第16話(中編)――「金網の向こうの奥様方」
帝都工業大学の弱いラグビー部に入った直樹は、午後の練習で部員たちを驚かせる。ところが金網の外には、昼にフレンチレストランで出会った成城の奥様方が並んでいた。啓子もその中にいる。直樹はまだ気づかないが、啓子の心は、昼の一件を境に大きく揺れ始めていた。
午後5時、帝都工業大学のグラウンドには、まだ夕方の熱が残っていた。
土は乾き、スパイクで踏まれた場所だけが黒く湿っている。白線は薄くなり、走るたびに砂が舞った。直樹のシャツは汗を吸って重くなり、肩と背中に張りついていた。首筋を流れた汗が顎まで落ち、土の匂いと草の匂いが鼻に入る。
最後のタックル練習が終わると、部員たちは息を切らしながら輪になった。
主将は膝に手を置き、しばらく肩で息をしていた。それから顔を上げ、直樹を見た。
「モロー、明日も来るか」
「来ます。講義が終わったら、午後3時からでいいですか」
「いい。うちは大歓迎だ。というか、来てくれないと困る」
周りの部員たちが笑った。練習前とは声の張りが違っていた。まだ弱い。まだ下手である。だが、2時間前より目が明るい。ボールを持つ手にも、少しだけ力が戻っていた。
直樹がボールを主将へ返した時、グラウンドの端から高い声が飛んだ。
「直樹さーん、すてきだったわ!」
「今の当たり、すごかったわね!」
「明日も見に来ていいのかしら!」
直樹は振り向き、思わず足を止めた。
金網の外に、昼のフレンチレストランで会った奥様方が並んでいた。啓子を含めて5人である。白い帽子、薄いカーディガン、春物のワンピース、手袋、日傘。グラウンドの土埃とは別の場所から来たような姿だった。
夕方の光が彼女たちの髪と頬を照らしている。淡い香水の匂いが風に乗り、汗と土の匂いの中へ混じった。
部員たちがざわついた。
「おい、モローの応援団か」
「すごいな。大学の練習に成城の奥様方が来るなんて初めて見たぞ」
「うちの部、急に名門みたいになったな」
直樹は困ったように笑い、金網のそばへ歩いた。
「啓子さん。どうしてここへ」
啓子は少しだけ視線をそらした。
「皆さんが、練習を見たいとおっしゃったものですから」
それは半分だけ本当だった。
昼のレストランで、奥様方が自宅の電話番号を渡し、成城6丁目の直樹の家の番号まで104で調べた時、啓子は平気ではいられなかった。直樹から向けられていた好意を、一度は大人として退けた。そうしなければならないと思った。
だが、目の前で奥様方が楽しそうに直樹へ近づいていくのを見ると、胃のあたりが冷えた。
このままでは、取られてしまう。
そう思った瞬間、啓子は自分でも驚くほど早く動いていた。口では控えめに振る舞いながら、練習を見に行く話には自分から加わった。
直樹は、そんな事情など知らない。
「僕の練習なんか、見ても面白くないでしょう」
「面白かったわよ」
奥様の1人がすぐに言った。
「あなたが走ると、ほかの学生さんと全然違うんだもの。背筋が伸びていて、見ていて気持ちがいいわ」
「タックルの時なんて、地面が鳴ったみたいだったわ」
「若い男の子が真面目に汗を流している姿は、成城ではなかなか見られないものね」
その言葉に、部員たちがまた笑った。直樹は耳が少し熱くなるのを感じた。
啓子だけは、笑いすぎなかった。金網の向こうから、汗に濡れた直樹の顔を見ていた。白いシャツの襟元から見える首筋、息を整える胸の動き、土で汚れた膝。昼のレストランで見た青年とは違う。グラウンドの直樹は、もっとまっすぐに生きている男に見えた。
直樹は、その視線に気づいた。
「啓子さんまで、本当に応援してくれているんですか」
啓子はわずかに笑った。
「ええ。少しだけ」
「少しだけですか」
「最初は、そのつもりでした」
啓子の声の最後が、ほんの少しだけ揺れた。
直樹は不思議に思った。啓子は昼より近い。声は落ち着いているのに、距離の取り方が少し違う。理由は分からない。ただ、嬉しかった。
◇ ◇ ◇
練習が終わると、奥様方は当然のような顔で直樹を囲んだ。
「さあ、帰りましょう」
