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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第4話(後編)――「黒岩興業の帳面」

尚人は五反田の遊興ビルに泊まり、翌朝、管理室で契約書と家賃台帳を開く。そこには、黒岩興業の実態が少しずつ見えていた。3階の店、上階の寮部屋、入金の遅れ、内装費の念書。さらにローザは、女たちの給与明細を尚人へ渡す。黒岩辰夫は強い男ではない。強く見せている男である。町田小山田は、すでに黒岩の金を吸い込んだ案件ではなく、これから黒岩に無理をさせる札だった。

 (1986年4月19日土曜日午前6時10分、五反田、遊興ビル管理室)


 朝の五反田は、夜の残りをまだ捨てきれていなかった。


 ビルの入口には、酔客が落とした煙草の吸い殻が数本転がり、排水溝の近くには酒の甘い匂いが残っていた。だが、空は白くなり始めている。遠くの道路では、配送のトラックが動き、コンビニの前で段ボールを積む音がした。


 尚人は506号室で顔を洗い、毛布を畳んで管理室へ降りた。


 夜間管理人は眠そうな目をしながらも、机の上に書類の束を並べていた。茶色の封筒、青いファイル、家賃台帳、鍵の控え、古い契約書の写し。紙の匂いが、狭い管理室に濃く満ちている。コーヒーではない。湿った帳面、古いインク、指でめくられ続けた紙の匂いだった。


 「これだけ出ました」


 夜間管理人が言った。


 「3階の店の契約書。上の階の部屋が4つ。あと、保証人欄の写しと、家賃の入金台帳です。全部ではないかもしれませんが、見つかるものは出しました」


 尚人は椅子に座った。


 「順番に見る」


 最初に開いたのは、3階のフィリピンパブの契約書だった。借主欄には、黒岩興業とある。代表者は黒岩辰夫。住所は都内の小さな雑居ビルの一室になっていた。使用目的は「飲食店」。保証人欄には、黒岩個人の名があり、印影が重なっている。電話番号は事務所と自宅らしい番号が2つ並んでいた。


 尚人は契約書の紙を指で押さえた。


 「契約した時の相手は、黒岩本人か」


 夜間管理人は首を横に振った。


 「最初は代理の男が来ました。黒岩本人が顔を出したのは、開店前の内装確認の時です」


 「代理の男の名は」


 「契約書の控えには残っていません。ですが、背の高い、痩せた男でした。いつも薄い灰色の背広で、声が低い。店の者は先生と呼んでいました」


 先生。


 夜の店で「先生」と呼ばれる男は、たいてい何かを隠している。司法書士、行政書士、税理士、あるいはその周辺。黒岩1人では書類を回せない。土地へ手を伸ばすなら、紙を扱う男がそばにいるはずだった。


 尚人はメモに「先生」と書いた。


 次に上階の部屋の契約書を見た。


 6階に2部屋、7階に2部屋。部屋番号は小さく分かれているが、借主はいずれも黒岩興業だった。使用目的は「従業員休憩室」または「倉庫」。だが、夜間管理人の話では、そこに女たちが寝泊まりしている。


 「ここは住居として貸していないな」


 尚人が言うと、夜間管理人は気まずそうに頷いた。


 「はい。契約上は休憩室です。ただ、夜遅くまで働く女の子たちが休む場所だと聞いていました。泊まっていることは……見ています」


 「何人いる」


 「多い時で8人か9人です。1部屋に2人、時には3人入っているようです」


 尚人は契約書を閉じなかった。


 畳や床の上に、女たちが荷物を寄せて寝ている光景が浮かんだ。カーテンの閉じた部屋。香水と汗と洗濯物の匂い。小さな炊飯器。フィリピンから持ってきた写真。日本語の分からない契約書。そこに「休憩室」とだけ書かれている。


 尚人の口元から笑みが消えた。


 「家賃は」


 「3階の店は月80万円です。上の部屋は4部屋合わせて月36万円。共益費込みです」


 「入金は遅れているか」


 夜間管理人は家賃台帳を差し出した。


 台帳は縦罫の入った帳面で、月ごとに入金日と金額が書かれていた。3階の店は、初めのうちは月末に入っている。だが、今年に入ってから乱れていた。1月は5日遅れ。2月は10日遅れ。3月は半分だけ先に入り、残りは月をまたいでいる。4月分は、まだ一部しか入っていない。


