第13話(後編)――「フィリピン料理店の初任給」
品川で、尚人は2つの金の流れを分けて精算した。町田小山田と相原は、尚人個人の普通預金で動かした案件であり、黒岩から受け取った5,000万円も町田小山田の収入に入れた。そのため、2件の利益は21億8,000万円となり、実務を扱った佑馬に2,180万円の報奨を出す。一方、大崎駅東口とみなとみらい周辺は、早乙女土地売買㈱の会社案件であり、理恵、順子、達也にそれぞれ1,180万円の特別賞与を支給する。その後、尚人は横須賀へ向かう。ローザたちは、すでにフィリピン料理店で働いていた。尚人は彼女たちの働きぶりを見たうえで、基本給10万円を最初の1か月分として前払いする。さらに、遊興ビル内の2DK10室を社員寮として使う方針を確認する。家賃は取らず、水光熱費は月5,000円だけ。ただし初月は取らない。黒岩の帳面で働かされていた女たちは、ここで初めて給料を受け取る社員になる。
(1986年5月19日月曜日午前11時30分、横須賀中央・尚人の遊興ビル)
横須賀中央へ着くころ、商店街は昼の支度に入っていた。
魚屋の前では氷が砕かれ、惣菜屋からは揚げ物の匂いが流れている。米軍の兵士らしい若い男たちが通りを抜け、買い物袋を下げた主婦が店先で足を止めていた。横須賀の昼には、五反田の夜とは違う音がある。店の呼び声、包丁の音、車のブレーキ音、港の方から来る湿った風である。
尚人は商店街裏手の遊興ビルの前にバイクを止めた。
1階の扉は開いていた。古い喫茶店跡は、すでにフィリピン料理の店として動き始めている。正式開店ではない。だが、昼の試し営業として、近所の工事業者や商店街の人に料理を出していた。
入口のガラスは磨かれ、内側には白い紙で書いた品書きが貼られていた。
鶏肉の煮込み。
豚肉と野菜の炒め物。
米飯。
卵のスープ。
コーヒー。
厨房からは、酢と醤油に似た香り、炊きたての米の匂い、油でニンニクを炒める匂いが流れている。五反田の店に染みついていた煙草と酒の匂いではない。人が飯を食う場所の匂いである。
尚人が入ると、最初にリサが気づいた。
「いらっしゃいませ……あ、ナオトさん」
リサは水の入ったコップを持ったまま、少し慌てて頭を下げた。日本語の発音はまだたどたどしい。だが、客に向かって声を出す形にはなっていた。
厨房では、ローザが鍋を見ていた。マリアは仕入れの帳面を開き、鶏肉、米、卵、野菜の数を鉛筆で書いている。ルースは大きな釜から米をよそい、テレサは野菜を切っていた。ベラは客席で注文を取る練習をし、エレナとアニタは弁当用の容器に料理を詰めている。
全員が働いていた。
尚人は入口近くでしばらく立ち、店の中を見た。
ここには、黒岩の店のような赤い照明はない。女たちを横に並べて客を待たせる席もない。白い皿、湯気の立つ鍋、米の匂い、洗った床。まだ不慣れな動きは多いが、彼女たちは客の酒ではなく、昼の飯を出していた。
ローザが厨房から出てきた。
「ナオトさん、来た」
「働いているな」
「みんな、朝から働いている。米、足りないくらい」
ローザの額には汗がにじんでいた。化粧は薄い。手には鍋つかみを持っている。五反田で客に笑顔を作っていた時とは、顔の使い方が違っていた。
マリアが帳面を持って近づいた。
「午前中で、弁当が22個出ました。店内は8人です。まだ試し営業ですが、近所の工事の人が来ています」
「値段は」
「弁当が450円、店内の定食が550円です。安すぎるかもしれませんが、最初は食べてもらう方を優先しています」
尚人は帳面を見た。
売上は大きくない。だが、数字がある。仕入れがあり、料理があり、客がいて、金が残る。黒岩の帳面とは違う。引くための数字ではなく、働きを見るための数字だった。
