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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第12話(後編)――「電話の城」

早乙女土地売買㈱では、町田小山田、相原、大崎駅東口、みなとみらい周辺の4案件に大きな買い手が付いた。買値13億9000万円の土地は、売値47億円へ変わる。理恵は社長として、順子と達也を動かし、33億1000万円の粗利益を見込むところまで会社を押し上げた。だが、その同じ日に、別の知らせが品川へ届く。黒岩を切り捨てたフランス女と地面師たちは、夜の街で新しい商売を始めていた。テレフォンクラブである。土地の入口をめぐる復讐は、電話線の向こうへつながり始める。

 (1986年5月15日木曜日正午前、品川・尚人の持ちビル内、早乙女土地売買㈱)


 早乙女土地売買㈱の事務所には、まだ土地の案件の余韻が残っていた。


 机の上には、4つの地図が重ねられている。町田小山田、相原、大崎駅東口、みなとみらい周辺。そこに書き込まれた数字は、どれも大きかった。買値13億9000万円。売値47億円。粗利益33億1000万円。


 達也は、まだ数字を見直していた。順子は、すでに売り手へ連絡する順番を紙に書き出している。理恵は社長席で、契約の段取りを組み直していた。


 尚人は、壁際の椅子に座っていた。


 早乙女土地売買㈱の仕事は、ほぼ形になった。小沼へ契約書の確認を頼み、買い手には買付証明を出させる。売り手側には、余計な期待を持たせず、しかし逃げられないように手付の時期を詰める。あとは、理恵たちが進めればいい。


 その時、事務所の入口が叩かれた。


 達也が立ち、扉を開けた。入ってきたのは、五反田の涼子ママだった。


 昼の光の中で見ると、夜の店で見る顔より少し疲れていた。化粧はしているが、目の下に薄い影がある。手には小さな封筒を持っていた。


「朝から悪いわね」


 涼子はそう言って、部屋の中を見回した。


「ここが、理恵ちゃんの会社?」


 理恵は立ち上がった。


「はい。早乙女土地売買㈱です」


「若いのに、たいしたものね」


 涼子は笑ったが、すぐに表情を引き締めた。


「でも今日は、褒めに来たんじゃないの。尚人さんに見せたいものがある」


 尚人は椅子から身を起こした。


「何ですか」


 涼子は封筒から、名刺を数枚出した。


 黒い紙に、金色の文字が刷られている。


 会員制テレフォンクラブ

 ベル・ローズ新宿

 ベル・ローズ渋谷

 ベル・ローズ池袋

 ベル・ローズ上野

 ベル・ローズ五反田


 達也が名刺を一枚取り上げた。


「テレフォンクラブ?」


 涼子は頷いた。


「電話の店よ。男が店へ入って、個室で電話を待つ。女の子が別の場所から電話をかける。話が合えば外で会う。そういう商売」


 順子が眉をひそめた。


「それを誰がやっているの」


 涼子は尚人を見た。


「黒岩の後ろにいた連中よ。フランス女と、先生と呼ばれていた男。黒岩が捕まったあと、すぐこっちへ移ったらしいの」


 尚人は名刺を取った。


 ベル・ローズ。


 夜の店では珍しくない名前である。だが、尚人にはローザの名を連想させた。


「黒岩は関係しているのか」


「今は表に出ていないわ。捕まったからね。でも、黒岩の手下だった男が何人か、店の周りにいるらしい。フランス女は金主を見つけたみたい。先生は契約と名義を見ている」


 理恵が名刺を見た。


「電話番号が店ごとに違いますね。住所は雑居ビルばかりです」


「そうよ」


 涼子は言った。


「小さな部屋を借りて、電話を何本も引く。大きな店はいらない。酒も出さない。男から会員料を取り、電話代を取り、女の声で引っぱる。かなり儲かるわ」


 達也が低く尋ねた。


「女の子はどこから集めているんだ」


 涼子の顔が曇った。


「そこが嫌なのよ。水商売の子、家出の子、外国の子。借金のある子。そういう子を電話番にしているらしい。店で体を張らせるより、警察に見えにくい」


 尚人は黙って名刺を見ていた。


 土地の買い手が4つ同時に付いた日に、敵は電話線の中で商売を広げていた。黒岩のように店で女を縛るのではない。小さな部屋を東京中に散らし、電話で男を集める。暴力は表に出ず、金の流れだけが太くなる。