 上の部屋はもっと悪い。名目上は家賃だが、入金はまとめて来たり、抜けたりしている。領収書の控えには「一部入金」と赤字で書かれた月があった。


 尚人は台帳を静かに閉じた。


 「黒岩は金を持っているように見せているが、実際は詰まっているな」


 夜間管理人は答えにくそうにした。


 「店は混んでいるように見えます。ただ、酒屋への支払いが遅れているという話は聞いたことがあります。酒屋の若い者が、裏口で待っていたことがありました」


 「いつだ」


 「先月です。3月の終わりごろです」


 尚人はメモした。


 黒岩は、女たちから金を吸い上げている。客からも取っている。だが、それでも支払いが遅れている。原因は、町田小山田ではない。少なくとも、今の段階であの土地に大金を入れた形跡はない。


 ならば、黒岩の金は夜の商売そのものに食われている。


 女の紹介料、渡航費の立て替え、衣装代、寮部屋の維持、酒屋への未払い、内装費の残り、車の金、そして上にいる者への渡し金。表に出ない支払いが、毎月の売上を削っている。店が混んでいるように見えても、帳面の底に残る金は薄い。


 町田小山田は、そこへこれから乗る新しい荷物だった。


 黒岩が入口角地の話に本気で手を出せば、仲介料、裏金、調査費、手付の立て替え、女や客を動かす接待費が必要になる。今の黒岩に、その余裕があるとは思えなかった。だからこそ、あの男は焦る。焦れば、さらに金の回し方を荒くする。


 尚人は、そこに黒岩の破れ目を見た。


 「保証人は黒岩個人だけか」


 尚人が聞いた。


 夜間管理人は別の紙を出した。


 「こちらに、補足の念書があります。開店時の内装費の関係で、黒岩個人が支払い保証をしています。店の内装業者に対する未払いが残った時、黒岩興業と黒岩辰夫が連帯して払うという念書です」


 「金額は」


 「当初は600万円。いまいくら残っているかは分かりません」


 尚人は紙を受け取った。紙は薄く、端が少し曲がっている。黒岩辰夫の名と印があった。


 「写しを取れるか」


 「できます」


 「全部だ。契約書、念書、台帳、入金遅れ、上階の部屋。今日中に写しを取って、原本は戻しておけ」


 「承知しました」


 尚人は少し考えたあと、受話器を取った。杉浦にかける。土曜の朝である。迷惑かもしれないが、黒岩の件は待てなかった。


 呼び出し音が数回鳴り、杉浦の声が出た。


 「杉浦です」


 眠っていた声ではなかった。すでに動いている声だった。


 「尚人です。五反田のビルにいます。黒岩興業という会社を調べてください。代表は黒岩辰夫。3階のフィリピンパブと、上階の部屋4室を借りている。家賃の遅れが出ています」


 杉浦は、すぐに紙を取ったらしい。受話器の向こうで、ペンの音がした。


 「黒岩興業。代表、黒岩辰夫。契約名義は法人、保証は個人ですね」


 「そうです。上の部屋は契約上は休憩室と倉庫ですが、実際には女たちが住んでいる。パスポートを預かっている可能性もある」


 杉浦の声が少し低くなった。


 「それは、かなり危ないですね」


 「まだ表へ出しません。まず帳面です。黒岩興業の登記、取引銀行、差押えの有無、手形の噂、酒屋や内装業者への未払いを洗ってください」


 「小沼さんにも回しますか」


 「回してください。ただし、町田小山田の件とは、まだ金の流れでは結びつけないでください。今の段階では、黒岩興業単体の弱り方を見る方が先です」


 「承知しました。町田は、これから負担になるかもしれない材料として分けておきます」


 「そうです。あの男は、今すでに弱っている。そこへ町田小山田を抱え込めば、必ず無理が出る。その時系列を作りたい」


 「分かりました。五反田ビル側の契約書の写しは、こちらへ回せますか」


 「今日中に取らせます」


 「では午後、品川で受け取れるようにしてください」


 「お願いします」


 電話を切ると、管理室の空気がまた紙の匂いに戻った。


 夜間管理人は、尚人の顔をうかがっていた。


 「旦那様。黒岩を追い出すのですか」


 尚人はすぐには答えなかった。


 管理室の小窓から、朝のビル入口が見えた。昨日の夜には女の声と男の笑いが溜まっていた場所に、今は掃除用のバケツが置かれている。水に浮いた煙草の灰が、薄い膜のように広がっていた。


