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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第14話(後編)――「葉山から来た孫」

黒岩が5,000万円で買った町田小山田の土地は、破産管財人との交渉で500万円で買い戻す道がついた。尚人は秋谷の屋敷で夕食を取り、ようやく一日の仕事を終えようとしていた。だが、その夜、屋敷の電話が鳴る。受話器の向こうにいたのは、2026年のホーチミンから来た孫、直樹だった。直樹は、母モロー美咲〈36〉を持つ、フランスと日本の血を引く20歳の青年である。ホーチミンの工学系大学2年生で、尚人から預かった送信機の仕様書をもとに、1986年へ来ていた。

 (1986年5月19日月曜日午後8時20分、秋谷の屋敷)


 夕食を終えたあと、尚人はしばらく座敷に残っていた。


 膳はすでに下げられ、畳の上には茶の香りだけが残っている。庭の黒松は夜の中に沈み、池の水面には廊下の灯りが細く映っていた。昼の横須賀中央、夕方の管財人との電話、町田小山田の買戻し。ひとつひとつは片づいたが、頭の中ではまだ紙の数字が動いていた。


 黒岩が5,000万円で買った土地は、500万円で戻る見通しがついた。


 ただし、まだ決済は済んでいない。裁判所の許可を待ち、管財人との任意売却を終えて、初めて尚人の手元へ戻る。ここで浮かれてはいけない。黒岩は拘置され、破産手続きの中にいる。尚人が今やるべきことは、黒岩を笑うことではなく、書類を間違えずに処理することだった。


 尚人は湯呑みを置いた。


 そのとき、廊下の奥で電話のベルが鳴った。


 夜の屋敷で聞く電話の音は、昼間より硬かった。広い廊下に乾いた音が伸び、障子の向こうで澄江が足を止めた気配がした。尚人はすぐに立ち上がり、洋間へ向かった。


 電話は洋間の机の上にあった。


 尚人は受話器を取った。


「早乙女です」


 受話器の向こうから、若い男の声がした。


「お祖父ちゃん。直樹です」


 尚人は一瞬だけ黙った。


 直樹。


 その名前を聞いた瞬間、秋谷の洋間の空気が、1986年から一歩だけ外れたように感じた。だが、尚人は声を乱さなかった。直樹には、2026年のホーチミンで送信機の仕様書と起動キー、葉山のテラスの住所と鍵を渡してある。こちらへ着いたら、まず連絡するように伝えていた。


「今、どこにいる」


「葉山です。お祖父ちゃんから預かった住所のテラスに着いた。電話は近くの公衆電話からかけている」


「ひとりか」


「うん。荷物も持っている。けれど、夜だから少し分かりにくい」


 直樹の声は落ち着いていた。だが、耳を澄ますと、周囲の音が混じっている。車の通る音、遠くの波の音、風が受話器の穴をかすめる音。葉山の夜にいるのは間違いなかった。


「そこを動くな。公衆電話の近くにいろ。今から迎えに行く」


「バイクで来るの?」


「そうだ。車では時間がかかる」


「分かった。待っている」


 尚人は受話器を置いた。


 直樹が来た。


 2026年のホーチミンで、仕様書を読み、送信機を作ったはずの孫が、今、葉山にいる。尚人は机の上の公図を見た。町田小山田の細い線、黒岩の土地、管財人の名前。どれも現実である。だが、その横にもうひとつ、未来から来た血縁という、もっと説明の難しい現実が置かれた。


