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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第5話(前編)――「上の部屋の女たち」

黒岩興業の帳面を開いた尚人は、黒岩辰夫が見た目ほど強い男ではないことを知る。家賃は遅れ、内装費の念書が残り、ローザたちの給与明細には、借金と罰金と寮費が細かく並んでいた。だが、尚人はまだ黒岩を追い出さない。先に動けば、危険は女たちへ向かうからである。五反田ビルの上階には、フィリピン女性たちが寝泊まりしている部屋があった。そこは寮ではなく、人を置いておく箱だった。尚人はその朝、女たちの暮らしを自分の目で見て、彼女たちを1人ずつではなく、全員で逃がす道を探し始める。

 (1986年4月19日土曜日午前10時20分、東京・五反田、尚人の遊興ビル506号室)


 ローザが残した茶封筒は、机の上で薄く口を開けていた。


 中から出した給与明細は、どれも同じような紙だった。白い紙ではない。少し黄ばんだ、安い帳票である。手書きの数字が並び、女の名前、出勤日数、ドリンクバック、指名料、罰金、寮費、衣装代、紹介料返済、渡航費返済が、細い線の中に押し込められていた。


 尚人は1枚ずつ見た。


 働いた日数は多い。客から取った金も少なくない。だが、最後に残る手取りは驚くほど少なかった。しかも返済欄は、毎月引かれているのに、元金がほとんど減っていない。数字は働いた証ではなく、逃げられない理由として置かれていた。


 窓の外から、五反田の朝の音が入ってきた。配送車のバック音、シャッターを上げる音、どこかの店で玉ねぎを炒める甘い匂い。夜のネオンは消えたが、ビルの中にはまだ夜が残っている。廊下の壁、非常階段の手すり、エレベーターの床。どこにも煙草と香水と酒の名残が染みていた。


 尚人は給与明細を封筒へ戻し、契約書の束とは別に分けた。


 黒岩を潰すための紙と、女たちを守るための紙は、同じ紙でも扱いが違う。怒りに任せて表へ出せば、刃は黒岩ではなくローザたちへ向く。


 扉が軽く叩かれた。


 「旦那様」


 夜間管理人の声だった。


 「入れ」


 夜間管理人は、少し緊張した顔で入ってきた。手には古い湯呑みと、近所の店で買ったらしいサンドイッチの包みを持っている。


 「朝から何も召し上がっていないようでしたので」


 「ありがとう」


 尚人は湯呑みを受け取った。茶は濃く、少し苦い。だが、眠りの浅い体にはちょうどよかった。サンドイッチのパンは少し乾いていて、ハムの塩気が強かった。五反田の朝に似た味だった。


 「上の部屋の女たちは起きているか」


 尚人が聞くと、夜間管理人は小さく頷いた。


 「何人かは起きています。昨夜遅くまで店に出ていた子は、まだ寝ているようです」


 「黒岩は」


 「まだ来ていません。黒いクラウンも見えません」


 「手下は」


 「3階の店の奥に1人いると思います。昼過ぎまで寝ていることが多いです」


 尚人は湯呑みを置いた。


 「女たちの部屋を、もう1度見る。だが、勝手に踏み込む形にはしたくない。ローザが起きているなら、廊下で呼んでくれ」


 夜間管理人は少し驚いた。


 「旦那様が直接お話を?」


 「ここは私のビルだ。だが、あの部屋は女たちが寝ている場所でもある。オーナーだからといって、無遠慮に開けていい場所ではない」


 夜間管理人は、そこで初めて深く頭を下げた。


 「分かりました」


 彼が出ていくと、尚人は机の上を片づけた。契約書は封筒に戻し、給与明細は別の封筒に入れて、引き出しへしまう。鍵をかける。金属が噛む音が小さく響いた。


 廊下へ出ると、朝の光は薄かった。五反田のビルの中に入る朝は、まっすぐではない。隣のビルの壁に跳ね、細い窓を通り、古い白色灯と混じって、どこか疲れた色になる。床のビニールタイルには、昨夜の酒の染みがまだ残っていた。


 ローザは、6階の階段脇に立っていた。


 昨夜の赤いワンピースではなく、薄いカーディガンと膝下のスカートである。顔には疲れがある。口紅は落ちていたが、目元に化粧の影が残っていた。店の女の顔ではなく、寝不足の若い女の顔だった。


 「ナオトさん」


 「無理をさせてすまない」


 「大丈夫。みんな、少し起きてる」


 ローザは廊下の奥を見た。そこに6階の部屋が2つ並んでいる。表札はない。扉の下には、古い新聞紙が少しはみ出していた。内側から冷気を止めるためか、外の音を少しでも弱くするためか、分からなかった。