 「今追い出せば、あの男は逃げる」


 尚人は言った。


 「では」


 「帳面を全部見る。あの男が何で立っているかを調べる。家賃で立っているのか。女で立っているのか。手形で立っているのか。上への渡し金で立っているのか。町田小山田は、これからあの男に無理をさせる札だ。いま原因にしてはいけない」


 夜間管理人は黙っていた。


 尚人は家賃台帳に手を置いた。


 「人を縛る男は、自分も何かに縛られている。そこを探す」


 ◇ ◇ ◇


 午前8時を過ぎると、ビルの中が少しずつ起き始めた。


 1階の飲食店がシャッターを上げ、金属のこすれる音が響いた。階段では掃除の女が雑巾を絞り、バケツの水が床を叩く音がした。3階のフィリピンパブはまだ閉まっている。扉の前には、昨夜の客が落としたらしいマッチの箱が1つ転がっていた。


 尚人は夜間管理人と一緒に、上階の部屋を見に行った。


 最初は6階の小さな部屋だった。鍵を開けると、空気が重かった。狭い部屋に布団が2組、壁際へ寄せて敷かれている。カーテンは閉まり、洗濯物が紐にかかっていた。薄いブラウス、安いスカート、タオル。湿った布の匂いに、甘い香水とインスタント麺の匂いが混じっている。


 小さな棚には、缶詰、英語の聖書らしい本、家族写真、封筒が並んでいた。封筒にはアルファベットで名前が書かれている。部屋の隅には、店で使う靴が3足置かれていた。ヒールの先が擦れ、底に夜の埃がついている。


 尚人は何も触らなかった。


 「ここに何人いる」


 「2人です。日によって、もう1人来ることがあります」


 「窓は開くか」


 夜間管理人が窓に手をかけた。少し固かったが、開いた。外の空気が入り、湿った部屋の匂いを少しだけ押し出した。


 「鍵は女たちが持っているのか」


 「黒岩の手下が管理しています。女の子たちも持っているようですが、出入りの時間は見られています」


 尚人は部屋を見渡した。


 これは寮ではない。人を置いておく箱である。寝るための場所はある。だが、暮らしを選ぶ余地はない。女たちはここから3階へ降り、酒を作り、歌い、客の話を聞く。そして黒岩の帳面の中で、家賃と借金に変えられる。


 7階の部屋も同じだった。


 片方には3人分の荷物があった。床に置かれたトランクは古く、角が擦れている。中に入りきらない衣類が、紙袋に詰め込まれていた。小さな鏡の前には、安い口紅と粉白粉が並んでいる。洗面台には髪の毛が絡み、石鹸は小さくなっていた。


 もう片方の部屋は、倉庫と呼ぶには人の匂いが濃すぎた。ダンボールの奥に布団が丸めてあり、カーテンの陰に女物の靴が2足隠れていた。


 尚人は扉を閉めた。


 「この4部屋について、契約違反で切る材料はあるな」


 夜間管理人は小さく頷いた。


 「はい。使用目的が違います。人数も届け出と違うはずです」


 「まだ切らない」


 「はい」


 「女たちの逃げ道を作る前に切れば、黒岩は女たちへ当たる」


 夜間管理人の顔が変わった。そこまで考えていなかった顔だった。


 尚人は廊下を歩きながら言った。


 「契約違反は札だ。切る時まで見せない」


 階段の踊り場から、五反田の朝が少し見えた。ビルの谷間に白い光が入り、昨夜のネオンは消えかけている。だが、消えたのは光だけで、夜の商売そのものは眠っていない。紙の上では、朝になっても黒岩の線が残っている。


 ◇ ◇ ◇


 午前9時半、尚人は506号室へ戻った。


 管理室から借りた小さな机を窓際へ置き、契約書の写しを広げた。部屋には、朝の湿気と古い畳の匂いが漂っている。窓を開けると、隣のビルの壁に反射した光が入った。下からは、配送車のバック音と、飲食店の仕込みの匂いが上がってきた。玉ねぎを炒める甘さと、古い油の匂いである。


