第12話(前編)――「五月の買い手」
黒岩辰夫が秋谷で捕まり、五反田の店は静まり返った。だが、東京の土地は止まらない。5月中旬、品川の尚人の持ちビル内にある早乙女土地売買㈱では、理恵を中心に、町田小山田、相原、大崎駅東口、みなとみらい周辺の案件が一斉に動き始める。順子は売り手の事情を探り、達也は買い手の急ぎ具合を拾い、社長の理恵が最後の値段を決める。4つの土地は、いずれも買値の3倍以上で買い手が付く。5月の東京では、土地そのものよりも、相手が何を急いで欲しがっているかを先に見抜いた者が勝つのである。
(1986年5月15日木曜日午前9時10分、品川・尚人の持ちビル内、早乙女土地売買㈱)
品川の持ちビルの一室では、朝から電話が鳴り続けていた。
ブラインドの隙間から白い光が差し込み、机の上の地図を細く照らしている。壁には、大崎駅東口、町田小山田、相原、桜木町から新港ふ頭へかけての地図が並んでいた。赤鉛筆の丸、青鉛筆の線、付せんの端。部屋には新しい会社の匂いが残っていたが、机の上には資料と電話メモが積み上がり、すでに土地売買の現場らしい慌ただしさがあった。
社長席に座っているのは理恵だった。
まだ若い。だが、机の前に積まれた資料を追う目は落ち着いていた。順子は窓際の机で電話の内容を書き取り、達也は地図を広げたまま、灰皿の横で鉛筆を回している。尚人は壁際の椅子に座り、理恵たちの動きを見ていた。
早乙女土地売買㈱は、もう尚人が一人で動かす会社ではない。前へ出るのは理恵である。順子と達也も、早乙女土地売買㈱の社員として動いている。杉浦真弓は早乙女不動産㈱の専務であり、この売り買いには入らない。持って家賃を取る会社と、買って値を変えて売る会社。その線は、最初から分けてあった。
理恵は、受話器を置いた。
「町田小山田に、買い手が付きます」
尚人は顔を上げた。
「どこだ」
「東都住宅開発です。多摩丘陵の宅地分譲に強い会社です。最初は様子を見ていましたが、こちらが谷ごと押さえていること、道路と水道と排水の見通しを出せることを伝えたら、態度が変わりました」
順子が、メモを確認しながら続けた。
「相手は、黒岩が買った入口の角地も欲しがっています。でも、あそこは道を持たない土地です。こちらは売りません。売るのは谷の本体と、こちらが残した本当の道を使って分譲再生できる部分だけです」
尚人は、机の上の公図を見た。
黒岩が5,000万円で買った角地は、見た目だけの入口である。道も水も持たない。だが、尚人の手元には、谷の本体と本当の道が残っている。土地の価値は広さだけでは決まらない。車が入れるか、水を引けるか、排水を流せるか。そこを押さえた者が勝つ。
「値段は」
尚人が尋ねた。
理恵は、資料を押さえて答えた。
「16億5000万円です」
達也が口笛を吹きかけて、途中でやめた。
順子も、メモを持つ手を一瞬止めた。
尚人は顔を崩さなかった。
「買値は5億円だ」
「はい。3倍を超えます」
理恵は、はっきり言った。
「でも、高すぎる値段ではありません。相手は土地だけを買うのではありません。時間を買うんです。今から地権者を一人ずつ回り、道と水と排水を調べ、揉めそうな筆を外していたら、1年はかかります。うちは、それを1か月で商品にしました」
尚人は、理恵を見た。
目先の数字に浮かれている顔ではなかった。相手が何に金を払うのかを、理恵は分かっていた。
「よし。その値で進めろ。黒岩の角地は、最後まで外しておけ」
「分かっています」
理恵は、赤鉛筆で町田小山田の地図に大きな丸を付けた。
「黒岩が買ったのは、入口に見えるだけの土地です。こちらが売るのは、町になる土地です」
尚人は小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
理恵は次の資料を取った。
「相原も来ています」
「相手は」
「日本総合流通開発です。後ろに運送会社と倉庫会社が付いています。県道から大型車が入れること、砕石を入れればすぐ車庫と資材置き場にできること、将来は倉庫団地としてまとめられること。この3つを出したら、向こうが急に前へ出てきました」
達也が、地図を指で押さえた。