 尚人は声を落とした。


 「部屋に入っていいか。嫌なら入らない」


 ローザは驚いたように尚人を見た。


 「聞くの?」


 「当たり前だ」


 ローザは少しだけ口元を動かした。笑うほどではない。だが、何かが緩んだ顔だった。


 「みんなに聞く」


 彼女は扉を軽く叩いた。中から、女の眠そうな声がした。ローザは小さな声で話した。タガログ語なのだろう。尚人には分からない。けれど、声の調子は分かった。急がせる声ではない。怖がらせないために、ゆっくり説明している声だった。


 しばらくして、扉が少し開いた。


 中の空気が廊下へ流れた。湿った洗濯物、安い香水、インスタント麺、髪油、眠った人間の息。狭い部屋で夜を越した匂いである。尚人は一瞬、呼吸を浅くした。


 部屋には、2人の女がいた。


 1人は布団の上に座り、肩にタオルケットをかけている。もう1人は小さな鏡の前で髪を結んでいた。年はどちらも20代前半に見えた。目に警戒がある。男が部屋に入ることに慣れている顔ではない。慣れているふりをしなければならない顔だった。


 尚人は入口で足を止めた。


 「早乙女です。このビルの持ち主です。今日は、部屋の使われ方を確認しに来ました。あなたたちを責めに来たわけではありません」


 ローザが訳した。


 女たちは黙っていた。信じていいか分からない顔である。


 尚人は部屋の中へ一歩だけ入った。それ以上は進まなかった。


 部屋は狭かった。布団が2組、壁際へ寄せられている。窓の近くに洗濯紐が張られ、薄いブラウス、タオル、下着がかかっていた。小さな炊飯器の蓋には水滴が残り、隣に缶詰と乾いたパンが置かれている。棚には家族写真が数枚あった。海辺で笑う子供、教会の前で写った女たち、白いシャツを着た少年。


 尚人は写真を見て、すぐに目をそらした。


 勝手に見るものではなかった。


 「ここに何人で寝ている」


 ローザが訳すと、布団の上の女が指を2本立てた。少し迷ってから、3本目を折りかけた。


 ローザが説明した。


 「ふだん2人。忙しい時、もう1人」


 「鍵は」


 鏡の前の女が、古いキーホルダーを見せた。だが、ローザが首を横に振った。


 「女の子も鍵持ってる。でも、黒岩さんの人も持ってる。夜、勝手に開ける時ある」


 尚人の顔がわずかに硬くなった。


 「いつ」


 「遅刻した時。お金の話の時。店に出ないと言った時」


 部屋の空気が、少し重くなった。女たちは、ローザが話すのを止めなかった。むしろ、言わせているようにも見えた。自分たちでは言えない。だが、聞いてほしい。そんな沈黙だった。


 尚人は静かに聞いた。


 「パスポートはどこにある」


 ローザは2人を見た。2人とも目を伏せた。


 「黒岩さんの事務所。みんなの。『なくすと困るから預かる』って」


 「返せと言ったことは」


 「ある。でも、借金まだあるって言われる」


 「借金の残りは、本人たちに分かるのか」


 ローザは苦い顔をした。


 「紙ある。でも、読んでも分からない。毎月引かれる。でも、減らない」


 尚人は頷いた。


 給与明細と同じだった。


 部屋の隅で、炊飯器が小さく音を立てた。保温の蒸気が少しだけ上がり、米の匂いがした。日本の米の匂いである。だが、棚の上にはフィリピンの缶詰が置かれている。ここにいる女たちは、日本で働いているが、日本に暮らしているとは言いにくかった。狭い部屋と店と借金の間に置かれているだけである。


 尚人は部屋を出る前に言った。


 「今日聞いたことを、黒岩には言わない。こちらからもまだ動かない。先に、みんなが安全に移れる場所を作る」


 ローザが訳した。


 布団の上の女が、初めて尚人を見た。疑いはまだ残っている。だが、その目の奥に、小さな光が灯った。


 ◇ ◇ ◇


 7階の部屋は、さらに空気が悪かった。


 窓が少ししか開かない。湿った洗濯物の匂いがこもり、床にはトランクと紙袋が並んでいた。1つの布団を畳んだ上に、店で使う靴が3足置かれている。ヒールの先は削れ、片方の飾りは取れかけていた。


 ここには3人の女がいた。


 1人は寝ていた。顔まで布団をかぶっている。残る2人は起きていたが、尚人を見ると身を固くした。ローザが事情を説明すると、1人が目を吊り上げるようにして何か言った。怒っているというより、怖さを怒りの形にしている声だった。