 ◇ ◇ ◇


 理恵が言った。


「土地と同じですね」


 尚人は顔を上げた。


「どういう意味だ」


「表に出ているのは店名です。でも、本当に見るべきなのは、部屋の借主、電話回線の名義、金の振込先、女の集め方です。土地なら入口と私道を見る。電話なら名義と回線を見る。そこを見れば、誰が本当に持っているか分かります」


 涼子は理恵を見た。


「この子、怖いわね」


「社長ですから」


 達也が横から言った。


 理恵は返事をせず、名刺を机へ戻した。


「尚人さん。この件は早乙女土地売買の仕事ではありません。でも、調べ方は同じです。私たちは土地の契約を進めます。尚人さんは、テレフォンクラブの線を追ってください」


 尚人は名刺を机へ置いた。


「いや、理恵。おまえも少し見る」


 理恵は目を上げた。


「私もですか」


「全部を追わせるわけではない。だが、こういう商売がどの雑居ビルに入るか、どういう立地を選ぶか、それを見ろ。夜の商売も、土地から離れてはいない。新宿、渋谷、池袋、上野、五反田。全部、地図に落とせ」


 理恵は少し考えた。


「分かりました。土地の仕事を止めない範囲でやります」


「それでいい」


 順子が言った。


「私は売り手の契約を詰めるわ。大崎と横浜は今日が大事です」


 達也も頷いた。


「俺は買い手側をもう一度回る。大崎の10億円を確実に書面へ落としてくる」


 涼子はそのやり取りを見て、少し肩を下げた。


「尚人さん。あの人たち、今度は簡単には尻尾を出さないわよ」


「分かっています」


 尚人は答えた。


「黒岩は拳で来た。だが、フランス女と先生は紙と名義で来る。今度は電話線だ」


「どうするの」


「まず、名刺の店を全部見る。住所、ビルの持ち主、借主、電話回線の名義、求人の出し方、女の出入り。そこから始める」


 涼子は頷いた。


「五反田の店なら、私も少し分かる」


「お願いします」


 尚人は、名刺を5枚並べた。


 新宿。渋谷。池袋。上野。五反田。


 その横に、町田小山田、相原、大崎、みなとみらいの地図がある。昼の土地と、夜の電話。一見すると別の商売である。だが、どちらも入口を押さえた者が勝つ。どちらも名義を見落とした者が負ける。


 理恵は契約の紙をまとめ、順子は売り手へ電話をかけ、達也は上着を取って外へ出る支度を始めた。涼子は名刺の残りを机に置き、尚人はその金色の文字を見下ろした。


 黒岩の夜は終わった。


 だが、敵の夜は終わっていなかった。


 今度の相手は、電話のベルの向こうにいる。


 ◇ ◇ ◇


 涼子が帰ったあと、事務所には別の仕事が残った。


 さっきまで土地の数字で埋まっていた机に、今度は電話の名刺が並んでいる。黒地に金の文字。ベル・ローズという店名は、客を誘うための飾りのようにも見えたが、尚人には逃げ道をいくつも作った商売の札に見えた。


 尚人は、名刺を一枚ずつ並べ直した。


 新宿は歌舞伎町に近い雑居ビル。渋谷は道玄坂の裏。池袋は西口の古いビル。上野は御徒町寄り。五反田は歓楽街の端。どれも、夜の人間が出入りしやすく、昼の会社員が見ても気に留めにくい場所だった。


 理恵は、地図に印を付けながら言った。


「全部、駅から近いですね。でも一等地ではありません。表通りから一本入った場所ばかりです」


「目立ちすぎても駄目だ。遠すぎても客が来ない」


 尚人が答えた。


「家賃は安くないはずです」


「電話で回収するつもりなんだろう。酒も出さず、女を店に立たせず、部屋と電話だけで金を取る。回転が速い」


 達也が、嫌そうに顔をしかめた。


「女の子を電話番にするだけなら、店の外からは分かりにくいですね」


 順子も頷いた。


「しかも、男の客は自分から金を払う。被害を訴えにくい商売です」


 尚人は名刺を見た。


 黒岩のように、刃物と拳で来る男は分かりやすい。だが、フランス女と先生は違う。紙と名義を使い、店を分け、電話線で客をつなぐ。捕まえようとすれば、名義人は別、実際の金主は別、女を集めた者も別になっているだろう。