「帰るって、どちらへですか」
直樹が尋ねると、奥様の1人が笑った。
「あなたのお家よ。成城6丁目の」
「僕の家ですか」
「今日から住むのでしょう。なら、成城で暮らすための決まりを教えてあげないと」
「ご近所への挨拶、町内のこと、商店の使い方、家政婦さんへの頼み方。若い男の子ひとりでは分からないでしょう」
「夕食も、最初の日くらい賑やかなほうがいいわ」
話は、もう決まっていた。
直樹は断る理由を探したが、啓子がいる。啓子がいるなら悪くない。むしろ、一人で広い屋敷へ帰って、知らない執事と家政婦に迎えられるより、ずっと気が楽だった。
「分かりました。でも、僕は汗だくです」
「それなら、先にスーパーへ行って、帰ったらすぐお風呂ね」
「食材を買いましょう。あなた、たくさん食べるでしょう」
「ラグビーをやる子に、軽い夕食では足りないわ」
奥様方は、直樹を急かすように大学の門へ向かった。
成城の夕方は、横須賀ともホーチミンとも違っていた。道は広すぎず、家の塀は高い。庭木の匂いが道路へ流れ、どこかの家から煮物の醤油の匂いがした。犬の吠える声が遠くで聞こえ、駅の方へ向かう人の靴音が舗道に響いた。
近くの食品スーパーに入ると、冷房の風が汗ばんだ肌に当たった。野菜売り場には青い匂いが満ち、魚売り場では氷の上の鯵や鯛が銀色に光っていた。肉売り場には赤身の牛肉と鶏肉が並び、包装のビニールが蛍光灯を受けて白く反射している。
奥様方は手際がよかった。
「牛肉を多めにしましょう。若い人には肉よ」
「サラダもいるわ。汗をかいたあとだから、トマトとレタスも買いましょう」
「パンもいいけれど、ご飯も炊けるわね」
「成城の最初の夜なんだから、少し華やかにしましょう」
直樹は買い物かごを持たされ、次々に入れられる食材の重みを受け止めた。牛肉、鶏肉、卵、トマト、レタス、玉ねぎ、じゃがいも、果物、牛乳、バター。袋入りの菓子まで入れられた。
「こんなに買うんですか」
「あなたの体を見れば、これでも少ないくらいよ」
「奥様方のご家庭は大丈夫なんですか。夕食の支度とか」
奥様の1人が、涼しい顔で答えた。
「うちは家政婦がいるから大丈夫」
「うちも同じよ。主人は会合で遅いの」
「子どもたちは塾と部活。食事は用意してあるわ」
直樹は返す言葉を失った。
つまり、この人たちは本気で自分の家へ来るつもりなのだ。
啓子は少し後ろから歩いていた。直樹が振り返ると、目が合った。啓子は困ったように笑い、唇だけで言った。
「ごめんなさい」
直樹も小さく笑った。
「いいです」
声には出さなかった。だが、啓子には通じた。
◇ ◇ ◇
成城6丁目の邸宅は、夕方の光の中で静かに建っていた。
高い塀の内側に庭木が見え、門柱にはまだ新しい表札がかかっていない。門を開けると、砂利が靴の下で細かく鳴った。玄関の前には、古いがよく磨かれた石段があり、扉の金具は夕日を受けて鈍く光っていた。
直樹が鍵を出すより早く、内側から扉が開いた。
執事が出てきた。年は60前後で、背筋がまっすぐ伸びている。黒い上着に白いシャツ、控えめなネクタイ。顔には驚きが出たが、すぐに落ち着いた表情へ戻った。
「お帰りなさいませ、直樹様」
そのあと、執事は奥様方を見て、さらに深く頭を下げた。
「皆様も、ようこそお越しくださいました」
奥様方は慣れた顔で挨拶した。
「急にお邪魔してごめんなさいね」
「今日から直樹さんがお住まいになるので、成城の暮らしを少し教えて差し上げようと思って」
「食材も買ってきたの。夕食はこちらでいただくわ」
執事は一瞬だけ直樹を見た。
直樹は苦笑して、買い物袋を持ち上げた。
「そういうことになりました」
「かしこまりました」
執事は何も言わず、すぐ家政婦を呼んだ。奥から出てきた家政婦も、奥様方とは旧知らしく、驚きより先に笑顔が出た。
「まあ、皆様。お久しぶりでございます」
「元気そうね」
「今日は直樹さんのお祝いよ。台所を少し借りるわね」
「もちろんでございます」
台所は急ににぎやかになった。