 澄江が廊下から顔を出した。


「旦那様。お電話は、どちら様でございましたか」


「身内だ。葉山まで迎えに行く」


「今からでございますか」


「そうだ。若い者が1人で来ている。放っておけない」


 澄江はすぐに頷いた。


「では、お帰りになりましたら、お夜食を用意いたします」


「いや、まず部屋を1つ整えておいてくれ。今夜は泊める。話は明日の朝にする」


「かしこまりました」


 尚人は上着を取り、廊下を急いだ。


 玄関先では、新三がすでに気づいていた。庭の方から出てきて、尚人のバイクを納屋から出そうとしている。


「旦那様、葉山まででございますか」


「ああ。すぐ戻る。だが遅くなるかもしれない」


「お気をつけください」


 尚人はヘルメットをかぶり、バイクにまたがった。夜の秋谷は、昼よりも山の匂いが濃い。エンジンをかけると、静かな屋敷の前で低い音が響いた。門を出ると、海から来る風がすぐに頬を打った。


 ◇ ◇ ◇


 夜の道は、昼間とは違う顔をしていた。


 街灯は少なく、海沿いの道はところどころ暗い。バイクのライトがアスファルトの白線を拾い、松の影が一瞬だけ路面を横切る。右手の海はほとんど見えない。ただ、風の湿り気と、波の音だけでそこにあると分かる。


 尚人は速度を上げすぎなかった。


 直樹が来た理由は分かる。自分が呼んだのだ。だが、実際に来たとなると、話は別である。直樹は20歳。ホーチミンの工学系大学2年生で、頭はいい。送信機の仕様書を読み、作り、1986年へ来るだけの腕もある。


 だが、ここは2026年ではない。


 銀行も、大学も、通信も、身分証明も、すべて違う。直樹はフランスと日本のハーフで、顔立ちも目立つ。母はモロー美咲〈36〉。直樹が自分の孫だと説明すれば、それだけで時間の筋が壊れる。


 それでも、来てしまった。


 尚人はヘルメットの中で、軽く歯を噛んだ。


 未来から来た者を、どう扱うか。佑馬一家だけでも十分に重い。その上、直樹まで秋谷に入るとなれば、屋敷の中での説明が必要になる。澄江や新三に、詳しい事情を話すわけにはいかない。


 親戚の若者。


 当面は、それで通すしかない。


 葉山に近づくと、道沿いに小さな灯りが増えた。飲食店の看板、民家の窓、公衆電話の緑色の光。尚人は電話で聞いた場所の近くまで来ると、速度を落とした。


 公衆電話の前に、若い男が立っていた。


 背が高く、肩に無理のない厚みがある。薄い上着を羽織り、片手に鞄を持っている。街灯の下で見る顔は、たしかに直樹だった。日本人の血を感じさせる黒い髪と、フランスの血が出た鼻筋、深い目元。20歳の若さがあるが、顔立ちはすでに大人の男である。


 直樹はバイクに気づき、手を上げた。


 尚人は路肩に止め、エンジンを切った。


「待たせたな」


「ううん。思ったより早かった」


 直樹はそう言って、少し笑った。


 尚人はその顔を見て、妙な感覚を覚えた。


 2026年のホーチミンで見た孫が、1986年の葉山の夜に立っている。血縁としては孫でありながら、今の尚人の身体は22歳である。周囲の人間から見れば、2人はほとんど同年代の若者に見えるだろう。祖父と孫という関係は、ここでは紙の上にも、見た目にも出せない。