 尚人は1枚ずつ見た。


 黒岩興業。

 3階店舗。

 6階2室。

 7階2室。

 保証人、黒岩辰夫。

 内装費念書。

 家賃遅れ。

 一部入金。

 使用目的違反。


 紙の上では、黒岩はすでにかなり危うかった。店は動いている。女たちは働いている。客は金を落としている。だが、台帳の数字は嘘をつかない。支払いが遅れ、分割になり、保証の紙が増えている。黒岩は強い男ではない。強く見せている男である。


 尚人は受話器を取り、品川の早乙女不動産へもう一度電話をかけた。出たのは杉浦本人だった。


 「先ほどの件、1つ追加です」


 「はい」


 「黒岩興業の支払い遅れは、今年に入ってから悪化しています。1月からです。ただし、町田小山田に大きな金を入れた結果ではありません。そこは分けてください」


 「分かりました。黒岩興業の既存の資金難と、町田小山田の今後の負担を分けて時系列にします」


 「お願いします。それから、黒岩の債権者を探してください。酒屋、内装、女の紹介、車、金融。どこかで手形を切っているはずです」


 「手形ですか」


 「ええ。現金で回っている男ではありません。見栄の割に入金が弱い。どこかで短い金を回している」


 杉浦は即答した。


 「分かりました。小沼さんには登記と法人、私は銀行と支払い筋を当たります。ただし、表から聞きすぎると黒岩に伝わります」


 「そこは任せます」


 「はい。午後には一度ご報告します」


 尚人は受話器を置いた。


 窓の外で電車の音がした。線路の金属音は、ビルの隙間を通って細く伸び、やがて消えた。尚人は契約書を見つめたまま、手のひらで畳を押した。畳は少し湿っている。昨夜の毛布の匂いも残っていた。


 黒岩を潰すなら、怒りではなく順番である。


 店を切る。

 寮を切る。

 女たちを逃がす。

 酒屋を止める。

 手形を突く。

 町田小山田で無理をさせる。

 フランス女に見捨てさせる。


 その順番を間違えれば、女たちが危ない。黒岩だけが逃げ、ローザたちはさらに締め上げられる。だから尚人は、まだ何もしない。するのは、帳面を読むことだけだった。


 扉が軽く叩かれた。


 夜間管理人だった。


 「旦那様。3階の店の子が1人、廊下にいます。ローザという子です。旦那様に渡したいものがあると」


 尚人は顔を上げた。


 「ここへ通すな。廊下で話す」


 「はい」


 尚人は契約書を封筒へ戻し、机の引き出しへ入れた。鍵をかける。金属が噛む音がした。


 廊下へ出ると、ローザが壁際に立っていた。昨夜の赤いワンピースではなく、くたびれた薄いカーディガンを羽織っている。化粧は落ちきっておらず、目の下に疲れが残っていた。髪は軽く束ねているだけで、耳の横に短い毛がほつれている。


