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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第16話(後編)――「成城の夜、門灯の下で」

直樹の成城6丁目の邸宅では、奥様方と執事、家政婦が加わり、最初の夕食がにぎやかに始まる。成城で暮らすための助言は、半ば口実であり、半ば本気でもあった。食卓の笑いの向こうで、直樹と啓子は互いの気持ちを隠しながら確かめ合っていく。

 夕食は、にぎやかなものになった。


 食堂の大きなテーブルには、焼いた牛肉、鶏肉のクリーム煮、トマトとレタスのサラダ、温かいパン、炊きたての飯、果物が並んだ。白い皿に肉の焼き色が映え、湯気の中にバターと胡椒と玉ねぎの匂いが立った。グラスには水が注がれ、氷が小さく鳴った。


 奥様方は、成城で暮らすための決まりを次々に教えた。


「ご近所には、明日か明後日には挨拶に行ったほうがいいわ」


「でも、いきなり全部回る必要はないの。まず両隣と向かい、それから町内会の方ね」


「ゴミ出しは家政婦さんが分かっているでしょうけれど、夜中に門の前へ出すのはだめよ」


「庭師を入れるなら、前の家の出入り業者をそのまま使うのが無難ね」


「成城では、若い人が派手に遊ぶとすぐ噂になるわ。女の子を連れ込むなら、せめて門の前で大声を出させないこと」


 最後の一言に、食卓がどっと笑った。


 直樹は肉を食べながら、何度も頷いた。食事はうまかった。牛肉は外側が香ばしく、中は柔らかい。クリーム煮は舌に温かく、鶏肉の脂とバターの甘さが混じる。ラグビーの練習で空になった腹に、食べ物が次々と入っていった。


「直樹さん、本当によく食べるわ」


「見ていて気持ちがいいわね」


「明日はもっと肉を買わないと足りないわ」


 直樹は苦笑した。


「明日も来るんですか」


「迷惑?」


「いえ。賑やかなのは好きです」


 それは本音だった。


 広い邸宅で一人きりの夕食なら、食器の音まで寂しく響いたはずである。だが今夜は違う。奥様方の笑い声、家政婦が皿を運ぶ音、執事が静かに水を足す気配、啓子がときどきこちらを見る視線。すべてが重なり、直樹の新しい家に初めて人の熱が入った。


 啓子は食卓の向こうで静かに笑っていた。


 奥様方が直樹をからかうたびに、少しだけ眉を動かす。だが、自分も時々楽しそうに直樹へ話を振る。先ほど廊下で唇を重ねたことなど、誰にも分からない顔だった。


 直樹だけが、啓子の指先を見るたびに思い出していた。


 あの指が自分の胸に触れたこと。あの唇が、自分から近づいてきたこと。


 食後には紅茶が出た。カップから立つ香りは落ち着いていて、肉の匂いで満ちた食堂を少しずつ整えていった。奥様方は時計を見始め、口々に帰る支度をした。


「そろそろ戻らないと」


「主人が帰る前には家にいないとね」


「直樹さん、明日も練習を見に行くわ」


「お邪魔でなければね」


 奥様方は楽しそうに言い、執事と家政婦にも礼を述べた。玄関には、香水と料理の残り香と、夜の庭から入る湿った匂いが混じっていた。


 啓子も帰ろうとした。


 直樹はすぐに言った。


「啓子さん、送ります」


「近いから大丈夫です」


「送ります」


 啓子は少し困った顔をしたが、拒まなかった。


「では、途中まで」


 奥様方の1人が、意味ありげに笑った。


「若い紳士に送ってもらえるなんて、啓子さん、いいわね」


 啓子は涼しい顔で答えた。


「息子の同級生ですもの。心配してくれているだけです」


 直樹は何も言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


 夜の成城は静かだった。


 昼間は明るく見えた塀も、夜になると影が濃い。庭木の間から家々の灯りがこぼれ、遠くで犬が一度だけ吠えた。舗道には昼の熱がまだ残っていたが、風は涼しい。雨の前のような湿り気があり、木の葉の匂いが濃くなっていた。