買ってきた袋が調理台に並ぶ。紙袋がこすれる音、ビニールを破る音、包丁がまな板に当たる音が重なる。玉ねぎの匂いが立ち、バターが熱い鍋で溶けると、甘く濃い香りが家の中へ広がった。肉が焼ける音は力強く、脂が跳ねるたびに奥様方が小さく声を上げる。家政婦は手順を乱さず、米を研ぎ、鍋を出し、皿を温めていった。
直樹は風呂を勧められた。
浴室には新しい石鹸と清潔なタオルが用意されていた。湯を浴びると、グラウンドの土と汗が流れ、足元の排水口へ茶色く消えていった。髪を洗うと、石鹸の匂いが鼻に入り、肩の重さが少し取れた。
風呂から上がると、廊下に料理の匂いが満ちていた。
食堂へ行く途中、直樹は啓子と出くわした。啓子は廊下の窓際に立ち、庭を見ていた。ほかの奥様方は台所と食堂で忙しく、そこだけ人の目が薄かった。
「直樹さん」
啓子が振り返った。
直樹は足を止めた。
「啓子さん。今日は、本当にありがとうございます」
「私は、何もしていません」
「来てくれました」
直樹がそう言うと、啓子は返事に詰まった。
廊下には夕方の薄い光が入っていた。庭の木の影が床に伸び、台所からはバターと肉の匂いが流れてくる。遠くで奥様方の笑い声がした。その明るい声があるからこそ、二人の間だけが静かだった。
直樹は一歩近づいた。
「昼は、僕のことを紹介したくなかったでしょう」
啓子は目を上げた。
「どうして、そう思うの」
「困った顔をしていました」
啓子は小さく息を吐いた。
「そうね。少し困りました」
「僕が迷惑でしたか」
「違います」
啓子の答えは早かった。
直樹はその速さに驚いた。啓子自身も、少し驚いた顔をした。
「違うのです。あなたが迷惑だったのではありません。皆さんが、あなたに近づきすぎるのが……少し」
言葉はそこで切れた。
直樹は、その続きを待たなかった。啓子の手にそっと触れた。啓子は逃げなかった。指先だけがわずかに震えた。
「僕は、啓子さんに見ていてほしかったです」
「直樹さん」
「昼も、グラウンドでも、ここへ来る時も。啓子さんがいると、落ち着きます」
啓子は目を伏せた。
「そんなことを言ってはいけません」
「言いたいです」
「私は、あなたよりずっと年上です」
「知っています」
「啓一の母です」
「それも知っています」
「なら、分かるでしょう」
「分かりません。僕は、啓子さんが好きです」
直樹は言い切った。
啓子は困ったように首を振った。だが、その手は直樹の手を離していない。むしろ、指が少しだけ絡んでいた。
台所から笑い声が近づいた。啓子ははっとして、手を離そうとした。その瞬間、直樹は身を寄せ、啓子の唇に軽く触れた。
ほんのわずかな口づけだった。
石鹸の匂いと、啓子の淡い香水が混じった。唇が離れると、啓子は目を大きく開けて直樹を見た。
「いけない人ね」
声は叱っているようで、叱りきれていなかった。
「すみません」
「謝るくらいなら、最初からしないものです」
「もう一度したいです」
啓子は一瞬だけ廊下の向こうを見た。誰も来ていない。次の瞬間、啓子の方から直樹の胸に軽く手を置いた。
「一度だけです」
そう言って、今度は啓子から唇を重ねた。
直樹は啓子を抱きしめた。逃げられる余地を残しながら、それでも離したくない力で抱いた。啓子は最初だけ固くなり、すぐに肩の力を抜いた。額が直樹の胸に触れ、息が薄く揺れた。
奥から声がした。
「直樹さーん、お食事ですよ」
啓子はすぐに身を離し、髪を整えた。
「何もなかった顔をしてください」
「難しいです」
「努力なさい」
啓子はそう言って、何事もなかったように食堂へ歩き出した。
直樹は、その後ろ姿を見ていた。さっきまで啓子は、直樹の強さに押されたように見えた。だが本当は違う。最後に距離を決めたのは啓子だった。直樹は、それをまだ十分には分かっていなかった。
中編では、直樹がラグビー部で存在感を見せた直後、成城の奥様方が一気に生活圏へ入り込む。応援、買い物、邸宅への訪問という賑やかな流れの裏で、啓子は自分の気持ちを隠しきれなくなる。直樹の新しい家には、食事の匂いより先に、人の熱と噂の種が持ち込まれた。




