第13話(前編)――「2つの財布と港南の地図」
1986年5月19日月曜日の朝、尚人は品川の早乙女土地売買㈱へバイクで顔を出す。町田小山田と相原は、尚人個人の普通預金で押さえた案件であり、倉田佑馬が実務を扱い、尚人が決済した。一方、大崎駅東口とみなとみらい周辺は、早乙女土地売買㈱が扱った会社案件である。尚人はこの日、個人資金の利益と会社利益を分けて精算する。町田小山田では、東都住宅開発への売却代金だけでなく、黒岩から先に受け取った入口部分の5,000万円も個人案件の収入に入れる。町田小山田と相原の利益1%は佑馬へ、大崎とみなとみらいの利益1%は理恵、順子、達也の3人へ、それぞれ特別賞与として支給される。金の出どころを分けることで、尚人は個人の復讐と会社の成長を同じ机の上で切り分ける。
(1986年5月19日月曜日午前9時、品川・尚人の持ちビル内、早乙女土地売買㈱)
月曜の朝、品川のビルの前でバイクのエンジン音が止まった。
尚人はエンジンを切り、ヘルメットを脱いだ。革手袋を外すと、手のひらに朝の湿り気が残っていた。5月の光はすでに強く、ビルのガラスに白く反射している。車道には車の列ができていた。車で来れば時間を取られる道だが、バイクなら間を抜けられる。
尚人はヘルメットを小脇に抱え、ビルへ入った。
エレベーターで上がると、早乙女土地売買㈱の事務所では、すでに人がそろっていた。
理恵は社長席で会社案件の精算表を見ている。順子は電話メモを日付順に並べ、達也は壁に貼った地図の赤丸と青線を確かめていた。応接机の側には、倉田佑馬も来ていた。佑馬の前には、町田小山田と相原の書類が置かれている。
机の上には、2種類の書類が分けて並んでいた。
1つは、尚人個人の普通預金で動かした町田小山田と相原の書類である。
もう1つは、早乙女土地売買㈱が扱った大崎駅東口と、みなとみらい周辺の書類である。
尚人が入ると、達也が先に顔を上げた。
「会長、朝からバイクですか」
「車では遅れる。月曜の品川は道が詰まる」
尚人はそう答え、ヘルメットを壁際の椅子に置いた。
理恵が立ち上がった。
「おはようございます。会社分の精算表は、こちらにまとめています」
佑馬も席を立った。
「町田小山田と相原の分は、こちらです」
「見せてくれ」
尚人はまず、佑馬の前に置かれた紙を取った。
町田小山田。
買値、5億円。
黒岩への入口部分売却、5,000万円。
東都住宅開発への売却、16億5,000万円。
売却収入合計、17億円。
差引利益、12億円。
相原。
買値、4億2,000万円。
売値、14億円。
差引利益、9億8,000万円。
2件の利益合計は、21億8,000万円である。
尚人は紙を机に戻した。
「町田小山田と相原は、俺の個人資金で押さえた土地だ。早乙女土地売買㈱の金ではない」
理恵、順子、達也が、そこで姿勢を正した。佑馬は黙って尚人を見ている。
尚人は続けた。
「町田小山田については、東都住宅開発への16億5,000万円だけではなく、黒岩から受け取った入口部分の5,000万円も、俺個人の案件として処理する。黒岩に売った分も、もともとは俺の個人資金で押さえた町田小山田の一部だ。会社の売上ではない」
順子が帳面を見ながら確認した。
「町田小山田は、5億円で買った土地から、黒岩へ5,000万円、東都住宅開発へ16億5,000万円の収入があった。売却収入は合わせて17億円。そこから買値5億円を引いて、利益12億円ということですね」
「そうだ」
尚人はうなずいた。
「相原は、4億2,000万円で買い、14億円で売った。利益は9億8,000万円。町田小山田と相原を合わせて、利益は21億8,000万円になる」
理恵が静かに言った。
「この2件は、会社の利益として処理しないということですね」
「そうだ。ここを混ぜると、後で帳簿が濁る」
尚人は、佑馬の方へ目を向けた。
「佑馬」
「はい」
「この2件は、おまえが扱った。町田小山田では入口の角地の癖を拾い、黒岩が何を見落としたかも押さえた。相原では旧流通団地予定地の買い手を読んだ。俺が金を出したが、現場で動いたのはおまえだ」
「僕は、会長の指示で動いただけです」
「指示だけで21億8,000万円は取れない。約束どおり、利益の1%を出す」