 ローザは困った顔で尚人を見た。


 「彼女、言ってる。男はみんな同じ。助けると言って、あとでお金取る」


 尚人は頷いた。


 「そう思っていい」


 ローザが驚いた。


 「そう言うの?」


 「言ってくれ。信用しろとは言わない。ただ、私はこのビルの契約書を見ている。黒岩の名前で借りている部屋に、契約と違う使い方をさせられていることを確認している。今すぐ金を取る話ではない。今すぐ店を辞めろとも言わない」


 ローザは少し考えながら訳した。


 怒っていた女は、最後まで尚人を睨んでいた。だが、黙った。


 尚人は部屋の中を見た。


 鏡の前に、口紅が2本置かれている。どちらも減っていた。粉白粉のケースはひびが入り、蓋を輪ゴムで止めてある。壁には小さな十字架が掛かっていた。紙で作った花が、その下に貼られている。誰かの手で、少しでも部屋らしくしようとした跡だった。


 尚人は、その紙の花を見て、胸の奥が冷えた。


 ここは人を置いておく箱だ。


 だが、彼女たちはその箱の中でも、暮らしの形を作ろうとしている。


 「全部で何人いる」


 ローザは指を折って数えた。


 「このビルに8人。今日は1人、病院。もう1人、昼から店の用事。ほかに、別の店に2人いるかもしれない。でも、ここは8人」


 「黒岩の事務所に、全員のパスポートがあるのか」


 「たぶん。少なくとも、この8人は」


 「借金の紙は」


 「事務所。ときどき見せる。でも、持たせない」


 尚人は、昨日の夜から続いていた線を心の中で引き直した。


 8人。

 上の部屋。

 パスポート。

 借金証文。

 給与明細。

 黒岩興業の契約。

 先生。

 町田小山田。


 まだ足りない。だが、輪郭はもう見えた。


 7階の女の1人が、ローザに向かって何か言った。ローザは少し迷ったあと、尚人へ向いた。


 「彼女、聞いてる。警察に言うのかって」


 尚人はすぐには答えなかった。


 警察へ駆け込めば、話は大きくなる。だが、証拠の出し方を間違えれば、女たちが不法就労の側として扱われ、黒岩だけが逃げる可能性もある。パスポートを押さえられている者、借金を背負わされている者、日本語の書類を読めない者。守る順番を間違えれば、助けるつもりが追い詰めることになる。


 「いまは、まだ言わない」


 尚人は答えた。


 ローザが訳すと、女たちの顔に不安が広がった。


 尚人は続けた。


 「言わないのは、見捨てるからではない。順番を間違えると、あなたたちが危ないからだ。先に、住む場所、食べる金、通訳、書類、証言をそろえる。それから動く」


 ローザは、今度は慎重に訳した。


 部屋の中が静かになった。


 寝ていた女が、布団の中から顔を少し出した。目だけが見えた。眠っていたのではない。ずっと聞いていたのだろう。


 尚人はその目に向かって、静かに頭を下げた。


 「勝手に部屋へ入ってすまなかった」


 ローザが訳す前に、寝ていた女は小さく瞬きをした。


 ◇ ◇ ◇


 506号室へ戻ると、空気が少し冷たく感じられた。


 さっきまで狭い部屋の湿った匂いの中にいたからだろう。古い畳の匂いが、まだましに思えた。尚人は机に向かい、メモを開いた。ペンを握る手に、少し力が入っている。


 8人。

 全員で動かす。

 1人だけ逃がさない。

 パスポートは黒岩興業の外部事務所。

 借金証文も同じ。

 上階4室は契約違反。

 女性たちは契約内容を理解していない。

 給与明細は控えあり。

 通訳が必要。

 移転先が必要。

 借金は尚人が立て替える。

 黒岩に気づかせない。


 尚人は、そこでペンを止めた。


 借金。


 黒岩の帳面が正しいとは思わない。むしろ、数字は女たちを縛るために作られている。渡航費、衣装代、紹介料、寮費、罰金。名目を足せば、いくらでも膨らむ。だが、女たちを今すぐ動かすには、黒岩が「借金が残っている」と騒ぐ口実を消す必要がある。


 正しい借金かどうかは、あとで争えばいい。


 今は、女たちの首にかかっている縄を外す方が先だった。

前編では、尚人が五反田ビル上階の部屋を見て、ローザたちの暮らしを知る。そこにあったのは寮ではなく、人を置いておく箱だった。狭い部屋、湿った洗濯物、家族写真、預けさせられたパスポート、読めない借金の紙。尚人は、警察へすぐ駆け込むのではなく、先に住む場所、食べる金、通訳、書類をそろえる必要があると考える。助けるなら1人ずつではなく、8人全員で動かす。ここで「横須賀へ逃がす」ための骨が見え始める。

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