表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

117/135

第16話(中編)――「金網の向こうの奥様方」

帝都工業大学の弱いラグビー部に入った直樹は、午後の練習で部員たちを驚かせる。ところが金網の外には、昼にフレンチレストランで出会った成城の奥様方が並んでいた。啓子もその中にいる。直樹はまだ気づかないが、啓子の心は、昼の一件を境に大きく揺れ始めていた。

 午後5時、帝都工業大学のグラウンドには、まだ夕方の熱が残っていた。


 土は乾き、スパイクで踏まれた場所だけが黒く湿っている。白線は薄くなり、走るたびに砂が舞った。直樹のシャツは汗を吸って重くなり、肩と背中に張りついていた。首筋を流れた汗が顎まで落ち、土の匂いと草の匂いが鼻に入る。


 最後のタックル練習が終わると、部員たちは息を切らしながら輪になった。


 主将は膝に手を置き、しばらく肩で息をしていた。それから顔を上げ、直樹を見た。


「モロー、明日も来るか」


「来ます。講義が終わったら、午後3時からでいいですか」


「いい。うちは大歓迎だ。というか、来てくれないと困る」


 周りの部員たちが笑った。練習前とは声の張りが違っていた。まだ弱い。まだ下手である。だが、2時間前より目が明るい。ボールを持つ手にも、少しだけ力が戻っていた。


 直樹がボールを主将へ返した時、グラウンドの端から高い声が飛んだ。


「直樹さーん、すてきだったわ!」


「今の当たり、すごかったわね!」


「明日も見に来ていいのかしら!」


 直樹は振り向き、思わず足を止めた。


 金網の外に、昼のフレンチレストランで会った奥様方が並んでいた。啓子を含めて5人である。白い帽子、薄いカーディガン、春物のワンピース、手袋、日傘。グラウンドの土埃とは別の場所から来たような姿だった。


 夕方の光が彼女たちの髪と頬を照らしている。淡い香水の匂いが風に乗り、汗と土の匂いの中へ混じった。


 部員たちがざわついた。


「おい、モローの応援団か」


「すごいな。大学の練習に成城の奥様方が来るなんて初めて見たぞ」


「うちの部、急に名門みたいになったな」


 直樹は困ったように笑い、金網のそばへ歩いた。


「啓子さん。どうしてここへ」


 啓子は少しだけ視線をそらした。


「皆さんが、練習を見たいとおっしゃったものですから」


 それは半分だけ本当だった。


 昼のレストランで、奥様方が自宅の電話番号を渡し、成城6丁目の直樹の家の番号まで104で調べた時、啓子は平気ではいられなかった。直樹から向けられていた好意を、一度は大人として退けた。そうしなければならないと思った。


 だが、目の前で奥様方が楽しそうに直樹へ近づいていくのを見ると、胃のあたりが冷えた。


 このままでは、取られてしまう。


 そう思った瞬間、啓子は自分でも驚くほど早く動いていた。口では控えめに振る舞いながら、練習を見に行く話には自分から加わった。


 直樹は、そんな事情など知らない。


「僕の練習なんか、見ても面白くないでしょう」


「面白かったわよ」


 奥様の1人がすぐに言った。


「あなたが走ると、ほかの学生さんと全然違うんだもの。背筋が伸びていて、見ていて気持ちがいいわ」


「タックルの時なんて、地面が鳴ったみたいだったわ」


「若い男の子が真面目に汗を流している姿は、成城ではなかなか見られないものね」


 その言葉に、部員たちがまた笑った。直樹は耳が少し熱くなるのを感じた。


 啓子だけは、笑いすぎなかった。金網の向こうから、汗に濡れた直樹の顔を見ていた。白いシャツの襟元から見える首筋、息を整える胸の動き、土で汚れた膝。昼のレストランで見た青年とは違う。グラウンドの直樹は、もっとまっすぐに生きている男に見えた。


