第15話(中編)――「五つの買付証明」
直樹は横須賀の銀行で17億円を普通預金に入れ、2,000万円を現金で受け取る。資産運用を勧める銀行員に対し、直樹は株や債券ではなく、都内高級住宅地の土地を買いたいと告げる。
横須賀の銀行で、直樹は17億円を普通預金に入れた。
残りの2,000万円は現金で受け取った。1万円札の束は、銀行の封筒に分けてもかなりの厚みがあった。直樹はそれを鞄の底に入れ、上から書類を重ねた。
手続きが終わり、帰ろうとした時である。
顧客資産運用課の課長が、応接室で少し話をしたいと言ってきた。40代半ばの男で、髪をきちんと横に分け、声は低く落ち着いていた。
最初に出てきた話は、株式、債券、投資信託だった。
直樹は最後まで聞いたうえで、はっきり断った。
「株や債券はやりません。僕が買いたいのは土地です。都内の高級住宅地で、相続の関係で早く売りたい土地を探しています」
課長の顔つきが変わった。
「土地でございますか」
「はい。世田谷、成城、代沢、松濤、広尾、浜田山。そのあたりです。広告に出ている物件ではなく、表に出る前の話が欲しいのです」
課長はすぐには答えなかった。内線電話をかけ、古い住宅地図と数枚の資料を持ってこさせた。
机の上に地図が広げられた。
「正式な売り物件としては、まだ出ておりません。ただ、当行に相談が来ている案件ならございます」
課長は、赤鉛筆で印をつけた。
「成城6丁目、古い洋館付きの宅地、約260坪です。相続税の納付期限が近く、現金決済を望んでいます。5億2,000万円なら話が動く見込みです」
直樹はメモを取った。
「次は?」
「代沢2丁目、約180坪です。こちらも相続です。3億2,000万円。駅に近く、分けて売りやすい土地です」
「続けてください」
「松濤1丁目、約95坪。古家付きで、権利関係に少し手間がかかります。7億8,000万円です。広尾3丁目は、古アパート付きで約120坪。6億8,000万円です。最後に浜田山、屋敷跡で約300坪。こちらは4億5,000万円です」
直樹は、数字を足した。
「全部で27億5,000万円ですね」
「はい」
「僕の資金は17億円です。残りは銀行から借ります」
課長は一瞬、直樹の顔を見た。20歳の若者が、10億円を超える借入を当然のように口にしたからである。
だが、課長はすぐに表情を戻した。
「早乙女様の保証はいただけますか」
それまで黙っていた尚人が、椅子の背から体を起こした。
「俺の命令でやらせている。保証は出す」
尚人はそれだけ言うと、また黙った。交渉に口は出さないという態度だった。
課長は深く頭を下げた。
「それでしたら、12億円の短期融資として本店へ上げます。担保は取得する土地です。あわせて、早乙女様の連帯保証をいただきます」
「それでいいです」
直樹は即答した。
「5件すべてに買付証明を入れてください。条件は現金決済。売主の相続税納付に間に合うよう、こちらは早く払います。その代わり、今の金額から上げません」
「承知いたしました」
「買付証明の名義はモロー直樹。保証人は早乙女尚人。融資は12億円。残りは僕の普通預金から出します」
課長は、すぐに部下を呼んだ。
応接室に書類が運ばれてきた。買付証明書、融資申込書、保証意思の確認書、本人確認書類の写しである。1986年の銀行は、紙で動いていた。紙の上に名前を書き、判を押し、担当者がそれを持って廊下を走った。
直樹は、1枚ずつ読んだ。
成城6丁目。5億2,000万円。
代沢2丁目。3億2,000万円。
松濤1丁目。7億8,000万円。
広尾3丁目。6億8,000万円。
浜田山。4億5,000万円。
合計、27億5,000万円。
直樹は署名し、判を押した。
尚人も保証人欄に名前を書いた。顔色は変わらなかった。
課長は書類をそろえ、立ち上がった。
「本日中に売主側へ打診します。相続案件ですので、早い返事が来るはずです」
「売主には、こちらが本気で買うと伝えてください」
「もちろんでございます」
「ただし、値段は上げません。急いでいるのは売主です。こちらは5件まとめて買える。それを強みにしてください」
課長はうなずいた。
「承知いたしました」
手続きが終わると、直樹は鞄を持って立ち上がった。中には2,000万円の現金と、5件分の控え書類が入っていた。鞄には、もともと持っていた100万円も入れてある。直樹の手元資金は、合計2,100万円である。
銀行の玄関を出ると、午前の光が通りに差していた。
尚人が横に並んだ。
「よく決めたな」
「尚人さんが狙えと言った土地です。迷う理由はありません」
「ここから先は、お前の仕事だ」
「分かっています」
直樹は銀行の建物を振り返った。
儲けは、まだ1円も出ていない。
だが、買付けは入った。融資も動いた。5つの土地は、まだ遠い東京にある。それでも直樹は、もう取引の入口に立っていた。
◇ ◇ ◇
銀行を出ると、尚人は車の前で足を止めた。
「俺は秋谷へ戻る。ここから先は、お前一人で動け」
「分かりました」
「買付けの返事は、銀行から秋谷へ入る。お前は今日中に、東京へ行ける足を用意しろ」
「バイクを買います」
「安いものを選ぶな。横須賀から成城まで走る。仕事にも使う。信用を落とさないものにしろ」
「分かりました」
「事故だけは起こすな」