「相原は、宅地ではなく物流で売るのが正解です。現地を回ったら、トラックを置く場所を探している会社がいくらでもありました。倉庫が建つ前でも金になる。むしろ、建つ前だから欲しがっています」
「値段は」
尚人が聞いた。
理恵は答えた。
「14億円です」
順子が、数字を紙に書き込んだ。
「買値は4億2000万円ですから、こちらも3倍以上ですね」
「そうです」
理恵は頷いた。
「相手は、土地を更地として見ていません。流通の入口として見ています。県道に出られる。大型車が入る。資材を置ける。倉庫も建てられる。1986年の東京西側で、その条件がまとまっている土地は、もう安くありません」
尚人は、地図を見た。
相原は派手な土地ではない。だが、運送会社や倉庫会社にとっては、派手さより使えることが大事だった。土地投機の時代でも、最後に値段を押し上げるのは、実際に使いたい者の焦りである。
「14億円で出せ」
尚人は言った。
「相手が値切るなら、ほかにも声をかけると伝えろ」
理恵は即答した。
「もう伝えています」
達也が苦笑した。
「社長、なかなか厳しいな」
理恵は、達也を見ずに答えた。
「厳しくありません。1986年の土地を安く売る方が危ないんです」
達也は口を閉じた。
尚人はそのやり取りを見ながら、理恵がこの会社の社長になった意味を改めて感じていた。理恵は、土地をきれいな夢として見ていない。相手が何に困っているかを見ている。困っている相手は高く買う。そこを外さない。
◇ ◇ ◇
その時、達也の机の電話が鳴った。
達也は受話器を取り、会社名を名乗った。相手の話を聞くうちに、顔つきが変わる。
「はい。大崎東口の件ですね。駐車場3件、車庫1件、古い雑居ビル2棟です。まとめて使う話なら、社長に代わります」
達也は受話器を手で押さえ、理恵を見た。
「大崎、向こうが10億円を飲むそうだ」
理恵はすぐに受話器を受け取った。
「早乙女土地売買の早乙女理恵です。はい。10億円で結構です。ただし、今日中に買付証明を入れてください。こちらはほかの工事会社にも話を出せます。仮事務所と車庫と資材置き場を一括で使える場所は、東口の外縁ではもう多くありません」
理恵は、相手の返事を聞いた。
「分かりました。午後3時までに書面をお願いします」
電話を切ると、理恵は受話器を置いた。
「大崎は10億円です」
尚人は尋ねた。
「買値は」
「2億9000万円です」
「3倍を超えたな」
「はい」
理恵は、地図の赤丸を指で押さえた。
「大崎は、土地を売っているのではありません。工事を止めない場所を売っています。工事車両、仮事務所、資材置き場、職人の待機場所。ばらばらに探せば、時間も金もかかります。うちは、それをまとめて渡せる。だから10億円です」
順子が言った。
「売り手は、そこまで値が付くとは思っていませんでした。古い駐車場と小さな車庫だと思っていたんです」
理恵は頷いた。
「売り手は古い土地を売ったつもりです。買い手は工事の時間を買う。うちは、その間を取る会社です」
尚人は、壁際の椅子で腕を組んだ。
理恵は、土地の本質をつかみ始めている。大崎駅東口の再開発そのものを買うのではない。その周囲で、今すぐ必要になる場所を拾う。地味な土地ほど、使い道が見えた瞬間に値が跳ねる。
「よし。大崎は理恵の勝ちだ」
「まだ契約書が来ていません」
「来る。相手はほかへ行けない」
理恵は、口元を引き締めた。
「逃がしません」
◇ ◇ ◇
順子の机の電話も鳴った。
順子は受話器を取り、すぐに姿勢を正した。
「はい、早乙女土地売買です。横浜の件ですね。桜木町寄りの倉庫と、新港ふ頭へ抜ける車庫、古い事務所の一括ですね」
理恵が顔を上げた。
順子は相手の話を聞きながら、横浜の地図に印を付けていく。
「はい。こちらは6億5000万円です。安くはありません。ただ、港湾工事の仮置き、車両の待機、事務所の設置を一つの線で使える場所です。別々に借りるより早いはずです」
順子は、相手の声を聞いたまま、目だけで理恵に合図した。
理恵は頷いた。
順子は続けた。
「はい。午後に担当者をこちらへ。社長が対応します」
電話を切ると、順子は受話器を置いた。
「みなとみらい周辺も、6億5000万円で来ます」
達也が、今度こそ声を出した。
「買値は1億8000万円だぞ」
「だから6億5000万円なの」