「荷物はそれだけか」


「これだけ。仕様書と部品のメモも持ってきた。リモコンは鞄の中にある」


「人に見せるな」


「分かっている」


 直樹の返事は早かった。


 尚人は、近くの街灯の下へ直樹を連れて行き、顔をよく見た。疲れはある。だが、怯えてはいない。むしろ、目の奥には、知らない機械を前にした時のような集中があった。


「いつ着いた」


「夕方遅く。葉山のテラスに出た。最初は少し気分が悪くなったけど、落ち着いた。中に入って、荷物を確認してから、近くの電話を探した」


「よく電話番号が分かったな」


「お祖父ちゃんのメモに、秋谷の屋敷の番号が入っていた」


「そうか」


 尚人は短く答えた。


 直樹は少し周囲を見回した。


「ここ、本当に1986年なんだね。車の形も、看板も、電話も違う。空気の匂いも違う」


「その話はあとだ。今は秋谷へ戻る」


「うん」


 尚人はバイクの後ろを示した。


「乗れ。鞄は体の前に抱えろ。落とすな」


「ヘルメットは?」


「予備を持ってきた」


 尚人は荷台から予備のヘルメットを出し、直樹へ渡した。直樹は少し不器用にかぶり、あご紐を締めた。工学系の学生らしく、留め具の形を確かめる手つきは早い。


「しっかりつかまれ。夜の海沿いは風が強い」


「分かった」


 直樹が後ろに乗ると、バイクの重さが少し変わった。尚人はエンジンをかけた。低い振動が2人の足元へ伝わる。


 バイクは葉山の夜道を走り出した。


 直樹は最初、遠慮がちに尚人の上着をつかんでいた。だが、カーブで風を受けると、しっかり胴に腕を回した。血縁という言葉より、その腕の力の方が、尚人には現実に感じられた。


 ◇ ◇ ◇


 秋谷の屋敷に戻ったのは、夜11時を少し過ぎたころだった。


 門の前でバイクを止めると、屋敷の灯りはまだ落ちていなかった。玄関の明かりが砂利に薄く広がり、黒松の枝が夜風でかすかに揺れている。池の水面は暗く、風が通るたびに小さな音を立てた。


 新三が門の内側で待っていた。


「お帰りなさいませ」


「遅くなった」


 尚人はヘルメットを脱ぎ、後ろの直樹を見た。


「こちらは身内の直樹だ。今夜は泊める」


 新三は直樹を見て、一瞬だけ驚いた顔をした。


 直樹の顔立ちは、この時代の秋谷では目立つ。背が高く、目鼻立ちがはっきりしている。外国の血が混じっていることは、見れば分かる。だが、新三は余計なことを聞かなかった。


「直樹様でございますね。ようこそお越しくださいました」


 直樹は少し戸惑いながらも、きちんと頭を下げた。


「夜分にすみません。お世話になります」


「どうぞ中へ」


 玄関では、澄江が待っていた。夜遅いというのに、着物の上に割烹着を重ね、廊下には小さな行灯を置いている。湯気の立つ急須と、軽い夜食らしい盆も見えた。


 澄江も直樹の顔を見て、ほんの少し目を見開いた。だが、すぐに柔らかく頭を下げた。


「遠くからお越しでございましたか。お疲れでしょう」


「はい。ありがとうございます」


 直樹の日本語は自然だった。ただ、母音の響きに、わずかに外国語の影がある。澄江はそれを聞いても、顔に出さなかった。


 尚人は言った。


「今日はもう遅い。詳しい話は明日の朝にする。直樹には別の部屋を用意してくれ」


「すでに離れに近い客間を整えております。布団も敷いてございます」


「助かる」


 澄江は直樹に向き直った。


「お腹は空いておられませんか。おにぎりと味噌汁なら、すぐにお出しできます」


 直樹は一瞬迷ったが、正直に答えた。


「少し、いただけると助かります」


 尚人は小さくうなずいた。


「食べてから寝ろ。明日の朝、飯を食いながら話す」


「うん。分かった」


 直樹はそう答えかけて、澄江と新三の前で言い直した。


「分かりました」


 尚人はその小さな修正を見逃さなかった。直樹は頭の回転が速い。ここでの距離の取り方を、もう探り始めている。


 ◇ ◇ ◇


 直樹を客間へ通すと、部屋にはすでに布団が敷かれていた。


 障子の向こうに庭の暗さがあり、畳には新しい布団の匂いが広がっている。床の間には花はない。夜の客を急に泊めるには、それで十分だった。鞄を置いた直樹は、部屋の中を静かに見回した。


