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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第14話(前編)――「500万円の買い戻し」

ローザたちに初任給を渡し、横須賀の遊興ビルに社員寮の形を整えた尚人は、夕方、バイクで秋谷の屋敷へ戻る。だが、この日の仕事はまだ終わっていなかった。黒岩が5,000万円で買った町田小山田の土地は、黒岩の破産後、破産管財人が換金する財産になる。尚人は夕食前、秋谷の洋間から破産管財人へ電話を入れる。黒岩へ5,000万円で渡した土地を、今度は500万円で買い戻すためである。

 (1986年5月19日月曜日午後4時40分、横須賀中央・尚人の遊興ビル前)


 午後の横須賀中央には、昼の暑さがまだ残っていた。


 商店街の屋根の下では、魚屋が氷を寄せていた。惣菜屋の前からは、揚げ物の油の匂いが流れている。尚人の遊興ビル1階にあるフィリピン料理店では、夕方の仕込みが始まっていた。鍋からは鶏肉を煮る匂いが立ち、厨房ではローザが米の残りを数え、マリアが仕入れの数字を帳面に書き込んでいた。


 少し前まで給料の封筒を膝に置いていた女たちは、もう店の仕事へ戻っていた。


 尚人は入口の外に立ち、バイクのヘルメットを片手に持ったまま、店内をもう一度見た。


 リサは客席のテーブルを拭いている。ルースは厨房の奥で鍋を洗い、テレサは玉ねぎを刻んでいた。ベラとアニタは弁当容器を棚へ戻し、エレナは床を掃いている。


 五反田の黒岩の店とは違う。赤い照明も、客の酒も、借金を示す帳面もない。ここにあるのは、米、油、湯気の匂いであり、働いた分だけ受け取る給料である。


 ローザが入口まで出てきた。


「ナオトさん、もう帰るの?」


「秋谷へ戻る。夕食前に電話しなければならない相手がいる」


「仕事の電話?」


「そうだ。土地の件だ」


 ローザは少し首を傾けたが、それ以上は聞かなかった。


「明日も来る?」


「来る。部屋の修理と契約書の説明を進める。通訳も入れる」


「分かった。みんな、待っている」


 尚人はうなずいた。


「店は、ローザとマリアで見てくれ。金の出入りは必ず帳面につける。店の売上と個人の金を混ぜてはいけない」


 ローザは表情を引き締めた。


「混ぜない。マリアが帳面をつける。私はお金を渡す前に、必ずマリアに言う」


「それでいい」


 尚人はバイクへまたがった。エンジンをかけると、足元から低い振動が伝わってきた。店の中から、誰かが「おつかれさま」とたどたどしい日本語で声をかけた。尚人は片手を上げて応じた。


 バイクを走らせると、商店街の匂いが後ろへ流れていった。


 夕方の横須賀中央は、車の量が増え始めていた。バスの排気、焼き鳥屋の煙、港の方から来る湿った風が、ヘルメットの下へ順に入ってくる。


 品川では、町田小山田と相原の実務を扱った佑馬に2,180万円の報奨を出した。大崎駅東口とみなとみらい周辺を扱った理恵、順子、達也には、会社の特別賞与として、それぞれ1,180万円を支給した。横須賀では、ローザたちに10万円ずつの初任給を渡し、上階の2DKを社員寮にする方針を決めた。同じ1日の中で、金の意味は何度も変わった。


 個人案件の報奨。

 会社案件の賞与。

 女たちの初任給。

 社員寮の水光熱費。

 そして、これから交渉する町田小山田の土地。


 金は、人を縛る道具にもなる。人を立たせる力にもなる。黒岩は前者を選んだ。尚人は、後者を選ぶつもりでいた。だが、黒岩が残した土地だけは、まだ紙の上で処理が終わっていなかった。


 黒岩が5,000万円で買った町田小山田の土地である。


 見た目には入口角地だった。だが、公道へ出る細い筆は尚人の手元に残っている。通行承諾も、掘削承諾も、水道や排水の承諾もない。建物が建つ保証もない。黒岩は入口を押さえたつもりで、実際には道のない土地を買ったのである。