理恵は言った。
「横浜は、まだ中心部を買う段階じゃありません。港が動くと先に足りなくなる場所を買う。倉庫、車庫、古い事務所。そこを押さえておけば、港湾業者も運送会社も逃げられません」
尚人は横浜の地図を見た。
みなとみらいは、まだ夢の途中である。だが、夢が形になる前に、現場は物を置く場所を必要とする。車を止める場所を必要とする。人が集まる事務所を必要とする。そこに値が付く。
「これで4件、全部3倍以上だな」
尚人は言った。
理恵は、机の上に数字を書き出した。
町田小山田 買値5億円 売値16億5000万円。
相原 買値4億2000万円 売値14億円。
大崎駅東口 買値2億9000万円 売値10億円。
みなとみらい周辺 買値1億8000万円 売値6億5000万円。
理恵は、鉛筆を置いた。
「合計の買値は13億9000万円。売値は47億円です。粗利益は33億1000万円になります」
事務所の電話が、ちょうどその時だけ鳴りやんだ。
達也が、先に口を開いた。
「33億か……」
順子は、数字を見つめたまま言った。
「1か月前は、ただの古い土地と駐車場と倉庫だったのにね」
理恵は首を振った。
「ただの土地ではありません。見方を間違えられていただけです」
尚人は、その言葉を聞いて頷いた。
「そうだ。土地は、見る者で値段が変わる」
理恵は、4枚の地図を重ねた。
「早乙女土地売買は、安く買って高く売る会社ではありません。相手が見ていない値段を見つける会社です」
その言葉で、3人の表情が引き締まった。
5月中旬の東京は、土地の値が上がり続けていた。だが、値上がりを待つだけでは大きな金にはならない。どこに需要が集まるかを先に見る者だけが、土地の値段を変えられる。
理恵は、その場所に立ち始めていた。
◇ ◇ ◇
午前11時半を過ぎるころ、4つの案件はほぼ形を持った。
町田小山田は、谷の本体を宅地分譲再生の会社へ売る。黒岩の角地は切り離したままにする。
相原は、物流用地として一括で売る。相手は流通団地と倉庫を見ている。こちらは、値段を落とさない。
大崎駅東口は、駐車場、車庫、古い雑居ビルをまとめ、工事会社側へ10億円でぶつける。
みなとみらい周辺は、倉庫、車庫、古い事務所を港湾工事の受け皿として6億5000万円で出す。
理恵は、数字をまとめた紙を尚人の前に置いた。
「今日中に、4件とも買い手へ返事を出します。小沼先生には契約書の確認を頼みます。早乙女不動産には回しません。これは早乙女土地売買の仕事です」
「そうだ」
尚人は即答した。
「杉浦さんには」
「連絡しません」
理恵ははっきり言った。
「杉浦さんは早乙女不動産の専務です。長く持つ賃貸や、尚人さん個人の物件の管理を見る人です。うちの売り買いに口を出す人ではありません」
「その通りだ」
尚人は頷いた。
理恵は、そこで少しだけ声を整えた。
「ただし、長く持つことになった物件が出た時は、早乙女不動産へ渡せるようにします。そこは線を分けます」
「分け方を忘れるな。早乙女土地売買は、早く買って、早く値を変えて、早く抜く会社だ。早乙女不動産は、持って家賃を取る会社だ」
「分かっています」
理恵はそう言って、机の上の4枚の地図を順番に重ねた。
この日の午前、早乙女土地売買㈱は、ただの新会社ではなくなった。
13億9000万円で拾った土地を、47億円で売る会社になった。電話の音、紙の匂い、鉛筆の跡。そのすべてが、33億1000万円という数字へ向かって動いていた。
尚人は、理恵の背中を見ていた。
勝ったのは自分だけではない。理恵が社長として、順子と達也を動かし、土地の隠れた値段を表へ出したのである。
それが、この会社の始まりだった。
第12話前編では、早乙女土地売買㈱が5月中旬に大きく勝つ流れを描いた。町田小山田は5億円で買った土地が16億5000万円、相原は4億2000万円が14億円、大崎駅東口は2億9000万円が10億円、みなとみらい周辺は1億8000万円が6億5000万円へ変わる。合計の買値13億9000万円に対し、売値は47億円、粗利益は33億1000万円となる。理恵は社長として、順子と達也を動かし、土地の隠れた値段を表へ出した。これは尚人一人の勝利ではなく、早乙女土地売買㈱という会社の勝利である。