佑馬の表情が、そこでわずかに変わった。
「1%ですか」
「そうだ。21億8,000万円の1%だから、2,180万円だ」
事務所の中で、誰もすぐには声を出さなかった。
尚人は、佑馬の前へ書類を置いた。現金ではない。支払明細と銀行振込の指示書である。
「町田小山田と相原の特別賞与として、佑馬に2,180万円を支給する。これは早乙女土地売買㈱の賞与ではない。俺個人の案件から出す報奨だ。処理は小沼と税理士に確認させる。金の出どころは、俺の普通預金だ」
佑馬は書類を手に取り、数字を見た。
「2,180万円……。社長の名刺を持ってスナックへ行ったところから始まった話が、ここまで来たわけですね」
「そうだ。最初は横須賀の店の噂だった。そこから町田小山田と相原までつないだ。おまえは、表に立つ役を果たした」
佑馬は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。受け取ります。ただし、使い方は考えます」
「大きな金は、受け取った時より、使い始めた時の方が危ない」
達也が、横から低く言った。
「僕なら、その場で車のカタログを見てしまいそうです」
尚人は達也を見た。
「見るだけならいい。判を押す前に、いったん帰れ」
順子が少し笑った。張っていた場が、そこで少しだけほぐれた。
◇ ◇ ◇
次に尚人は、理恵の前に置かれた会社分の精算表を取った。
大崎駅東口。
みなとみらい周辺。
この2件は、早乙女土地売買㈱が扱った案件である。理恵が値段を決め、順子が相手の事情を拾い、達也が現場を歩いた。尚人個人の普通預金ではなく、会社の仕事として動かしたものだった。
買値合計、4億7,000万円。
売値合計、16億5,000万円。
差引利益、11億8,000万円。
尚人は、精算表を机に戻した。
「大崎駅東口とみなとみらい周辺は、早乙女土地売買㈱の案件だ。この利益は会社の利益として処理する」
理恵がうなずいた。
「はい。こちらは会社の帳簿に入れます。町田小山田と相原とは分けてあります」
「それでいい」
尚人は、理恵、順子、達也を順に見た。
「この2件で、早乙女土地売買㈱が得た利益は11億8,000万円だ。約束どおり、その1%を特別賞与として出す。1%は1,180万円になる」
達也が、思わず聞き返した。
「1,180万円を、3人で分けるのですか」
「違う。1人ずつだ」
達也は口を閉じた。
尚人は3枚の書類を机に置いた。会社としての支給決議書と、銀行振込の指示書である。
「理恵、順子さん、達也。3人に、それぞれ1,180万円を支給する。早乙女土地売買㈱の特別賞与だ」
順子が書類を手に取った。
「会長個人のお金からではありませんね」
「もちろんだ」
尚人は即答した。
「これは会社の金だ。早乙女土地売買㈱が、会社の仕事として利益を出した。その利益に貢献した者へ、会社が賞与を払う。帳簿に残す。源泉や税務処理も、必要なことは全部やる」
理恵は支給決議書の数字を見た。
「社長である私も、同じ額でよろしいんですね」
「同じ額だ」
「私だけ多くても、少なくても、会社の中ではおかしくなるということですね」
「そうだ。この2件は3人で取った利益だ。理恵は値段を決めた。順子さんは電話で相手の事情を拾った。達也は現場を歩き、使い道を見た。誰か1人が欠けても、この数字にはならなかった」
理恵は書類を丁寧にそろえた。
「分かりました。会社として受けます」
順子は、数字を見つめたまま言った。
「1,180万円でも、普通の感覚では人生が変わる金額です」
「変わる。だからこそ、会社の金として正しく払う。裏で渡せば、人も金も濁る」
尚人は達也を見た。
「達也。車を買うなとは言わない。だが、税金と生活を先に考えろ」
「分かりました。浮かれないようにします」
「浮かれてもいい。ただし、契約書に判を押す前には冷めろ」
順子がそこでまた笑った。
理恵は社長印を押す位置を確認し、書類を脇へそろえた。だが、彼女は賞与の話だけで終わらせなかった。机の脇に置いていた別の地図を広げたのである。
品川駅の東側から海へ向かい、港南、天王洲、芝浦、京浜運河沿いまで、赤鉛筆の線が引かれている。
「会長。賞与の処理は今日中に進めます。そのうえで、次の買収先について提案があります」
