い茶を出した。湯気に番茶の香りが立ち、夜の冷えた空気を少しやわらげる。
新三は庭の道具を片づけながら言った。
「旦那様。あの男は、もう戻って来られますまい」
「戻って来る前に、警察と債権者が囲みます」
尚人は湯呑みを両手で包んだ。
黒岩は、土地で死んだのではない。自分の欲で沈んだ。女を縛り、店を膨らませ、他人の入口を押さえようとして、最後には人の屋敷へ刃物を持って来た。
紙の上では、すでに終わっていた。
今夜、体の上でも終わった。
尚人は庭を見た。
復讐は、これでまた一つ片づいた。だが、終わりではない。町田小山田と相原の土地には、これから買い手が付く。杉山社長の遺族へ渡す金も、形を整えなければならない。フランス女も、先生と呼ばれる男も、まだ線の向こうに残っている。
尚人は湯呑みを置いた。
「新三さん。朝になったら、門を直す業者を呼んでください」
「はい」
「澄江さん。今日はもう休んでください」
澄江は頭を下げた。
「旦那様も、お休みくださいませ」
尚人は小さく笑った。
「少ししたら寝ます」
空はまだ暗い。だが、海の方から来る風には、夜明け前の薄い匂いが混じり始めていた。
黒岩の夜は終わった。
残った道は、次の買い手へ向かって伸びている。
黒岩は、破産同然に追い込まれた4月29日の深夜、自分から最後の罪を重ねた。土地で負け、金で詰まり、女たちを失った男は、尚人の屋敷へ刃物を持って押しかけた。だが、尚人は殺さず、倒して警察へ渡した。これで黒岩の線は完全に切れる。町田小山田と相原は、測量と用途の見せ方を整えたうえで、5月末から7月にかけて買い手を探す流れへ進む。