 直樹は、その視線に気づいた。


「啓子さんまで、本当に応援してくれているんですか」


 啓子はわずかに笑った。


「ええ。少しだけ」


「少しだけですか」


「最初は、そのつもりでした」


 啓子の声の最後が、ほんの少しだけ揺れた。


 直樹は不思議に思った。啓子は昼より近い。声は落ち着いているのに、距離の取り方が少し違う。理由は分からない。ただ、嬉しかった。


 ◇ ◇ ◇


 練習が終わると、奥様方は当然のような顔で直樹を囲んだ。


「さあ、帰りましょう」


「帰るって、どちらへですか」


 直樹が尋ねると、奥様の1人が笑った。


「あなたのお家よ。成城6丁目の」


「僕の家ですか」


「今日から住むのでしょう。なら、成城で暮らすための決まりを教えてあげないと」


「ご近所への挨拶、町内のこと、商店の使い方、家政婦さんへの頼み方。若い男の子ひとりでは分からないでしょう」


「夕食も、最初の日くらい賑やかなほうがいいわ」


 話は、もう決まっていた。


 直樹は断る理由を探したが、啓子がいる。啓子がいるなら悪くない。むしろ、一人で広い屋敷へ帰って、知らない執事と家政婦に迎えられるより、ずっと気が楽だった。


「分かりました。でも、僕は汗だくです」


「それなら、先にスーパーへ行って、帰ったらすぐお風呂ね」


「食材を買いましょう。あなた、たくさん食べるでしょう」


「ラグビーをやる子に、軽い夕食では足りないわ」


 奥様方は、直樹を急かすように大学の門へ向かった。


 成城の夕方は、横須賀ともホーチミンとも違っていた。道は広すぎず、家の塀は高い。庭木の匂いが道路へ流れ、どこかの家から煮物の醤油の匂いがした。犬の吠える声が遠くで聞こえ、駅の方へ向かう人の靴音が舗道に響いた。


 近くの食品スーパーに入ると、冷房の風が汗ばんだ肌に当たった。野菜売り場には青い匂いが満ち、魚売り場では氷の上の鯵や鯛が銀色に光っていた。肉売り場には赤身の牛肉と鶏肉が並び、包装のビニールが蛍光灯を受けて白く反射している。


 奥様方は手際がよかった。


「牛肉を多めにしましょう。若い人には肉よ」


「サラダもいるわ。汗をかいたあとだから、トマトとレタスも買いましょう」


「パンもいいけれど、ご飯も炊けるわね」


「成城の最初の夜なんだから、少し華やかにしましょう」


 直樹は買い物かごを持たされ、次々に入れられる食材の重みを受け止めた。牛肉、鶏肉、卵、トマト、レタス、玉ねぎ、じゃがいも、果物、牛乳、バター。袋入りの菓子まで入れられた。


「こんなに買うんですか」


「あなたの体を見れば、これでも少ないくらいよ」


「奥様方のご家庭は大丈夫なんですか。夕食の支度とか」


 奥様の1人が、涼しい顔で答えた。


「うちは家政婦がいるから大丈夫」


「うちも同じよ。主人は会合で遅いの」


「子どもたちは塾と部活。食事は用意してあるわ」


 直樹は返す言葉を失った。


 つまり、この人たちは本気で自分の家へ来るつもりなのだ。


 啓子は少し後ろから歩いていた。直樹が振り返ると、目が合った。啓子は困ったように笑い、唇だけで言った。


「ごめんなさい」


 直樹も小さく笑った。


「いいです」


 声には出さなかった。だが、啓子には通じた。


 ◇ ◇ ◇


 成城6丁目の邸宅は、夕方の光の中で静かに建っていた。


 高い塀の内側に庭木が見え、門柱にはまだ新しい表札がかかっていない。門を開けると、砂利が靴の下で細かく鳴った。玄関の前には、古いがよく磨かれた石段があり、扉の金具は夕日を受けて鈍く光っていた。


 直樹が鍵を出すより早く、内側から扉が開いた。


 執事が出てきた。年は60前後で、背筋がまっすぐ伸びている。黒い上着に白いシャツ、控えめなネクタイ。顔には驚きが出たが、すぐに落ち着いた表情へ戻った。


「お帰りなさいませ、直樹様」


 そのあと、執事は奥様方を見て、さらに深く頭を下げた。


「皆様も、ようこそお越しくださいました」


 奥様方は慣れた顔で挨拶した。


「急にお邪魔してごめんなさいね」


「今日から直樹さんがお住まいになるので、成城の暮らしを少し教えて差し上げようと思って」


「食材も買ってきたの。夕食はこちらでいただくわ」


 執事は一瞬だけ直樹を見た。


 直樹は苦笑して、買い物袋を持ち上げた。


「そういうことになりました」


「かしこまりました」


 執事は何も言わず、すぐ家政婦を呼んだ。奥から出てきた家政婦も、奥様方とは旧知らしく、驚きより先に笑顔が出た。


「まあ、皆様。お久しぶりでございます」


「元気そうね」


「今日は直樹さんのお祝いよ。台所を少し借りるわね」


「もちろんでございます」


 台所は急ににぎやかになった。


 買ってきた袋が調理台に並ぶ。紙袋がこすれる音、ビニールを破る音、包丁がまな板に当たる音が重なる。玉ねぎの匂いが立ち、バターが熱い鍋で溶けると、甘く濃い香りが家の中へ広がった。肉が焼ける音は力強く、脂が跳ねるたびに奥様方が小さく声を上げる。家政婦は手順を乱さず、米を研ぎ、鍋を出し、皿を温めていった。


