第15話(前編)――「17億2,000万円の朝」
未来から来た直樹は、秋谷の屋敷で初めての朝を迎える。尚人はその若い孫に、都内の短期土地売買を任せることを決めていた。直樹は持参した書類と自分の立場を確認し、1986年の社会へ入る準備を始める。
(1986年5月20日火曜日午前6時、横須賀・秋谷の屋敷)
直樹は、障子越しの朝の光で目を覚ました。
昨夜、秋谷の屋敷に入ったのは夜11時を過ぎてからである。体は疲れていたが、眠りは深くなかった。畳の匂い、遠くから聞こえる波の音、庭木を揺らす風の音が、ホーチミンの自宅とはまるで違っていた。
直樹は布団の中でしばらく天井を見ていた。やがて体を起こし、枕元に置いた鞄を手元へ引き寄せた。
鞄の中には、パスポート、運転免許証、戸籍抄本、そして簡単な経歴を書いたメモが入っていた。直樹は一つずつ取り出し、内容を確認した。
メモには、こう書かれていた。
モロー直樹。20歳。現住所は葉山の低層テラスハウス。帝都工業大学理工学部2回生。母はモロー美咲〈36歳〉。早乙女尚人の母方の叔母に当たる。父は死亡。
この時代で外へ出す説明としては、それで足りる。詳しく語りすぎると、かえって疑われる。直樹はメモを折り直し、戸籍抄本と一緒に封筒へ戻した。
前日の夕方、直樹はホーチミンの自宅から、1986年5月19日の葉山へ転移した。到着したのは、葉山の低層テラスハウスである。外へ出ると、道路を走る車、店の看板、歩いている人の服装が、知っている時代とは違っていた。直樹は公衆電話を探し、秋谷の尚人へ電話した。受話器を握る手には汗がにじんでいた。
その後、尚人がバイクで迎えに来た。
未来では祖父だった人が、この時代では22歳の青年である。直樹はその事実を、まだすんなり受け入れられずにいた。
ただ、一つだけは分かっていた。
自分は見物に来たのではない。
◇ ◇ ◇
午前7時半を過ぎるころ、澄江が客間の前へ来た。
「直樹様、朝食の支度が整いました」
直樹はすぐに返事をした。
「ありがとうございます。すぐ行きます」
廊下へ出ると、屋敷はもう動いていた。新三が玄関の戸を開け、庭先の砂利を掃いている。台所からは味噌汁の匂いが流れていた。広い家である。だが、人が暮らしている手触りがあった。
朝食の席には、尚人が先に座っていた。
「よく眠れたか」
「眠れた。けれど、何度か目が覚めました」
「無理もない。昨日の今日だからな」
尚人はそう言い、直樹の前に置かれた膳を見た。白い飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、漬物。特別な料理ではないが、朝の食事としては十分に整っていた。
直樹は箸を取った。
「いただきます」
澄江と新三が近くにいたため、直樹は言葉を選んだ。尚人もそれを承知していた。
「直樹は、今日からしばらく秋谷に置く。身内だ。細かい続柄は外へ言わなくていい」
尚人は澄江と新三に向けて告げた。
「かしこまりました」
澄江は頭を下げた。新三も黙ってそれに続いた。
朝食が終わると、尚人は直樹を洋間へ連れていった。机の上には、小切手帳と数枚の書類が置かれていた。
尚人は椅子に座ると、すぐに本題へ入った。
「直樹。お前には、都内の短期土地売買を任せる」
直樹は背筋を伸ばした。
「僕に任せるのですか」
「そうだ。お前は20歳だが、頭は使える。未来の知識もある。ただし、この時代では、年齢だけ見れば信用されにくい。だから最初から金を持たせる」
尚人は小切手を1枚、直樹の前へ置いた。
金額は、17億2,000万円だった。
直樹は数字を見たまま、しばらく口を開けなかった。
「……本気なのですか」
「本気だ」
尚人は顔色を変えなかった。
「2,000万円は、お前の生活費と必要な物品の購入に使え。衣類、靴、鞄、筆記具、身の回りのもの、移動に必要なものだ。この時代で不自然に見えないように整えろ」
「残りの17億は?」
「全額、土地売買資金だ。生活費に混ぜるな。遊びにも使うな。都内で、少ない期間で動かせる土地を拾う」
直樹は小切手から目を離せなかった。
「僕は、まだこの時代の土地勘がありません」