 その黒岩は、もう持ちこたえられなかった。


 店は失い、女たちは横須賀へ移り、黒岩の帳面は力を失った。町田小山田の土地は、黒岩が最後に残した大きな荷物だった。破産手続きに入れば、破産管財人はその土地を換金しなければならない。


 しかし、誰が買うのか。


 道のない土地を、誰が買うのか。


 尚人は海沿いへ抜ける道で速度を少し落とした。西日が海の方から白く返り、バイクのミラーに一瞬だけ映った。黒岩が見落とした公図の細い線は、まだ効いている。最後まで、その線を使い切らなければならなかった。


 ◇ ◇ ◇


 秋谷の屋敷に着いたのは、午後5時半を少し回ったころだった。


 門の前でバイクを止めると、黒松の枝が夕方の風でかすかに鳴っていた。池の水面には、西日の名残が鈍く映っている。谷戸の空気は横須賀中央より冷えていて、土と草の匂いが濃かった。


 尚人はエンジンを切り、ヘルメットを脱いだ。


 門を開ける音に気づき、新三が庭の奥から出てきた。


「お帰りなさいませ」


「ただいま」


「バイクでお戻りでしたか」


「道が詰まる。今日は早く戻りたかった」


 新三はバイクを納屋側へ回すため、ハンドルに手をかけた。尚人はそれを任せ、玄関へ向かった。上がり框には、澄江がそろえた草履がきちんと置かれている。


 家の中には、夕食の匂いがすでに広がっていた。焼き魚の香ばしさ、味噌汁の湯気、煮物の醤油の匂いである。


 澄江が台所から顔を出した。


「お帰りなさいませ。お食事は6時半でよろしゅうございますか」


「その前に電話を1本入れる。洋間を使う」


「お茶をお持ちいたします」


「頼む」


 尚人は廊下を歩き、洋間へ入った。


 暖炉の残る洋間には、夕方の光が斜めに入っていた。机の上には、町田小山田の公図の写し、売買契約書の控え、黒岩側に渡した本体部分の地番、尚人側に残した細い私道部分のメモが並んでいる。小沼から届いた資料も、赤い紐でまとめられていた。


 尚人は上着を脱ぎ、椅子に座った。


 まず、小沼へ電話をかけた。


 呼び出し音が数回鳴り、小沼本人が出た。


「小沼です」


「早乙女です。町田小山田の黒岩分の件です」


「管財人の連絡先は確認しました。黒岩興業と黒岩辰夫個人の件で、同じ弁護士が窓口に立っています。正式な破産開始決定も出ています。いまは、換金できる財産を整理している段階です」


「土地の評価は、どう見ている」


「管財人側も困っているようです。黒岩が5,000万円で買ったことは把握しています。ただ、接道、通行、掘削、水道、排水の承諾がないことも、こちらから資料を送っています。普通の買い手がつく土地ではないと、向こうも分かっているはずです」


「では、今から電話する」


「最初から500万円を提示しますか」


「いや、300万円から入る」


 受話器の向こうで、小沼が少し黙った。


「かなり低いですね」


「低い。だが、あの土地に通常の市場はない。買えるのは、周りの土地と道を持っているこちらだけだ」


「管財人は、債権者への説明を気にします。5,000万円で買った土地を300万円で売るとなれば、理由が必要です」


「理由はある。道がない。通行承諾もない。掘削承諾もない。水道も排水も通せない。建築も保証されない。銀行の担保にもなりにくい。現地を見れば角地に見えても、紙の上では孤立している」


