第16話(前編)――「成城へ向かう朝」
1986年5月21日水曜日、直樹は秋谷の屋敷を出て、成城の帝都工業大学へ向かう。出発直前、成城6丁目の屋敷がこの日から使えるとの連絡が入り、直樹には新しい住所と生活の場が与えられた。午前の講義を受けたあと、昼のレストランで啓子と成城の奥様方に出会い、午後にはラグビー部の練習に加わる。未来から来た青年が、1986年の成城に自分の足場を作り始める一日である。
(1986年5月21日水曜日午前8時すぎ、横須賀・秋谷の屋敷)
朝食を終えた直樹は、秋谷の屋敷の玄関先でバイクにまたがろうとしていた。
潮を含んだ朝の風が庭の黒松を揺らし、砂利の上に薄い光が落ちている。直樹はヘルメットを手に取り、帝都工業大学へ向かうつもりでいた。成城のキャンパスには、榎本啓一も来ているはずだった。
その時、屋敷の電話が鳴った。
澄江が受話器を取り、すぐに尚人を呼んだ。銀行からだった。尚人は廊下の電話台へ行き、用件を聞いた。
「全件、買付けが終わりました」
担当者の声は、いつもより明るかった。
「成城の屋敷も、本日からお使いいただけます。リフォームは特に必要ありません。寝具も、客用の新しいものが入っております」
さらに、屋敷には住み込みの執事と家政婦が、そのまま残るという。執事の月給は20万円、家政婦の月給は15万円である。6月と12月に、それぞれ2か月分の賞与を払えばよい。食費や日用品などの生活費として、別に20万円ほど見ておけば当面は足りる。つまり、まず用意すべき金は月55万円であった。
尚人は受話器を置くと、玄関先の直樹へ向き直った。
「直樹、成城の屋敷は今日から使える。執事と家政婦もそのまま残るそうだ。給料はこちらで払う。生活費を合わせて、当面は月55万円を見ておけばいい」
直樹は目を丸くした。
「屋敷に、もう人がいるんですか」
「いる。住み込みだ。家のことは、その2人に任せればいい。おまえは大学と仕事に集中しろ」
直樹はヘルメットを持ったまま、少し恐縮した。
「分かりました。祖父さん、ありがとうございます」
「礼はいい。まず、成城へ行け。帝都工業大学で啓一と会え。屋敷の鍵と人の扱いは、今日中にこちらで整える」
「はい」
直樹は深く頭を下げたあと、バイクにまたがった。エンジンがかかると、朝の静かな屋敷に低い音が広がった。
尚人は門の前まで出て、走り出す直樹を見送った。若い背中は、まだこの時代に慣れていない。だが、成城の屋敷と大学と、そこに集まる人間が、これから直樹の足場になる。
直樹は海沿いの道へ出ると、成城の帝都工業大学へ向かった。
榎本啓一も、もう来ていることだろう。
◇ ◇ ◇
(1986年5月21日水曜日午前10時すぎ、成城・帝都工業大学)
帝都工業大学の成城キャンパスは、直樹が想像していた大学とは少し違っていた。
赤い煉瓦の校舎は古く、窓枠には細かな埃が溜まっていた。中庭には銀杏の若葉が揺れ、風が通るたびに、土と草と古い木の匂いが混じって流れてくる。廊下の床は固く磨かれていたが、ところどころに靴跡が残っている。教室では白墨の粉が黒板の下に落ち、机の天板には学生が彫ったらしい小さな傷がいくつもあった。
直樹は午前中の講義を受けた。
内容は難しくない。むしろ、ホーチミンの大学で学んでいた工学の授業のほうが、計算も図面も容赦がなかった。だが、日本語で聞く講義は、耳の奥で一度引っかかる。教授の声、学生の笑い、黒板を叩く白墨の音。そのすべてが、直樹には新しい時代の音だった。
講義が終わると、直樹は校舎の外へ出た。昼前の光は強く、舗装された道から熱が上がっていた。腹が空いていた。朝食はしっかり食べたが、バイクで秋谷から成城まで走り、講義を受けたせいで、体の奥が燃料を求めていた。
啓一は文芸部へ顔を出すと言って、別の校舎へ向かった。
榎本啓一は、直樹とは正反対の男だった。元は文系志望で、本や文章の話になると目が生きる。だが父親の勧めで理工学部へ入り、今は図面と数式の間で少し肩身の狭そうな顔をしている。細身で、声も控えめだった。直樹のように、廊下を歩くだけで周囲の視線を集めるタイプではない。
直樹は、大学の近くにあるフレンチレストランへ入った。
店は通りから少し奥へ入った場所にあった。白い扉を開けると、バターと焼いた肉の匂いが鼻へ入った。床は木で、歩くたびに靴底が柔らかく鳴る。窓際には白いテーブルクロスがかかり、グラスが昼の光を受けて小さく光っていた。厨房の奥では鍋が金属の音を立て、皿を置く乾いた音が何度も聞こえた。
直樹は一人で席に着き、ランチの肉料理を頼んだ。