 土地で言えば、私道と本体と水道管の名義が全部違うようなものだった。


 理恵が言った。


「これ、五反田だけなら追えます。でも東京中に散らされたら、線をまとめないと見失います」


 尚人は頷いた。


「だから地図に落とす。店の場所、ビルの持ち主、借主、電話回線、求人の出所、女の出入り。その全部を線で結ぶ」


「土地の公図と同じですね」


「そうだ」


 尚人は、町田小山田の公図を思い出していた。


 見た目の入口と、本当の道は違う。テレフォンクラブも同じである。見えている店名と、本当の持ち主は違う。ならば、見るべき場所は決まっている。


 店名ではない。


 名義と線である。


 尚人は名刺を封筒へ戻した。


「今日は、まず土地の契約を固める。理恵は早乙女土地売買の仕事を止めるな。順子さんと達也も同じだ」


「はい」


 理恵は答えた。


「ただし、夜になったら五反田を見る。涼子さんの店で、ベル・ローズ五反田の場所を聞く。そこから始める」


 達也が尋ねた。


「俺も行きますか」


「今日は来なくていい。大崎の買い手を逃がすな」


「分かりました」


 順子が理恵を見た。


「社長、午後は大崎と横浜を詰めるわよ」


 理恵は頷いた。


「ええ。土地の勝ちは、今日のうちに書面へ落とします」


 その声に迷いはなかった。


 尚人は立ち上がった。


 外では、昼の品川が動いている。車の音、工事の音、駅へ向かう人の足音。東京は昼の仕事を進めていた。だが、夜になれば、電話のベルが別の商売を呼び出す。


 土地で33億1000万円をつかむ日。


 その同じ日に、敵は電話線の奥で新しい商売を広げていた。


 尚人は、名刺の入った封筒を上着の内ポケットへ入れた。


 尚人は、電話の話へ移る前に、机の上の数字を一度締めた。


 町田小山田は5億円で買い、16億5000万円で売った。利益は11億5000万円である。


 相原は4億2000万円で買い、14億円で売った。利益は9億8000万円である。


 2つを合わせると、買値は9億2000万円、売値は30億5000万円。差し引きの利益は21億3000万円になった。


 この2つの土地は、尚人の自己資金で買っていた。会社の金ではない。銀行から借りた金でもない。尚人が、自分の普通預金から出した金である。


 尚人の普通預金は、もともと約11億円あった。そこから町田小山田と相原の買付けに9億2000万円を使ったため、手元には1億8000万円が残っていた。


 そこへ、売却代金30億5000万円が戻った。


 この時点で、尚人の手元資金は32億3000万円である。


 次に、銀行から借りていた金を精算する。


 横須賀中央の遊興ビルは、自己資金を入れず、尚人個人保証付きの銀行融資で買った。購入費、諸費用、改装費、開業前の運転資金まで含めた借入額は、2億8900万円である。


 尚人は、その全額を返すことにした。


 32億3000万円から2億8900万円を返済する。残る自己資金は29億4100万円である。


 尚人は、紙の最後に大きく書いた。


 町田小山田、利益11億5000万円。

 相原、利益9億8000万円。

 2件合計利益、21億3000万円。

 横須賀遊興ビル銀行融資、2億8900万円。

 本日全額返済。

 返済後の尚人個人資金、29億4100万円。


 理恵が、その数字を見つめた。


「銀行の借金を、全部消すんですね」


「そうだ。横須賀の店は、借金で女を縛る場所ではない。建物の借金も、ここで消しておく」


 尚人は、鉛筆を置いた。


 黒岩は、金で人を縛った。尚人は、土地で得た金で、その縛りを切った。町田小山田と相原で得た利益は、単なる儲けではない。次に夜の電話線を追うための軍資金になったのである。

第12話後編では、前編で早乙女土地売買㈱が大きく勝った直後に、フランス女と地面師たちの新しい商売を出した。テレフォンクラブ「ベル・ローズ」は、新宿、渋谷、池袋、上野、五反田へ広がり始めている。黒岩は倒れたが、黒岩の後ろにいた者たちは、店と女を使うやり方から、電話と名義を使うやり方へ移った。理恵は土地と同じ発想で、部屋の借主、電話回線の名義、金の流れを見るべきだと気づく。昼は土地で33億1000万円の粗利益をつかみ、夜は電話の城へ向かう。第五章の復讐は、ここから新しい段階へ入る。

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