直樹は正直に答えた。
尚人は机の上に都内の地図を広げ、赤鉛筆でいくつかの地域を囲んだ。
「土地勘は、これから自分で覚えればいい。俺は同行しない。お前一人で見て、一人で交渉し、一人で判断しろ」
直樹は地図へ目を落とした。
赤い線は、世田谷、成城、代沢、松濤、広尾、代官山の周辺に引かれていた。
「狙うのは、都内の高級住宅地だ。今まで俺が扱った土地は除外する。理恵たちが動く予定の土地にも手を出すな。大崎、五反田、品川、目黒の案件も今回は外せ」
「高級住宅地を買うのですね」
「そうだ。古い屋敷を持っている家を見ろ。親が亡くなり、相続税を払えない息子や娘が出てくる。そういう相手は、早く現金が欲しい。銀行や不動産屋を回れば、表に出る前の話が拾える」
尚人は、地図の世田谷区のあたりを指で押さえた。
「世田谷、成城、代沢は特に見る。渋谷区なら松濤、広尾、代官山だ。広さだけで判断するな。道にどう接しているか、分筆できるか、古家を壊した後にどう売れるかを見るんだ」
直樹はうなずいた。
「相続で困っている家から、現金決済を条件に安く買うのですね」
「そうだ。ただし、相手を泣かせるだけの商売はするな。買い叩くにしても、相手が税金を払え、こちらも利益を出せる線を探せ。そこを外すと、恨みだけが残る」
「分かりました。僕一人で回ります」
「必要な時だけ電話しろ。判断はお前がする。17億は、そのために渡す金だ」
直樹はうなずいた。
「大学の勉強より、ずっと実戦ですね」
「大学は身分を作るためにも必要だ。だが、今の仕事は金を動かすことだ」
尚人はさらに、秋谷での住まいについて話した。
「お前には、母屋に続く敷地の一角にある3LDKの一軒家を使わせる。寝具も電化製品もそろっている。今日からそこへ入れ」
「客間ではないのですね」
「客ではなく、働く身内として置く。葉山のテラスハウスは、そのまま別荘として使えばいい。住所もそこにしてある。必要な時は葉山へ行け」
直樹は少し表情を緩めた。
「いきなり家と17億ですか。重いですね」
「重いから渡す」
尚人はすぐに答えた。
「軽い金なら、人は雑に扱う。重い金なら、嫌でも考える」
直樹は小切手を両手で受け取った。
「やってみます。いや、やります」
「それでいい」
◇ ◇ ◇
午前8時半、尚人は車を出した。
直樹は助手席に座り、鞄を膝の上に置いていた。鞄の中には小切手と書類が入っている。昨夜まで持っていたのは、未来から来た自分の身分を示すものだった。今はそこに、1986年で動くための資金が加わっていた。
秋谷の屋敷を出ると、海沿いの道に朝の光が差していた。仕事へ向かう車が増え始め、バス停には学生と会社員が並んでいた。直樹は窓の外を見ながら、道路の幅、店の看板、車の形を目に焼きつけた。
1986年の日本は、紙と電話と銀行で動いている。
ホーチミンの自宅から持ってきた知識だけでは足りない。この時代では、窓口へ行き、名刺を出し、人に会い、書類に判を押して初めて物事が進む。直樹はその感覚を、これから覚える必要があった。
尚人が運転しながら言った。
「銀行では、余計なことを言うな。聞かれたことに答えればいい」
「分かりました」
「金額が大きいから、担当者は必ず俺を見る。だが、今日から口座と資金はお前の仕事だ。分からないところは、その場で聞け。知ったふりをするな」
「それは大丈夫です。分からないことは聞きます」
「ならいい」
車は横須賀の市街地へ入った。店のシャッターが上がり、歩道には自転車が増えていた。銀行の前には、開店を待つ人が数人立っていた。
尚人は銀行の近くに車を寄せた。
「着いたぞ」
直樹は鞄を持ち直した。まだ朝の風は涼しかったが、手のひらには汗が出ていた。
尚人は車のドアを開け、銀行の入口へ向かった。
直樹もその後に続いた。
1986年5月20日火曜日の朝、モロー直樹の最初の仕事は、横須賀の銀行から始まった。
直樹は1986年の秋谷で初めての朝を迎え、尚人から17億2,000万円を託される。都内高級住宅地の短期土地売買を任された直樹は、未来から来た見物人ではなく、この時代で自ら金を動かす者として、横須賀の銀行へ向かう。