「いい。最初から高く取る必要はない。まず、このあたりの人に昼飯の店だと覚えてもらえ」
ローザがうなずいた。
「フィリピンの味、少し日本の人に合わせた。酸っぱいの、少しだけにした」
「全部を日本の味にしなくていい。ただ、毎日食べられる味にはしろ」
「分かった」
奥の席では、作業服の男が皿の飯をかき込んでいた。もう1人はスープを飲み、ベラに水を頼んでいる。ベラは一瞬言葉に詰まったが、すぐに「はい、水ですね」と答え、コップを取りに行った。
尚人はその様子を見て、軽くうなずいた。
客に水を出す。注文を聞く。皿を下げる。帳面に売上をつける。どれも店を支える仕事である。ひとつずつは小さく見えても、それが積み重ならなければ、店は店にならない。
◇ ◇ ◇
昼の客が一段落したあと、尚人は全員を客席に集めた。
テーブルを2つ寄せ、女たちは椅子に座った。ローザ、ルース、マリア、エレナ、リサ、テレサ、ベラ、アニタ。全員がエプロンをつけている。手には洗剤の匂いや油の匂いが残っていた。
尚人は机の上に封筒を8つ並べた。
封筒には、それぞれの名前が書いてある。
ローザ。
ルース。
マリア。
エレナ。
リサ。
テレサ。
ベラ。
アニタ。
中には10万円ずつ入っている。
ローザが封筒を見て、尚人を見た。
「ナオトさん、これは何?」
「最初の1か月分の給料だ。今日、前払いする」
ローザは、すぐに皆へ訳した。
ルースが眉を寄せた。
「給料、もう?」
「そうだ。おまえたちは、すでに働いている。厨房に立ち、客に水を出し、米を炊き、弁当を作っている。だから給料を払う」
マリアが尋ねた。
「でも、まだ正式開店ではありません」
「正式開店の前でも、働いていることに変わりはない」
尚人は封筒を指した。
「基本給は月10万円だ。残業代は別に払う。今日は、その最初の1か月分を前払いする。借金ではない。返せとは言わない。店で働く社員への給料だ」
ローザが訳すと、全員が封筒を見つめた。
黒岩の店では、金はいつも引かれるものだった。寮費、衣装代、紹介料、罰金、利息。働いても、手元には残らない。残らなければ、また借りる。借りれば、また働かされる。
尚人は、その仕組みを断つために、先に金を渡すことにした。
「水光熱費は月5,000円だけだ。ただし、今月は取らない。部屋へ移り、生活が落ち着いた次の月からでいい」
ローザが訳した。
テレサが小さく聞いた。
「家賃は?」
「取らない。社員寮だからだ」
「部屋、ほんとに1人?」
「1人1室だ。2DKを10室用意する。全員が入っても、部屋は余る。病気の時に休む部屋にも使える」
ルースが尚人を見た。
「給料から、あとで引く?」
「引かない。今日渡す10万円は、そのまま持っていけ。米を買う。下着を買う。髪を切る。電車に乗る。必要なものに使え」
ベラが封筒の名前を見たまま尋ねた。
「わたしの名前、書いてある」
「そうだ。給料は本人に渡す。誰かが代わりに預かることはしない」
尚人は、封筒を1つずつ手渡した。
最初にローザ。ローザは両手で受け取り、自分の名前を見た。
「これは、店の給料?」
「そうだ」
「黒岩さんの時みたいに、あとで増えない?」
「増えない。借金ではない」
次にルース。ルースは封筒の厚みを確かめ、すぐにはしまわなかった。
「まだ、信じるの、むずかしい」
「すぐ信じなくていい。給料明細を見る。契約書を見る。部屋の鍵を持つ。何か月か働いて、それから判断すればいい」
ルースは小さくうなずいた。
マリア、エレナ、リサ、テレサ、ベラ、アニタにも封筒を渡した。女たちは、それぞれの名前を確かめた。声を上げて喜ぶ者はいなかった。だが、封筒を膝の上に置く手は、誰も離そうとしなかった。
尚人は続けた。
「パスポートは本人が持つ。通帳も本人が持つ。給料明細も出す。読めない紙に判を押させることはしない。契約書は、通訳を入れて説明する」