「すごい家だね」


 直樹が小さく言った。


「秋谷の旧海運商の別邸だ。今は俺の家だ」


「お祖父ちゃん、1986年で何をしているのかと思ったら、こんなところに住んでいたんだ」


「説明は明日だ」


「分かっている」


 直樹は布団の端に座った。長い移動で疲れたのだろう。表情は保っているが、肩の力が少し抜けていた。


 澄江が盆を運んできた。おにぎりが2つ、豆腐とわかめの味噌汁、たくあんが少し。夜遅くの食事としては十分だった。


「お口に合うか分かりませんが」


「ありがとうございます。いただきます」


 直樹は丁寧に手を合わせた。箸を持つ手つきはきれいだった。母の美咲が教えたのか、それとも本人の癖なのか。尚人はしばらくそれを見ていた。


 澄江が下がると、直樹は味噌汁をひと口飲んだ。


「おいしい」


「そうか」


「ホーチミンでも味噌汁は飲むけど、これは違うね。だしが濃い」


「澄江の腕だ」


 直樹はおにぎりを食べながら、鞄へ視線を向けた。


「リモコンは、鞄の奥に入れてある。仕様書もある。誰にも見せない」


「それでいい。明日の朝、俺の部屋で確認する」


「お祖父ちゃん」


「ここでは、その呼び方は使うな」


 尚人は低く言った。


 直樹はすぐに口を閉じた。


「この時代では、俺は22歳だ。お前は20歳。人前で祖父と孫は通らない」


「じゃあ、何て呼べばいい?」


「尚人さんでいい。身内ということにはするが、詳しい続柄は言わない」


「分かった。尚人さん」


 直樹は少し照れくさそうに言った。だが、すぐに真面目な顔に戻った。


「母さんには、どこまで話していい?」


「美咲には、まだ戻ってからでいい。今はお前が無事でいることが先だ」


「母さん、心配すると思う」


「当然だ。だが、お前は自分で来た」


 直樹はおにぎりを置き、少しだけ目を伏せた。


「来たかった。お祖父ちゃんが危ないことをしているのに、僕だけホーチミンで仕様書を読んでいるのは嫌だった」


「その話も明日だ」


 尚人はそこで立ち上がった。


「今日は寝ろ。ここへ来ただけで、体には負担があるはずだ」


「うん。分かった」


「朝食は8時だ。そこで話す」


「分かった。おやすみ、尚人さん」


「おやすみ」


 尚人は部屋を出て、障子を静かに閉めた。


 廊下に出ると、屋敷の空気はもう夜の深いところに入っていた。台所では澄江が器を片づける音がする。新三は玄関の戸締まりを確認している。黒松の枝が外で鳴り、海の方から湿った風が廊下の隙間へ入ってきた。


 今日一日で、尚人は多くの金を動かした。

 黒岩の土地を500万円で戻す道をつけた。

 ローザたちには給料と部屋を渡した。

 そして夜の終わりに、未来から来た孫を秋谷の屋敷へ入れた。


 土地の線だけではない。

 血の線まで、この屋敷に入ってきたのである。


 ただし、今夜はもう話さない。


 尚人は洋間へ戻り、机の上に置いた町田小山田の公図を閉じた。その横に、明日の朝、直樹のリモコンと仕様書が置かれることになる。


 黒岩の残務処理は、書類へ移った。

 直樹の登場で、次に扱うべきものは、土地だけではなくなった。


 尚人は灯りを落とした。


 秋谷の屋敷は、夜11時を過ぎて、ようやく静かになった。

後編では、黒岩の土地買戻しを終えた夜、尚人のもとへ孫の直樹が現れる。直樹はモロー美咲〈36〉の息子で、フランスと日本の血を引く20歳の青年である。ホーチミンの工学系大学2年生で、尚人から預かった仕様書をもとに送信機を扱い、1986年の葉山へ到着した。尚人は夕食後の電話で直樹の到着を知り、バイクで葉山へ迎えに行く。秋谷の屋敷へ戻ったのは夜11時ごろだった。詳しい事情は明日の朝食で話すことにし、直樹は客間で休む。黒岩の土地処理が終わりかけた夜、秋谷の屋敷には、今度は未来から来た血縁の問題が持ち込まれた。

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