「その説明なら通ります」


「最終的には500万円で受ける。だが、先に相手に土地の弱さを確認させたい」


「分かりました。私は事務所におります。必要ならすぐ折り返してください」


「頼む」


 尚人は受話器を置いた。


 澄江が茶を運んできた。湯呑みの白い湯気が、洋間にある紙の匂いに混じった。


「お夕食は、少し遅らせましょうか」


「いや、6時半でいい。この話は、それまでに片をつける」


 澄江は余計なことを聞かなかった。ただ、「かしこまりました」と言って下がった。


 尚人は湯呑みに口をつけた。茶は熱く、舌に渋みが残った。体の中に残っていたバイクの振動が、少しずつおさまっていく。


 机の上の公図を見た。


 黒岩が欲しがった入口。

 啓子が見抜いた細い筆。

 小沼が整えた契約書。

 そして、管財人が処分に困っている土地。


 黒岩は、5,000万円で自分の首を締める土地を買った。だが、尚人はそこで終わらせるつもりはなかった。残った土地も回収し、町田小山田の入口を完全に自分の手へ戻す。


 ◇ ◇ ◇


 午後5時55分、尚人は管財人の事務所へ電話を入れた。


 女の事務員が出たあと、しばらく待たされ、落ち着いた男の声に変わった。


「坂井法律事務所、坂井です」


「早乙女尚人と申します。黒岩興業と黒岩辰夫さんの破産財団に入っている、町田小山田の土地の件でお電話しました」


「早乙女さんですか。小沼司法書士から資料は届いております」


 坂井の声は慎重だった。愛想を足すこともなく、相手を責める調子でもない。紙と数字で話す職業の声だった。


「それなら、話が早いと思います」


「こちらとしても、あの土地の扱いには困っております。黒岩氏は5,000万円で取得したと説明していたようですが、資料を見る限り、単独での換価は容易ではありません」


「容易ではないというより、ほぼ無理でしょう」


 尚人ははっきり言った。


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


「たしかに、公道へ直接出る筆ではありませんね」


「そうです。黒岩さんに売ったのは、契約書に書いた地番の土地だけです。隣接する細い私道部分は売買対象外です。通行承諾も出していません。掘削承諾も出していません。水道管と排水管を通す承諾もありません。建築の可否も保証していません」


「契約書にも、その記載があります」


「あります。私は隠していません」


「それは確認しております」


 坂井は、そこで少し間を置いた。


「ただ、管財人としては、債権者に対し、できるだけ高く売る義務があります。黒岩氏が5,000万円で買った土地を、二束三文で処分するわけにはいきません」


「その通りです」


 尚人はすぐに答えた。


「だから、私が買います」


「金額は、いくらでお考えですか」


「300万円です」


 電話の向こうが沈黙した。


 怒っているというより、坂井は返す言葉を選んでいるようだった。紙を押さえるような小さな音がしたあと、ようやく声が戻った。


「早乙女さん。さすがに、その金額では債権者への説明が難しい」


「では、先生はほかに買い手を探せますか」


 尚人は声を荒げなかった。


「町田小山田の現地に立てば、角地に見えます。ですが、紙を見れば違います。公道へ出る細い筆は私の手元です。私が通行を認めなければ、車も人もまともに入れない。掘削を認めなければ、水道も排水も通せない。建築確認も厳しい。銀行も担保としては見ないでしょう」


「そこは、こちらも認識しています」


「なら、その土地を買う者は限られます」


「隣接地の所有者である早乙女さん、ということですね」


「そうです」


 坂井は、また紙をめくった。


「黒岩氏は、かなり無理な買い方をしたようですね」


「急いでいましたから」


「早乙女さんは、それを承知で売った」


「売買対象の地番と権利関係は、契約書で明示しました。私道を売るとは言っていません。通行できるとも言っていません。水道や排水が通るとも言っていません。建物が建つとも言っていません」


「そこも確認しています」


 坂井の声から、責める響きが少し薄れた。代わりに、事実を積み上げる調子になっていく。


「ただ、300万円では低すぎる。こちらも一応は査定を取る必要があります」


「査定を取るのは当然です。まともな業者なら、値はつけにくいはずです」


「そうかもしれません」


「その間に、管財費用だけが増えます。固定資産税もかかる。現地管理もいる。債権者へ配当できる金は、時間をかけるほど減るのではありませんか」


 電話の向こうで、坂井が小さく息を漏らした。


「お若いのに、嫌なところを突きますね」


「商売です」


「分かりました。では、こちらからも申し上げます。500万円なら、管財人として検討できます」


 尚人は、受話器を持つ手を動かさなかった。


 最初から、その金額が落としどころだった。


「500万円ですか」


「はい。5,000万円で取得した土地を300万円で売ったとなると、債権者から必ず突かれます。500万円でも安いですが、接道なし、通行承諾なし、掘削承諾なし、水道・排水承諾なしという事情があれば、説明はできます」