ローザは、その言葉を一つずつ訳した。
「勤務は、フィリピン料理店が基本だ。いまは全員、この店で働く。料理、弁当、接客、仕入れ、掃除。夜の店に無理に出すことはしない。まず、昼の飯の店として立てる」
マリアがうなずいた。
「その方が、みんな落ち着きます」
「そうだ。酒の相手をさせるために連れてきたわけではない。働いて飯を出し、給料を受け取る。それを先に作る」
ローザは手元の封筒を見た。
「ナオトさん。これなら、みんな、買い物できる。自分で」
「それが大事だ」
尚人は答えた。
「金がなければ、人はまた誰かに頼る。頼った相手が黒岩のような男なら、また帳面に戻る。だから先に給料を渡す」
厨房の奥で、鍋の湯が小さく鳴った。昼の仕込みはまだ終わっていない。午後になれば、また弁当を取りに来る客がいる。
ローザは封筒をエプロンのポケットに入れた。
「じゃあ、午後の分、作る」
尚人は少し笑った。
「そうだ。給料をもらったら、次は働け」
ローザも笑った。
「はい。社長」
「私は社長ではない」
「でも、ナオトさんが作った店」
「店を作るのは、おまえたちだ。私は場所と金を用意しただけだ」
ローザは少し考え、それから厨房へ戻った。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、尚人はローザとマリアを連れて上の階へ上がった。
そこには、2DKの部屋が並んでいた。全部で10室ある。畳や壁紙は直す必要がある部屋もあるが、台所、浴室、トイレは使える。すでに鍵は交換され、各部屋の扉には小さな番号札がついていた。
尚人は最初の部屋の扉を開けた。
6畳の部屋と、もう1つの部屋。小さな台所。浴室とトイレ。押し入れ。窓を開けると、横須賀の商店街の音が少し入ってきた。魚屋の声、車の音、遠くの港から来る風。1DKに全員で身を寄せていた時とは違い、ここには1人で戸を閉められる広さがあった。
「ここを社員寮にする」
尚人が告げた。
ローザは部屋の中へ入り、畳を見た。
「ひとりで、ここ?」
「そうだ。1人1室だ。2DKだから、寝る部屋と食べる部屋を分けられる。荷物も置ける。誰かに遠慮せず眠れる」
マリアが室内を見回した。
「黒岩の部屋とは違いますね」
「違わなければ意味がない」
尚人は答えた。
「黒岩は、寝る場所まで借金にした。私はそうしない。ここは社員寮だ。家賃は取らない。水光熱費の5,000円だけだ。鍵は本人が持つ。会社側が合鍵を持つとしても、本人の了解なしに入らない。緊急時だけだ」
ローザが確認した。
「夜、勝手に開けない?」
「開けない。開ける理由がない」
ローザは窓際まで歩き、外を見た。商店街の屋根が見え、遠くに空の明るさがあった。
「ここなら、寝られる」
「眠れる部屋にする。働く場所の上にあるが、店に縛る部屋にはしない。休みの日は外へ出ればいい。誰かに会うなら会えばいい。辞めたい時は、契約に従って辞めればいい」
マリアが尋ねた。
「社員寮の規則は作りますか」
「作る。縛るためではない。揉めないためだ。水光熱費5,000円、鍵の扱い、掃除、ごみ出し、来客、夜の騒音。その程度でいい」
「分かりました」
尚人は廊下へ出て、10室を順番に見た。
壁紙が剥がれている部屋もある。畳が傷んでいる部屋もある。流しの下に錆が出ている部屋もある。だが、直せば使える。黒岩の寮のように、人を詰める箱ではない。社員として暮らす部屋にできる。
「今日から入れる部屋は何室ありますか」
マリアが尋ねた。
「3室だ。鍵も畳も終わっている。残りは、今週中に順に直す」
「誰から入れますか」
「本人たちに選ばせる。急ぐ者からでいい。1DKに残る者も、今週中には移す」
ローザはうなずいた。
「みんな、喜ぶ。でも、こわがる人もいる」