 直樹と啓子は並んで歩いた。


 最初は少し離れていた。だが、角を曲がって奥様方の家の灯りが見えなくなると、直樹は啓子の手を取った。


 啓子は止めなかった。


「直樹さん」


「はい」


「あなたは、少し急ぎすぎます」


「そうかもしれません」


「少しではありません。とても急ぎすぎです」


 直樹は立ち止まった。


「でも、啓子さんが遠くへ行くと思うと、待てません」


 啓子も足を止めた。


 夜の道には人がいなかった。街灯の光が2人の影を伸ばし、塀の上の木の葉が風でかすかに鳴った。


「私は、どこへも行きません」


「昼は、僕を避けようとしていました」


「避けようとしました」


「なぜですか」


 啓子は答えるまでに少し時間を置いた。


「怖かったからです」


「僕がですか」


「いいえ。自分がです」


 直樹は黙った。


 啓子は、ゆっくり言葉を選んだ。


「あなたは若い。まっすぐで、眩しいくらいです。私のような女が近づいていい相手ではないと思いました。けれど、今日、あの方たちがあなたに近づいていくのを見て、分かったのです。私は、平気な顔をして見ていられませんでした」


 直樹の手に力が入った。


「それは、僕を好きだからですか」


 啓子は目を伏せた。


「そんなふうに、すぐ答えを求めるものではありません」


「でも、聞きたいです」


 啓子は小さく笑った。


「困った人ね」


 直樹は啓子を抱き寄せた。


 啓子は一瞬だけ身を固くしたが、すぐに直樹の胸へ額を預けた。夜風の中で、啓子の香水は昼より淡く感じられた。髪からは石鹸の匂いがした。直樹の腕の中で、啓子の呼吸が少しずつ落ち着いていく。


「好きです」


 直樹は言った。


「啓子さんが好きです」


 啓子は顔を上げた。街灯の光が目元に落ち、睫毛の影が頬へ伸びている。


「私は、あなたにそう言わせてはいけない立場です」


「言ってしまいました」


「本当に、困った人」


 啓子はそう言いながら、直樹の腕をほどかなかった。


 直樹が唇を近づけると、啓子は今度は逃げなかった。2人は静かな道の端で口づけた。廊下の時より長かった。唇が触れ、離れ、また触れた。啓子の手が直樹の背中へ回り、布をつかむ力が少し強くなった。


 遠くで車の音がした。


 啓子ははっとして身を離した。


「歩きましょう」


「はい」


 だが、少し歩くと、また足が止まった。塀の陰、庭木の影、街灯の届かない場所。2人はそのたびに抱き合い、ひそやかに唇を重ねた。直樹は押しが強かった。啓子はそのたびに「いけません」と言った。だが、最後に直樹の襟を引き寄せるのは、いつも啓子だった。


 直樹は、少しずつ気づき始めた。


 啓子は負けているのではない。ためらいを言葉にしながら、自分で一歩ずつ近づいているのだ。


 やがて榎本家の門が見えた。


 門灯が淡く点き、庭の奥に家の明かりがあった。そこまで来ると、啓子は直樹の手をそっと離した。


「ここまでです」


「また会えますか」


「明日、大学へ行くのでしょう」


「はい」


「では、私は明日も練習を見に行くかもしれません」


 直樹は笑った。


「少しだけですか」


 啓子は昼と同じように答えた。


「最初は、そのつもりです」


 その言い方に、直樹は胸が熱くなった。


 啓子は門の前で、最後に直樹へ近づいた。自分から背伸びをし、頬に触れるような口づけをした。


「今夜のことは、誰にも言ってはいけません」


「言いません」


「本当に?」


「啓一にも言いません」


 啓子は少しだけ目を細めた。


「そこが一番大事です」


 2人は小さく笑った。


 啓子は門を開け、中へ入った。振り返ると、直樹はまだそこに立っていた。夜の光の中で、彼の背は高く、若い輪郭ははっきりしていた。


 啓子は小さく手を振った。


 直樹も手を上げた。


 門が閉まると、金具の音が静かな道に落ちた。


 直樹はしばらくその場に立っていた。唇には啓子の温度が残り、手には彼女の指の細さが残っている。成城の夜は静かで、木の葉の匂いが濃かった。


 朝、秋谷の屋敷を出た時、直樹はこの時代に足場を持っていなかった。


 だが今は違う。


 成城6丁目の家があり、弱いラグビー部があり、賑やかな奥様方がいる。そして、啓子がいた。


 直樹はゆっくり歩き出した。夜の道を戻る足取りは軽かった。明日も講義がある。午後にはラグビーの練習がある。もしかすると、金網の外にまた啓子がいるかもしれない。


 そう思うだけで、成城の夜道は、もう知らない町ではなくなっていた。

後編では、直樹の成城での最初の夜が描かれる。食卓は明るく、奥様方は賑やかだが、その裏で直樹と啓子の関係は静かに一線を越える。啓子は立場を気にして言葉では踏みとどまろうとするが、手や視線はすでに直樹へ向かっている。直樹にとって、成城はただの住まいではなく、啓子と再び会える町になった。

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