 直樹は風呂を勧められた。


 浴室には新しい石鹸と清潔なタオルが用意されていた。湯を浴びると、グラウンドの土と汗が流れ、足元の排水口へ茶色く消えていった。髪を洗うと、石鹸の匂いが鼻に入り、肩の重さが少し取れた。


 風呂から上がると、廊下に料理の匂いが満ちていた。


 食堂へ行く途中、直樹は啓子と出くわした。啓子は廊下の窓際に立ち、庭を見ていた。ほかの奥様方は台所と食堂で忙しく、そこだけ人の目が薄かった。


「直樹さん」


 啓子が振り返った。


 直樹は足を止めた。


「啓子さん。今日は、本当にありがとうございます」


「私は、何もしていません」


「来てくれました」


 直樹がそう言うと、啓子は返事に詰まった。


 廊下には夕方の薄い光が入っていた。庭の木の影が床に伸び、台所からはバターと肉の匂いが流れてくる。遠くで奥様方の笑い声がした。その明るい声があるからこそ、二人の間だけが静かだった。


 直樹は一歩近づいた。


「昼は、僕のことを紹介したくなかったでしょう」


 啓子は目を上げた。


「どうして、そう思うの」


「困った顔をしていました」


 啓子は小さく息を吐いた。


「そうね。少し困りました」


「僕が迷惑でしたか」


「違います」


 啓子の答えは早かった。


 直樹はその速さに驚いた。啓子自身も、少し驚いた顔をした。


「違うのです。あなたが迷惑だったのではありません。皆さんが、あなたに近づきすぎるのが……少し」


 言葉はそこで切れた。


 直樹は、その続きを待たなかった。啓子の手にそっと触れた。啓子は逃げなかった。指先だけがわずかに震えた。


「僕は、啓子さんに見ていてほしかったです」


「直樹さん」


「昼も、グラウンドでも、ここへ来る時も。啓子さんがいると、落ち着きます」


 啓子は目を伏せた。


「そんなことを言ってはいけません」


「言いたいです」


「私は、あなたよりずっと年上です」


「知っています」


「啓一の母です」


「それも知っています」


「なら、分かるでしょう」


「分かりません。僕は、啓子さんが好きです」


 直樹は言い切った。


 啓子は困ったように首を振った。だが、その手は直樹の手を離していない。むしろ、指が少しだけ絡んでいた。


 台所から笑い声が近づいた。啓子ははっとして、手を離そうとした。その瞬間、直樹は身を寄せ、啓子の唇に軽く触れた。


 ほんのわずかな口づけだった。


 石鹸の匂いと、啓子の淡い香水が混じった。唇が離れると、啓子は目を大きく開けて直樹を見た。


「いけない人ね」


 声は叱っているようで、叱りきれていなかった。


「すみません」


「謝るくらいなら、最初からしないものです」


「もう一度したいです」


 啓子は一瞬だけ廊下の向こうを見た。誰も来ていない。次の瞬間、啓子の方から直樹の胸に軽く手を置いた。


「一度だけです」


 そう言って、今度は啓子から唇を重ねた。


 直樹は啓子を抱きしめた。逃げられる余地を残しながら、それでも離したくない力で抱いた。啓子は最初だけ固くなり、すぐに肩の力を抜いた。額が直樹の胸に触れ、息が薄く揺れた。


 奥から声がした。


「直樹さーん、お食事ですよ」


 啓子はすぐに身を離し、髪を整えた。


「何もなかった顔をしてください」


「難しいです」


「努力なさい」


 啓子はそう言って、何事もなかったように食堂へ歩き出した。


 直樹は、その後ろ姿を見ていた。さっきまで啓子は、直樹の強さに押されたように見えた。だが本当は違う。最後に距離を決めたのは啓子だった。直樹は、それをまだ十分には分かっていなかった。

中編では、直樹がラグビー部で存在感を見せた直後、成城の奥様方が一気に生活圏へ入り込む。応援、買い物、邸宅への訪問という賑やかな流れの裏で、啓子は自分の気持ちを隠しきれなくなる。直樹の新しい家には、食事の匂いより先に、人の熱と噂の種が持ち込まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