「裁判所の許可は必要ですね」


「必要です。任意売却の形で進めます。買付証明書を出してください。金額は500万円。現金決済。瑕疵担保については免責です。破産財団からの売却ですから、管財人としても余計な保証はしません」


「こちらも保証は求めません。買う土地の中身は分かっています」


「それなら話は早い」


 坂井の声に、少しだけ荷が下りたような響きが混じった。管財人にとっても、処理に困る土地が現金へ変わるのは悪い話ではない。


「ただし、早乙女さん」


「はい」


「この土地は、黒岩氏があなたから買ったものですね」


「そうです」


「それをあなたが買い戻す。債権者の中には、最初から仕組まれていたのではないかと疑う者も出るかもしれません」


「疑うのは自由です」


 尚人は答えた。


「私は契約書の通りに売りました。相手は確認して買った。今回も、管財人から契約書の通りに買います。隠すものはありません」


「資料は全部残っていますか」


「残っています。公図、契約書、売買対象外の私道部分、通行・掘削・水道・排水の承諾を出していないこと。すべて小沼から出せます」


「では、その資料も添えてください。こちらの記録にも入れます」


「分かりました」


「買付証明は、明日付けで構いませんか」


「今日の日付で出します。小沼からファクスで送らせます。原本は明日届けます」


「助かります」


 尚人は、湯呑みから上がる湯気を見た。夕方の光は弱くなり、洋間の窓の外では、黒松の枝が濃い影になり始めていた。


「坂井先生」


「はい」


「決済は、いつごろになりますか」


「裁判所の許可と債権者への報告があります。早ければ2週間ほどでしょう。遅れても1か月はかけたくありません」


「できるだけ早くお願いします。町田小山田全体の整理を進めたい」


「承知しました」


「では、500万円で買付証明を出します」


「こちらも、その前提で進めます」


 電話はそこで終わった。


 尚人は受話器を置いた。


 部屋には、茶の匂いと紙の匂いが残っていた。台所の方から、澄江が鍋を動かす音が聞こえる。夕食の支度が進んでいるのだろう。屋敷の中では、いつもの時間が流れている。だが、机の上では、5,000万円で黒岩へ渡った土地が、500万円で戻る道を開いたところだった。


 ◇ ◇ ◇


 尚人はすぐに小沼へ電話をかけた。


「500万円でまとまった」


「そこまで落ちましたか」


 小沼の声には、驚きよりも納得があった。


「買付証明を今日の日付で出す。現金決済。瑕疵担保は求めない。破産財団からの任意売却。裁判所の許可が必要だ」


「承知しました。書式はこちらで作ります。買主は、早乙女尚人個人でよろしいですね」


「個人でいい。早乙女土地売買㈱には入れない」


「町田小山田と相原の個人資金の流れに合わせるわけですね」


「そうだ」


「分かりました。500万円は、普通預金から出しますか」


「決済時に普通預金から出す」


 尚人は、机の端に置いた資金メモへ目をやった。


 尚人個人の普通預金は、19億3,496万0500円である。


 この金額には、町田小山田のうち黒岩へ売った入口部分の5,000万円、東都住宅開発への売却代金16億5,000万円、相原の売却益、5月分の賃貸料2,000万円が反映されている。そこから佑馬への報奨2,180万円、ローザたちの清算金1,200万円、横須賀遊興ビル取得時の銀行融資返済2億6,600万円も差し引いてある。


 決済時に500万円を出しても、資金の流れは崩れない。むしろ、町田小山田の入口を完全に戻すための必要経費である。黒岩に5,000万円で渡した土地を、500万円で買い戻す。数字だけ見れば、4,500万円の差がある。だが、尚人が見ているのは差額ではなかった。


 道を戻すこと。


 黒岩が見落とした線を、尚人の手へ戻すこと。


 そこに意味があった。


「小沼さん」


「はい」


「この件は、相手を笑う話にはしない。書類上は、淡々と処理してください」


「もちろんです」


「黒岩の破産に乗じて買い叩いた、という印象も避けたい。こちらが買わなければ換金できない土地だった。その線を残してください」


「分かっています。接道なし、通行承諾なし、掘削承諾なし、水道・排水承諾なし、建築保証なし。そのため通常市場での換価が困難。隣接地所有者による買受けが最も合理的。そういう形にします」


