第15話(後編)――「成城の家」
帝都工業大学で榎本啓一と知り合った直樹は、成城2丁目の榎本邸へ誘われる。そこで直樹は、啓一の母・榎本啓子と出会う。
帝都工業大学の構内をひと通り案内した後、榎本啓一は直樹を見て言った。
「時間があるなら、うちへ来ないか。成城2丁目だから、ここからすぐだ」
「迷惑ではありませんか」
「大丈夫。母は人が来るのを嫌がらない」
直樹は少し考えてから、うなずいた。
「では、少しだけ寄らせてもらいます」
啓一は自転車、直樹はバイクで大学を出た。成城の住宅街は道幅が広く、庭のある家が多かった。午後の光が生け垣に当たり、通りは静かだった。道路の端には落ち葉が少し残り、手入れされた植木の匂いがした。
榎本邸は、成城2丁目の落ち着いた一角にあった。古いが手入れの行き届いた家で、門の奥に玄関が見えた。敷地には低い松があり、玄関脇には鉢植えの花が並んでいた。
「ただいま」
啓一が玄関を開けた。
奥から、女性の声がした。
「お帰りなさい。お友達?」
「うん。今日、大学で知り合った。モロー直樹君。同じ2回生」
廊下に現れたのは、榎本啓子〈44歳〉だった。
直樹は、その場で足を止めた。
啓子もまた、直樹を見たまま一瞬だけ返事が遅れた。互いに初めて会った相手である。だが、その一瞬で、普通の挨拶だけでは済まないものが残った。
直樹は、啓子の顔を見て、持っていたヘルメットを握り直した。派手な美しさではない。落ち着いた目、きちんと結われた髪、白いブラウスの襟元、相手を乱暴に見ないまなざしがあった。若い女の明るさとは違う、暮らしの年月を重ねた人の美しさである。
啓子も、直樹からすぐには目を離せなかった。黒髪で、若さがあった。だが、顔立ちには日本人だけではない輪郭があり、目元にはどこか見覚えがあった。
早乙女尚人に似ている。
啓子は、最初にそう感じた。
もちろん、同じ顔ではない。尚人の方が鋭く、直樹の方にはまだ若い危うさがある。それでも、相手を見る時の目、言葉を飲み込む前の間、背筋の伸び方がよく似ていた。
啓子はすぐに表情を整えた。
「いらっしゃい。啓一の母の榎本啓子です」
直樹は慌てて頭を下げた。
「モロー直樹です。急にお邪魔して申し訳ありません」
「いいのよ。啓一の友達なら歓迎します。どうぞ上がって」
啓子は穏やかに迎えた。
直樹は返事をしたが、声が少し硬かった。
◇ ◇ ◇
客間に通されると、啓子は麦茶を出した。グラスの表面に細かな水滴がついていた。直樹は礼を言って受け取ったが、手に少し力が入った。
啓一は平気な顔で座っていた。
「モロー君は、どちらに住んでいるの?」
啓子が尋ねた。
「今は秋谷です。ただ、成城にも用事が増えそうです」
「秋谷から成城まで通うのは大変ね」
「今日、横須賀でバイクを買いました」
「それでも遠いでしょう」
「はい。だから、住む場所は考えないといけないと思っています」
啓子は、直樹の言葉を普通の相談として聞こうとした。だが、目の前の青年の声や表情が、時折、尚人を思い出させた。
啓子は、早乙女尚人にも好意を持っていた。秋谷の屋敷をめぐる縁があり、尚人の若さと度胸も印象に残っていた。しかし、それは好意の枠を出なかった。
尚人の方も同じである。
尚人の心には倉田順子がいた。だが、順子は甥の佑馬の妻である。尚人にとって、最初から結ばれるはずのない相手だった。
その意味では、モロー直樹と榎本啓子も同じである。
直樹は20歳。啓子は44歳。しかも啓子は、啓一の母である。直樹は息子の同級生として、この家に来ていた。
啓子は賢明だった。自分の中に生まれた思いを、直樹に見せてはいけないと分かっていた。
「啓一、大学のことをちゃんと教えてあげたの?」
「案内はしたよ。食堂と研究棟と学生課」
「それだけでは足りないでしょう。モロー君はまだ慣れていないのだから、しばらく面倒を見てあげなさい」
「分かってる」
啓一は笑って答えた。
啓子は、あくまでも息子の友人として直樹を扱った。麦茶を注ぐ手も、言葉の調子も、普段の母親のままである。
しかし、直樹の方はうまく隠せなかった。
啓一が電話を取りに席を外した時、客間には直樹と啓子だけが残った。廊下の奥で、啓一の声が小さく聞こえた。庭からは、葉の擦れる音がした。
直樹は、グラスを置いた。
「あの、啓子さん」
「何かしら」
「今日お会いしたばかりで、こんなことを言うのはおかしいと分かっています」
啓子は直樹を見た。
「僕は、また啓子さんに会いたいです。啓一の友達としてだけではなく」
啓子の表情は大きく変わらなかった。
ただ、グラスに伸ばした指が止まった。
啓子はすぐには答えなかった。直樹の言葉が軽いものではないことを分かってしまったからである。若い勢いだけなら、笑って流せた。だが、直樹の声には、不器用なまじめさがあった。
「モロー君」
啓子は穏やかに呼んだ。
「あなた、早乙女さんとご親戚なの?」
直樹は少し驚いた。
「尚人さんのことですか」
「ええ。あなたを見た時、少し似ていると思ったの。顔そのものではなくて、目の感じや立ち方が」
直樹は、尚人から言われていた説明を思い出した。
「はい。僕は早乙女尚人さんの従弟です。母はモロー美咲といいます。36歳です。尚人さんの母方の叔母に当たります」
「そうだったの」