 「ナオトさん」


 声は小さかった。


 「ここへ来るのは危ない」


 尚人が言うと、ローザはうなずいた。


 「少しだけ。すぐ戻る」


 彼女は手に持っていた封筒を差し出した。薄い茶封筒で、折り目がついている。中には紙が数枚入っているようだった。


 「何だ」


 「給料の紙。私のじゃない。みんなの、少しだけ。コピーじゃない。古いの、捨てるところから取った」


 尚人は封筒を受け取った。


 「黒岩に知られているか」


 ローザは首を振った。


 「まだ。たぶん」


 「なぜ渡す」


 ローザは廊下の奥を見た。非常階段の方から、誰かが降りる音がしたが、すぐに遠ざかった。


 「ナオトさん、ビルの人。たぶん強い人。でも、昨日、すぐ怒らなかった。だから渡す」


 尚人は封筒を見た。


 ローザは続けた。


 「みんな、借金ある。お店に来る前から。飛行機、服、部屋、紹介。ぜんぶお金。働いても、なくならない。パスポート、黒岩さんの事務所」


 「事務所はどこだ」


 ローザは少し迷った。


 「ここじゃない。外。黒岩興業。先生も来る」


 先生。


 尚人は朝の管理人の話とつなげた。


 「その先生は、土地の話もするか」


 ローザは小さく頷いた。


 「マチダ、言ってた。フランスの女、先生と話す。黒岩さん、怒ると怖い」


 「町田で、もうお金を使ったような話は聞いたか」


 ローザは首を振った。


 「まだ。たぶん、まだ。黒岩さん、これから、と言ってた。角を取れば金になるって」


 「そうか」


 尚人の中で、線が1つ正しい位置に収まった。


 町田小山田は、黒岩の過去の穴ではない。これから黒岩が落ちる穴である。


 「分かった。もう戻れ」


 ローザは、そこで尚人を見た。


 「ナオトさん。助けるなら、みんな一緒。1人だけだめ。1人逃げると、残った人が怒られる」


 尚人は、ほんの少しだけ目を伏せた。


 「分かっている」


 「ほんと?」


 「1人ずつ逃がすようなことはしない」


 ローザの肩から、少しだけ力が抜けた。


 「ありがとう」


 彼女は小さく頭を下げ、廊下の奥へ戻っていった。足音は軽い。だが、その軽さには疲れが混じっていた。


 尚人は部屋へ戻り、封筒を開けた。


 中には、手書きの給与明細の控えが数枚入っていた。店名は正式には書かれていない。女の名前、出勤日数、ドリンクバック、指名料、罰金、寮費、衣装代、紹介料返済、渡航費返済。最後に、手取り金額があった。


 金額は少なかった。


 1か月働いて、残る金はわずかである。しかも返済欄には、元金が減った形跡が薄い。毎月引かれているのに、借金は消えない。数字は、女たちを縛るために作られていた。


 尚人は紙を机に置いた。


 窓の外の五反田は、もう朝の顔をしている。だが、帳面の中には夜が残っていた。黒岩興業の夜である。


 尚人は静かに言った。


 「黒岩。おまえは、自分の帳面で潰れる」


 声は小さかった。誰にも聞かせるための言葉ではない。


 尚人は給与明細を契約書の封筒とは別に分けた。ローザたちの紙は、黒岩を切る札であると同時に、女たちを守る札でもある。扱いを間違えれば、刃は向こうではなく彼女たちへ向く。


 尚人は新しいメモを1枚出し、上にこう書いた。


 黒岩興業

 一、契約名義

 二、寮部屋

 三、保証人

 四、家賃遅れ

 五、内装費念書

 六、給与天引き

 七、パスポート

 八、先生

 九、町田小山田


 9つの線が並んだ。


 ただし、9つ目の線だけは、ほかと意味が違う。契約名義、寮部屋、保証人、家賃遅れ、内装費念書、給与天引き、パスポート、先生。これらは、黒岩がすでに抱えている鎖である。町田小山田だけは、これから黒岩に巻きつく鎖だった。


 尚人は、その違いをメモの横に書き足した。


 町田小山田。

 既存の支出ではない。

 これから無理をさせる札。


 まだ十分ではない。だが、黒岩を破産へ追い込むための骨は見え始めていた。


 尚人はペンを置き、窓の外を見た。


 夜の街は、朝になると何もなかった顔をする。だが、紙は覚えている。台帳も、契約書も、給与明細も、嘘をついた者の指紋を残す。そして、これからつく嘘の場所も、紙の上には必ず現れる。


 尚人はその日、五反田の空き部屋を臨時の自室に決めた。


 黒岩を潰すまで、ここを夜の拠点にする。秋谷は家だ。品川は会社だ。五反田は、敵の帳面を読む場所になる。

後編では、五反田の管理室に残された契約書と台帳から、黒岩興業の足元が見えてくる。3階の店、上階の寮部屋、遅れ始めた家賃、内装費の念書、そしてローザたちの給与明細。黒岩辰夫は女たちを借金で縛り、店の売上で強く見せながら、実際には支払いに詰まり始めていた。ただし、町田小山田はまだ黒岩の金を吸い込んだ案件ではない。これから黒岩に無理をさせる札である。尚人は怒りで踏み込まず、まず紙を集め、線を読む。黒岩を倒す戦いは、拳ではなく帳面から始まった。

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