尚人はそれだけ言うと、車に乗った。直樹はその車を見送ってから、鞄を持ち直し、横須賀の商店街へ向かった。
商店街には、衣料品店、時計店、食堂、レコード店が並んでいた。直樹はその中にある大きなバイク販売店に入った。
店内の奥に、カワサキGPZ900R Ninjaの逆輸入車が置かれていた。黒と赤の車体で、ひと目で大型車だと分かる。値札には、本体価格150万円とあった。
直樹はすぐに店員を呼んだ。
「これを買います。今日、乗って帰れますか」
店員は直樹の顔を見てから、バイクを見た。
「大型です。免許はありますか」
「あります」
直樹は運転免許証を出した。店員は確認すると、声の調子を少し改めた。
「登録、整備、自賠責、任意保険まで入れると高くなります。ヘルメットや上着も必要です」
「全部そろえてください。手袋、雨具、防犯チェーンも要ります」
「本体150万円、登録費、整備費、自賠責、任意保険、用品一式を入れて、180万円でいかがでしょうか」
「それでいいです」
直樹は鞄から現金180万円を出した。店員は紙幣の束を見て目を丸くしたが、余計なことは聞かなかった。
所持金は、2,100万円から1,920万円になった。
手続きが終わるまで、直樹は店内で待った。店員は急いで車体を点検し、燃料を入れ、必要な書類をそろえた。
やがて、鍵が直樹に渡された。
「お待たせしました。かなり速いバイクです。無理はしないでください」
「分かりました」
直樹はヘルメットをかぶり、店の前へ出た。
時刻は昼前だった。朝から銀行で動き続けていたため、腹が空いていた。近くにフィリピン料理の看板が見えたので、直樹はバイクを止め、その店に入った。
そこが尚人の持つ遊興ビルの中にある店だとは、直樹は知らなかった。
店内には、フィリピンの女性たちが数人いた。昼は食堂として開けているらしく、厨房から肉を炒める匂いがしていた。
直樹が入ると、女たちの視線が一斉に集まった。
黒髪だが、顔立ちは日本人だけではない。背もあり、まだ20歳の若さがある。女たちは顔を見合わせ、すぐに席へ案内しようとした。
「いらっしゃいませ」
ローザが声をかけた。いつもより声が少し高かった。
「昼食を食べたいのですが」
「はい。座ってください。アドボ、シニガン、パンシットがあります」
「では、アドボとご飯をお願いします」
直樹は席に着いた。
しかし、落ち着いて食べられる様子ではなかった。女たちは水を持ってくる者、皿を出す者、紙ナプキンを置く者と、用事を作るように直樹の近くへ来た。
「あなた、日本人ですか」
「半分は日本人です」
「フィリピン人?」
「違います。母がフランス系です」
その一言で、女たちはまた顔を見合わせた。
直樹は返事に迷いながら、出されたアドボを食べた。味はよかった。酢と醤油の味が肉にしみていて、飯によく合った。
ただ、視線が多すぎた。
「ごちそうさまでした」
直樹は代金300円を払った。
所持金は、1,919万9,700円になった。
直樹は早めに店を出た。背中に女たちの声が聞こえた。
「また来てください」
「絶対ですよ」
直樹は返事に困り、軽く頭を下げただけで外へ出た。
直樹がGPZ900R Ninjaにまたがると、店の窓から女たちが見ていた。直樹は前を向き、成城へ向かった。
◇ ◇ ◇
午後、直樹は帝都工業大学理工学部の成城校舎に着いた。
門の前には学生が多かった。ジーンズ姿の者、作業服に近い服を着た者、図面筒を持つ者がいる。直樹はバイクを駐輪場へ入れ、学生課へ向かった。
黒と赤の大型バイクは、駐輪場でも目立った。近くにいた学生が、何人か振り返った。
事務手続きは簡単ではなかったが、持参した書類はそろっていた。学生課の職員は、直樹の戸籍抄本と経歴メモを見て、復学扱いに近い形で処理を進めると言った。
手続きを終えて廊下へ出ると、同じ年ごろの学生が声をかけてきた。
「君、転入か何か?」
「そんなところです。モロー直樹です。理工学部2回生」
「俺も2回生だ。榎本啓一。よろしく」
直樹はその名前に反応した。
「榎本?」
「うん。父は榎本修一。母は啓子。家は成城2丁目」
直樹は一瞬だけ黙った。
秋谷の屋敷の元所有者が、榎本修一だったからである。
「成城2丁目なんだ」
「そう。大学に近いから楽だよ。君はどこに住んでいるの?」
「今は秋谷です」
「秋谷? 遠いな。よく通う気になったね」
「今日、バイクを買いました」
「駐輪場のNinja、君のか?」
「そうです」
「すごいな。あれで秋谷から来たのか」
「今日は横須賀で買って、そのまま来ました」
啓一は感心した顔をした。
「それなら目立つな。授業のことなら教えるよ。2回生は、最初に友達を作っておかないと困るからな」
「助かります」
「じゃあ、まず食堂と研究棟を案内する。君、まだ何も分かっていない顔をしている」
「その通りです」
直樹は素直に答えた。
銀行で27億5,000万円の買付証明を出したその日の午後、直樹は大学で同じ20歳の友人を得た。
相手は榎本啓一。
その父は、秋谷の屋敷の元所有者である榎本修一だった。
直樹は5件の土地に買付証明を入れた後、横須賀で高級大型バイクを購入する。昼食に入ったフィリピン料理店でローザたちと出会い、午後には帝都工業大学で榎本啓一と知り合う。