「はい。僕は母の関係で、早乙女家につながっています。今は尚人さんに世話になっています」
啓子はうなずいた。
直樹が尚人に似ている理由は分かった。だが、それで気持ちが整理できたわけではなかった。尚人を思い出させる青年が、尚人とは違う若さを持って目の前にいる。啓子は湯のみではなく、自分のグラスを手元へ引き寄せた。
「だから、秋谷にいるのね」
「はい」
「早乙女さんは、あなたを大事にしているのね」
「はい。とても大事にしてくれています」
直樹はそう言ってから、もう一度啓子を見た。
「だからこそ、軽い気持ちで言っているわけではありません」
啓子は視線をグラスへ落とした。直樹のまっすぐな言い方は危うかった。受け止めれば、互いに戻れなくなる。突き放せば、必要以上に傷つける。
啓子は、息子の母としての立場を選んだ。
「モロー君。あなたは啓一の同級生よ。今日、初めて会ったばかりでもあるわ」
「分かっています」
「分かっているなら、その気持ちは、今は胸にしまっておきなさい。若い時は、急に強い気持ちが出ることがあるの。けれど、それをすぐ言葉にすると、自分も相手も困らせてしまう」
直樹は返事に詰まった。
「すみません」
「謝らなくていいのよ。悪いことをしたわけではないわ」
啓子は、そこで声を少しやわらげた。
「ただ、私は啓一の母です。あなたを息子の友人として迎えます。それでよいでしょう」
直樹は唇を結んだ。
啓子の言葉は拒絶である。だが、冷たくはなかった。だからこそ、直樹はそれ以上踏み込めなかった。
「はい」
そこへ啓一が戻ってきた。
「悪い。電話、父からだった」
直樹はすぐに姿勢を戻した。
「そろそろ帰ります。今日はありがとうございました」
「また大学でな」
啓一が言った。
啓子も玄関まで見送った。
「気をつけて帰ってね。秋谷まで遠いから」
「はい。失礼します」
直樹はバイクに乗った。門の前で一度だけ振り返ると、啓子はまだ玄関先に立っていた。
啓子は何も言わなかった。直樹も言葉を返せなかった。
直樹は前を向き、エンジンをかけた。
◇ ◇ ◇
夕方、直樹は秋谷の屋敷へ戻った。
尚人は洋間で、銀行から届いた連絡を受けていた。5件の買付けは順に売主側へ伝わり、成城6丁目の反応が一番早かった。
「成城はまとまりそうだ」
尚人が言った。
「相続税の期限が近い。向こうは現金決済を欲しがっている。こちらの5億2,000万円でかなり前向きだ」
直樹は少し黙った。
「尚人さん。成城6丁目の土地と建物ですが、当面は売却対象から外したいです」
尚人は直樹を見た。
「理由は?」
「僕が住みたいからです」
「秋谷では不満か」
「不満ではありません。ただ、大学へ通うには遠いです。それに、成城に拠点があれば、大学にも土地の現場にも動きやすいです」
「それだけか」
尚人の目は鋭かった。
直樹は視線をそらさなかった。
「榎本啓一の家が成城2丁目にあります。今日、啓一の母親に会いました」
「啓子さんか」
「はい」
尚人は黙った。
直樹は正直に言った。
「啓子さんに惹かれました」
尚人はすぐには答えなかった。
直樹は続けた。
「どうなるとは思っていません。相手は啓一の母親です。僕が勝手に気持ちを持っただけです。それでも、成城に住みたいと思いました」
「啓子さんに、俺との関係は聞かれたか」
「聞かれました。尚人さんに似ていると言われました」
「何と答えた」
「設定通り答えました。僕は早乙女尚人さんの従弟です。母のモロー美咲は36歳で、尚人さんの母方の叔母に当たると」
尚人はうなずいた。
「それでいい」
「啓子さんは納得していました」
「啓子さんは勘がいい。下手な嘘を重ねるより、その設定を通した方がいい」
尚人はそう言ってから、少し笑った。
「俺の従弟は、厄介なところまで俺に似るらしいな」
「怒りますか」
「怒りはしない。だが、分かっているな。啓子さんは啓一の母親だ。お前の同級生の母親だ。簡単にどうこうできる相手ではない」
「分かっています」
「俺にも、結ばれない相手がいる」
尚人はそれだけ言った。
直樹は、その名前を聞かなかった。尚人も言わなかった。
「成城6丁目は、お前が住め。売却対象から外す」
「いいのですか」
「5件まとめて売れば大きく儲かる。だが、全部を金に変える必要はない。拠点もいる。成城に家を持つ意味はある」
直樹は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、仕事は仕事だ。成城に住むからといって、啓子さんの家へ毎日顔を出すな。啓一との関係も壊すな」
「はい」
「成城6丁目は、契約がまとまり次第、直樹の住まいとして整える。古い洋館なら、使える部屋から使えばいい。修繕が必要なら金を出せ」
直樹はうなずいた。
尚人は机の上の地図を見た。
「成城を外しても、代沢、松濤、広尾、浜田山が残る。利益はそこで出せばいい」
「分かりました」
直樹は成城6丁目の印を見つめた。
そこは、ただの転売用の土地ではなくなった。
1986年5月20日火曜日の夜、モロー直樹は成城に自分の家を持つことを決めた。土地売買の初仕事は、金だけではなく、直樹自身の居場所も動かし始めていた。
直樹は成城2丁目の榎本邸で、啓一の母・啓子と出会う。啓子は直樹が尚人の従弟であることを知り、直樹は成城6丁目の土地を自分の住まいにすることを決める。