尚人は地図を見た。
「橋本や相模原ではないな」
「はい。あれは小さすぎます。会社が大崎とみなとみらいで11億8,000万円を取った以上、次に5億円の駐車場を拾いに行くのでは、話が戻ります」
達也が地図に顔を近づけた。
「港南、天王洲、芝浦ですか」
「そうです」
理恵は赤鉛筆で、品川駅の東側を示した。
「次は、品川から海側です。港南、天王洲、芝浦、京浜運河沿いの古い倉庫、車庫、冷蔵倉庫、運送会社の土地を押さえます」
順子が眉を上げた。
「かなり大きい話ですね」
「大きくしないと意味がありません」
理恵は言い切った。
「今はまだ、港の裏側という扱いです。駅の西側や都心の表通りに比べれば、古い倉庫、車庫、工場、雑居ビルが残っています。所有者もばらばらです。借地権や古い賃貸契約も絡んでいます。だから大手はすぐには手を出しにくい」
尚人は黙って続きを促した。
「けれど、品川駅から近い。海にも道路にも出られる。倉庫街として見れば古い土地ですが、都心に近い土地として見れば、大きな余地があります。今のうちに裏側をまとめて押さえれば、あとで表になります」
達也が運河沿いを指した。
「ここは大型車が入れますね。倉庫としても、まだ使えます」
「そこが大事です」
理恵はうなずいた。
「すぐに更地にして売る必要はありません。古い倉庫は、しばらく貸せます。車庫も貸せます。冷蔵倉庫や作業場は、直せば収益を生みます。賃料を取りながら、隣地をまとめる。1件ずつ買うのではなく、面で押さえるんです」
順子が電話メモをめくった。
「町田小山田や相原の時とは、相手の種類が違いますね。地主だけではなく、運送会社、倉庫会社、古い町工場、銀行に返済を迫られている会社も入ります」
「そこを順子さんに見てほしいんです」
理恵は順子を見た。
「表に出ている売り物だけでは足りません。銀行の支店、不動産屋、倉庫会社の下請け、相続で揉めている家、借地契約で困っている会社。売りに出る前の事情を拾わないと、面では取れません」
尚人は机の端を指で軽く叩いた。
「予算は」
「第1期で100億円です」
達也が動きを止めた。順子も、持っていたメモを机に置いた。佑馬も黙って地図を見た。
理恵は続けた。
「もちろん、現金で100億円を積む話ではありません。大崎とみなとみらいで出した会社利益から、税金と必要な積立を見ます。そのうえで、会社の現金を頭金に使います。残りは銀行から引きます。尚人さんの信用と、今回の実績があれば、銀行は話を聞きます」
尚人は理恵の顔を見た。
「会社が大きくなると、銀行の紐も太くなるぞ」
「承知しています。だから、全部を一括で買うのではありません。まずは港南と天王洲に絞ります。古い倉庫や車庫を10件から15件。買えるもの、借地権を整理できるもの、今は買わずに押さえるだけのものに分けます」
「売り方は」
「売り急ぎません」
理恵は地図を指した。
「倉庫として貸し、車庫として貸し、収益を出します。その間に、周辺をまとめます。小さな土地を点で持つのではなく、道路と運河に沿って線で持ち、最後は面にします」
達也が言った。
「現場は僕が見ます。大型車が入れる道、荷さばきができる前面道路、夜間の騒音、運河側の使い道、建物の傷み具合。図面だけでは分かりません」
「頼む」
理恵は達也へうなずいた。
順子も続けた。
「私は、まず港南と天王洲の古い会社を拾います。倉庫会社や運送会社は、資金繰りに詰まっても、外には出しません。銀行と地元の不動産屋を当たります」
理恵はもう一度、尚人へ向いた。
「会長。大崎とみなとみらいで、早乙女土地売買㈱は会社として勝ちました。けれど、次に小さく動けば、ただの転売屋になります。都心の裏側を面で押さえれば、会社の格が変わります」
尚人は地図を見下ろした。
品川のビルから見える街は、表通りだけではない。駅の東側へ行けば、倉庫、運送会社、古い工場、運河沿いの建物が並ぶ。人が住む街というより、物が動く街である。そこに都心の土地が眠っている。
「理恵」
「はい」
「その案で行け。ただし、100億円という数字に酔うな。最初に買う土地を間違えれば、銀行も会社も重くなる」
「分かっています」
「順子さん」
「はい」