パンは温かく、指で割ると湯気が出た。スープには玉ねぎの甘みがあり、舌の上でゆっくり広がる。肉の表面は香ばしく焼かれ、ナイフを入れると中から薄い肉汁がにじんだ。直樹は食べるのが早い。だが今日は、周囲の客に合わせて、少しだけ速度を落とした。
その隣の席で、女たちの笑い声が弾けていた。
啓子がいた。
淡い色の服に真珠の耳飾りを合わせ、背筋を崩さず座っている。周囲には30代から40代の奥様たちが4人いた。全員、成城の住民らしい。服装は派手ではないが、布地も靴もよい。香水も強すぎない。ただ、集まると花束のように匂いが重なり、店のバターの香りの中へ柔らかく入り込んでいた。
直樹は気づかないふりをしていた。
しかし、奥様たちは気づいていた。
「ねえ、あの子、どなたかしら」
「学生さんでしょう。でも、ずいぶん背が高いわね」
「顔立ちが日本人だけではないわ。目元が少し違うもの」
「肌もきれいね。ああいう子、成城ではあまり見ないわ」
声は抑えているつもりなのだろうが、隣席なので直樹には聞こえる。ローザの店で、ルイスたちが見せた反応とよく似ていた。珍しいものを見つけた時の、遠慮と好奇心の入り混じった声である。
啓子は、できれば知らないふりをしたかった。
直樹は尚人の孫であり、啓一の同級生でもある。成城の奥様たちに紹介すれば、話が広がる。しかも相手は直樹である。若く、体が大きく、顔立ちも明るい。奥様たちが放っておくわけがなかった。
だが、1人が啓子に顔を寄せて聞いた。
「啓子さん、あの方をご存じなの?」
啓子は少し困ったように微笑んだ。
「ええ。息子の同級生です。モロー直樹さん。フランスと日本のハーフで、いま帝都工業大学に通っています」
その一言で、奥様たちの目が一斉に直樹へ向いた。
もう隠れようがなかった。
啓子は直樹へ小さく会釈した。直樹も席を立ち、礼儀正しく頭を下げた。
「モロー直樹です。啓一君には、今日お世話になっています」
その声が落ち着いていたため、奥様たちはさらに勢いづいた。
「まあ、きちんとしているわ」
「フランスと日本のハーフなのね。お母様がフランスの方?」
「いえ。母は日本人です。父がフランス系です」
「日本語、とても上手ね」
「母とは日本語で話していました」
質問は次々に飛んだ。直樹はひとつずつ答えた。皿の上の肉は冷め始めていたが、逃げるわけにもいかなかった。
奥様たちは、やがて遠慮をなくした。
「直樹さん、成城にお住まいなの?」
「今日から、成城6丁目の家に入ることになりました」
「まあ、成城6丁目。近いじゃないの」
「うちにもいらっしゃい。主人は帰りが遅いから、夕方ならお茶くらい出せるわ」
「うちもよ。大学のことなら、いろいろ教えてあげられるわ」
「お困りのことがあったら、遠慮しないで電話してちょうだい」
そう言って、奥様たちはそれぞれバッグから手帳を出した。万年筆や細いボールペンが並び、テーブルの上で紙がこすれる音がした。電話番号が次々と書かれ、小さな紙片が直樹の前へ置かれる。
啓子は止めようとしたが、止められなかった。成城の奥様たちは、こういう時には驚くほど行動が早い。
「直樹さんの電話番号も教えてくださる?」
直樹はそこで困った顔をした。
「住所は分かります。成城6丁目です。でも、電話番号はまだ聞いていません。今日から住むので」
奥様の1人が、すぐに言った。
「住所が分かれば、電話番号なんてすぐ分かるわ」
彼女は店員を呼び、店の電話を借りたいと言った。店員は少し驚いたが、常連客なのだろう、すぐにカウンター横の黒い電話を使わせてくれた。
奥様は受話器を取り、慣れた手つきで104へかけた。
「成城6丁目の、モロー直樹さんのお宅をお願いします」
受話器の向こうで案内係の声がした。奥様は住所を言い直し、少し待った。店内には鍋の音と女たちの笑い声が残っているのに、直樹の耳には、電話機のコードが揺れる小さな音まで聞こえた。
やがて奥様が振り返った。
「分かったわ。直樹さん、これがあなたのお家の番号よ」
直樹はその場で初めて、自分の成城の家の電話番号を知った。
紙に書かれた数字を見て、妙な気分になった。住所があり、電話番号がある。執事と家政婦がいて、客用の寝具まである。朝までは秋谷の屋敷に泊まった未来から来た青年だったのに、昼には成城6丁目の住人として、電話帳の中に名前が置かれている。
奥様たちは満足そうに笑った。
「これで連絡できるわね」
「大学で困ったら、すぐ言って」
「ラグビーをなさるの? まあ、見に行きたいわ」
直樹は苦笑した。
「まだ入部するか決めたばかりです。練習も、今日見に行くところです」