「怖がっていい。だが、部屋の鍵を自分で持てば、少しずつ変わる」
下の階から、リサの声が聞こえた。
「ローザさん、弁当、あと5つです」
ローザはすぐに振り返った。もう店の責任者の顔になっている。
「すぐ行く」
そう答えてから、ローザは尚人を見た。
「仕事、戻っていい?」
「戻れ。客を待たせるな」
ローザは階段を下りていった。マリアも帳面を抱えて続いた。
尚人は廊下に残り、2DKの扉を見た。
下では、フィリピン料理の店が動いている。上では、社員寮の部屋が整い始めている。仕事と住まいが、ようやく別々の意味を持ち始めていた。黒岩の帳面では、どちらも女たちを縛る道具だった。ここでは違う。
仕事は給料を生む。
部屋は眠るためにある。
その当たり前の線を引くことが、尚人の復讐の続きだった。
◇ ◇ ◇
1階へ戻ると、午後の弁当作りが始まっていた。
ルースが米をよそい、テレサが鶏肉をのせる。ベラが紙袋を広げ、リサが代金を受け取る。エレナとアニタは、スープの容器にふたをしていた。ローザは全体を見ながら、足りないものをマリアに伝えている。
「卵、午後にもう1箱」
「分かりました。商店街の店へ行きます」
「米も明日の朝までに足りない」
「帳面につけます」
そのやり取りを、尚人は入口近くで聞いていた。
ここには、すでに仕事があった。保護されるだけの女たちではない。朝から働き、昼の客に飯を出し、売上を帳面につけている。まだ小さな店である。だが、小さくても、働いた分だけ金が動く店である。
ローザが厨房から声をかけた。
「ナオトさん、昼ごはん食べる?」
「食べる」
「お金、取る」
ローザは真顔で言った。
尚人は財布を出した。
「当然だ。店の売上にしろ」
ローザは少し笑い、定食の札を1枚取った。
「550円です」
尚人は1,000円札を渡した。リサが釣り銭を数え、450円を盆にのせて出した。
「ありがとうございます」
発音はまだ硬い。だが、客に釣り銭を返す手つきは、朝より落ち着いていた。
尚人は席に座り、鶏肉の煮込みを食べた。酸味と甘みが先に来て、あとから肉の脂が残る。米によく合う味だった。
「うまい」
尚人が言うと、厨房のローザが振り返った。
「ほんと?」
「本当だ。これなら昼の客はつく」
ローザは笑ったが、すぐに鍋へ戻った。喜ぶより先に、次の弁当を詰めなければならない。それが店で働く者の顔だった。
尚人は箸を置き、店の中を見渡した。
品川では、町田小山田と相原の実務を扱った佑馬が、尚人個人の案件から2,180万円の報奨を受け取った。大崎駅東口とみなとみらい周辺を扱った理恵、順子、達也は、早乙女土地売買㈱の会社利益から、それぞれ1,180万円の特別賞与を受け取った。そして理恵は、港南と天王洲へ向けた100億円規模の地図を広げていた。
横須賀では、ローザたちが10万円の初任給を受け取り、550円の定食を売っている。
金額は違う。だが、どちらも同じ線の上にある。働いた者へ、働いた金を渡す。次に進む者へ、進むための場所を用意する。
黒岩は金で人を縛った。
尚人は、金で人を立たせる道を作る。
その違いを、今日の横須賀の店は、湯気と米の匂いの中で示していた。
後編では、ローザたちが全員、横須賀のフィリピン料理店で働いている。1階の店では、米を炊き、鶏肉を煮込み、弁当を作り、近所の客へ昼飯を出している。尚人は、彼女たちを保護されるだけの存在ではなく、店を支える社員として扱う。基本給は月10万円、残業代は別途支給。最初の1か月分は前払いし、給料を本人へ直接渡す。上階の2DK10室は社員寮とし、家賃は取らず、水光熱費は月5,000円だけとする。仕事と住まいの線をはっきり引くことで、黒岩の帳面に縛られていた女たちは、自分の手で働き、自分の名前で給料を受け取る生活へ踏み出す。