「売りに出ている物件ではなく、売らざるを得ない理由を探してください。銀行、相続、借地、古い賃貸、設備の老朽化。理由のない土地は高い」
「承知しました」
「達也」
「はい」
「港南と天王洲を歩け。紙の上で近くても、車が入らなければ倉庫にはならない。大型が曲がれるか、雨の日に水が出ないか、夜の作業ができるか。そこまで見ろ」
「分かりました」
尚人は、机の上に並ぶ2組の精算表を見た。
町田小山田と相原。
これは尚人個人の金で買い、佑馬が動いた案件である。
大崎駅東口と、みなとみらい周辺。
これは早乙女土地売買㈱が動かし、理恵、順子、達也が結果を出した案件である。
同じ土地売買でも、財布は違う。出した人間も、動いた人間も、利益を受ける場所も違う。ここを混ぜれば、金も人間関係もおかしくなる。
「今日は、この線をはっきりさせる日だ」
尚人が言うと、全員の視線が集まった。
「佑馬には、町田小山田と相原の1%を出す。金額は2,180万円だ。理恵、順子さん、達也には、大崎とみなとみらいの1%を、それぞれ1,180万円ずつ出す。どちらも働きに対する賞与だ。ただし、金の出どころは別だ。ここを間違えるな」
佑馬がうなずいた。
「町田小山田と相原は、会長個人の流れとして処理します。黒岩から受け取った5,000万円も、町田小山田の個人案件の収入として記録します」
理恵も答えた。
「大崎とみなとみらいは、早乙女土地売買㈱の利益として処理します」
「それでいい」
尚人はヘルメットを取った。
「私はこれから横須賀へ行く。ローザたちの様子を見る」
「フィリピン料理の店ですね」
理恵が尋ねた。
「そうだ。全員、あそこで働いている。今日は給料と社員寮の線を確認する」
順子が言った。
「五反田から離しただけでは、まだ生活ではありませんからね」
「その通りだ。住まいと給料をはっきりさせる。最初の1か月分は前払いする。黒岩の帳面から出たばかりの女たちに、給料日まで待てとは言えない」
理恵がうなずいた。
「基本給10万円ですね」
「そうだ。水光熱費5,000円を差し引くのは次の月からでいい。まず手元に現金を持たせる」
達也が低い声で言った。
「働いているのに金がないと、また誰かに頼るしかなくなりますね」
「そこを断つ」
尚人は、4人を見た。
「品川では、個人の金と会社の金を分ける。横須賀では、働く女たちに自分の給料を渡す。どちらも、金の線をはっきりさせるためだ」
理恵は姿勢を正した。
「こちらは、賞与の処理と港南の準備を進めます」
「頼む。今日の夕方までに、港南と天王洲で最初に当たる候補を5つに絞れ」
「はい」
佑馬も書類をまとめた。
「僕は、町田小山田と相原の個人分の記録を小沼さんへ渡します。賞与の処理も、会長個人の案件として確認しておきます」
「頼む」
尚人は事務所を出た。
廊下に出ると、電話の音、足音、エレベーターの低い機械音が重なっていた。品川のビルは、平日の仕事へ向かって動いている。尚人は地上へ降り、バイクのエンジンをかけた。
尚人個人の金は、町田小山田と相原で黒岩を追い詰めた。
早乙女土地売買㈱の金は、大崎とみなとみらいを経て、港南と天王洲へ向かう。
同じ土地の商売でも、道は2本に分かれている。
そして次は、黒岩の帳面から出た女たちに、働いた証としての金と、眠れる部屋を渡す番である。
前編では、町田小山田・相原と、大崎駅東口・みなとみらい周辺を別々に精算した。町田小山田と相原は、尚人個人の普通預金で押さえた案件であり、倉田佑馬が実務を扱い、尚人が決済した。町田小山田では、黒岩から受け取った入口部分の5,000万円と、東都住宅開発への売却代金16億5,000万円を合わせ、売却収入は17億円となる。そこから買値5億円を引いた利益は12億円である。相原の利益9億8,000万円を加えると、2件の利益は21億8,000万円になる。その1%にあたる2,180万円が、佑馬への特別賞与となる。一方、大崎駅東口とみなとみらい周辺は、早乙女土地売買㈱が扱った会社案件であり、利益11億8,000万円の1%、1,180万円ずつが、理恵、順子、達也へ会社賞与として支給される。個人の復讐と会社の成長を同じ帳簿に混ぜないことで、尚人は金の流れと人の働きを明確に分けた。