啓子はそこで、ようやく助け舟を出した。
「直樹さん、午後の練習があるのでしょう。そろそろ大学へ戻ったほうがよろしいわ」
「はい。失礼します」
直樹は奥様たちに頭を下げ、席へ戻って残りの肉を急いで食べた。ソースは少し冷めていたが、空腹には十分だった。水を飲むと、グラスの冷たさが喉を通り、ようやく頭が落ち着いた。
◇ ◇ ◇
午後3時、直樹は帝都工業大学のグラウンドに立っていた。
ラグビー部は、あるにはあった。
ただし、強い部ではなかった。部室の木の扉は古く、ペンキがはがれている。スパイクは泥を落とし切れておらず、ボールも何度も使われて表面がすり減っていた。グラウンドの白線は薄く、ところどころ土に消えている。風が吹くと、乾いた砂が舞い、口の中にざらりとした味が残った。
部員は多くない。体の大きな者も少なかった。肩幅のある学生はいるが、足が重い。走れる者はいるが、当たりが弱い。練習前の声も小さく、どこか遠慮があった。
主将が直樹を見上げるようにして言った。
「モロー君、本当に入るのか。うちは弱いぞ。対外試合は、ほとんど勝っていない」
直樹はボールを手に取り、革の感触を確かめた。ホーチミンの大学で握っていたボールとは少し違う。だが、楕円の重みは同じだった。指に馴染むと、体の奥が自然に起きる。
「勝てないチームなら、勝てるようにすればいいです」
主将は一瞬黙り、それから笑った。
「ずいぶん簡単に言うな」
「簡単ではありません。でも、やることは決まっています。走る。止める。声を出す。味方を見て動く。それを毎日やれば、今よりは強くなります」
練習が始まった。
最初はランニングだった。直樹は先頭に出すぎないように走ったが、足の運びは明らかに違っていた。背が高く、歩幅が広い。土を蹴るたび、太ももの筋肉が布越しに動き、上半身がぶれない。ほかの部員が息を荒くし始めても、直樹の呼吸はまだ乱れなかった。
次にパス練習へ移った。
ボールが横へ流れる。受ける手が遅い。投げる位置も高すぎる。直樹は何度か受け損ねたボールを拾い、黙って列へ戻った。だが、3本目から声を出した。
「胸にください。顔ではなく、胸です。受ける方も、先に手を作ってください」
日本語は丁寧だが、言葉ははっきりしている。
部員たちは少し驚いた顔をした。しかし、直樹が怒っているわけではないと分かると、少しずつ動きが変わった。ボールが胸の前へ来るようになる。受ける手が早く出る。失敗しても、次の声が出る。
最後に、軽い当たりの練習になった。
直樹はタックルバッグを持つ側に回った。部員がぶつかるたび、バッグが鈍い音を立てる。最初の数人は、直樹を押し込めなかった。直樹の足が土を噛み、体の芯がまったく動かない。まるで杭が打ち込まれているようだった。
「もっと低く来てください。肩だけで押すと止まります。足も一緒に出してください」
直樹はそう言って、今度は自分が当たる側に回った。
助走は大きくない。だが、踏み込んだ瞬間、土が強く鳴った。肩がバッグに入ると、持っていた部員が後ろへ2歩下がった。音は重く、見ていた学生たちが思わず声を上げた。
「おお……」
直樹はすぐに手を差し出した。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ。すごいな、今の」
「慣れです。体をまっすぐ入れただけです」
午後5時までの2時間で、直樹は部の空気を少し変えた。
部員たちは急に強くなったわけではない。白線は薄いままだし、部室の扉も古い。対外試合で全敗している事実も変わらない。だが、練習の終わりに、誰もすぐ帰ろうとはしなかった。ボールを拾いながら、もう一度パスを回そうと言う者が出た。タックルの姿勢を聞きに来る者もいた。
直樹は汗で重くなったシャツをつかみ、グラウンドの端から校舎を見た。
午前は講義。昼は成城の奥様たち。午後は弱いラグビー部。
どれも、ホーチミンにはなかったものだった。
直樹は、まだこの時代の住人ではない。だが、成城の住所と電話番号を持ち、大学の教室に席を置き、弱いラグビー部の練習に汗を落とした。
この日、モロー直樹は、1986年の成城に小さな根を下ろし始めたのである。
前編では、直樹の生活圏が一気に広がった。成城6丁目の屋敷、帝都工業大学、昼のレストラン、弱いラグビー部。それぞれの場所で、直樹は住所、電話番号、人間関係、役割を手に入れていく。まだこの時代に慣れたわけではないが、大学の講義を聞き、奥様方の視線を受け、グラウンドで汗を流したことで、直樹は1986年の成城に小さく根を下ろし始めた。