「それでいい」


「買付証明は、30分以内にまとめます。管財人にも送ります」


「頼みます」


 電話を切ると、尚人は椅子の背にもたれた。


 黒岩の顔が思い浮かんだ。


 五反田の店で女たちを従え、町田は角だけでいいと口にしていた男である。あの男は、土地を見ていなかった。女たちも見ていなかった。見ていたのは、自分が金を吸い上げる入口だけだった。だから、本当の入口を見落とした。


 公図の細い線。


 そこに黒岩の欲が引っかかった。


 そして今、その土地は破産管財人の手を通り、500万円で戻ろうとしている。


 ◇ ◇ ◇


 午後6時半、澄江が洋間の入口に立った。


「旦那様。お食事の支度が整いました」


 尚人は机の上の公図をそろえた。


「分かった。すぐ行く」


 澄江は机の上の紙には目を落とさなかった。だが、尚人の顔を見て、用件が片づいたことは察したらしい。


「お電話は、うまくお済みになりましたか」


「済んだ。500万円で戻る」


 澄江は、話の細かな意味までは知らない。それでも、丁寧に頭を下げた。


「それは、ようございました」


 尚人は少し笑った。


 廊下へ出ると、屋敷の中には夕食の匂いが満ちていた。焼き魚、味噌汁、炊きたての飯。外では黒松の枝が夕闇の中で揺れている。秋谷の屋敷は、五反田や町田の騒ぎとは離れた場所にあるように見えた。


 だが、尚人には分かっていた。


 この屋敷の電話一本で、黒岩の残した最後の土地が動いたのである。


 座敷へ行くと、膳が整えられていた。鯵の干物、ひじきの煮物、豆腐の味噌汁、白い飯。派手な料理ではない。だが、湯気が立ち、1日の終わりに体を戻す匂いがした。


 尚人は座り、箸を取った。


 黒岩が5,000万円で買った土地は、500万円で戻る。


 その数字は、ただの金額差ではなかった。

 人を縛るための金と、人を立たせるための金。

 道を奪うための金と、道を戻すための金。

 黒岩と尚人の違いは、そこにも出ていた。


 尚人は味噌汁をひと口飲んだ。豆腐のやわらかさと出汁の温かさが、胃に落ちていく。


 町田小山田の入口は、これでほぼ戻る。


 ただし、復讐はまだ終わらない。黒岩が破産したあとにも、黒岩の後ろにいた者たち、町田の角地に目をつけた者たち、フランス女たちの線は残っている。入口の石を取り除いただけでは、道の奥までは片づかない。


 尚人は箸を置き、庭の闇を見た。


 黒松の枝の向こうに、夜の空が広がっている。


 今日、ローザたちは給料を受け取った。

 そして今日、黒岩が5,000万円で買った土地は、500万円で戻る見通しがついた。


 黒岩はもう、土地を動かす立場にはいない。店も女たちも失い、破産手続きの中で残った土地まで管財人の管理下に入った。暴行罪で拘置されている黒岩に、町田小山田を握り続ける力はなかった。


 あとは、裁判所の許可を待ち、決済を済ませるだけである。


 尚人は箸を取り直し、夕食を続けた。味噌汁の湯気が、座敷の静かな空気の中へ細く上がっている。


 黒岩の名前で残っていた最後の土地も、書類の上で処理される。

 尚人は、そう確認してから、ゆっくり飯を口へ運んだ。

前編では、第13話後編の流れを受け、尚人が横須賀中央の遊興ビルからバイクで秋谷の屋敷へ戻る。ローザたちに初任給を渡したあと、尚人は夕食前に破産管財人へ電話を入れ、黒岩が5,000万円で買った町田小山田の土地を500万円で買い戻す道をつける。第13話の資金整理により、尚人個人の普通預金は19億3,496万0500円である。買い戻し代金500万円は、まだ買付証明の段階であり、決済時に普通預金から支払う。土地は破産管財人の管理下に入ったが、道も、通行承諾も、掘削承諾も、水道・排水の承諾もなく、普通の買い手はつかない。尚人はその弱さを淡々と示し、最後は500万円で任意売却の買付証明を出す。黒岩が見落とした公図の細い線は、破産後もなお、黒岩の残した土地を縛り続けていた。

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