第4話(前編)――「五反田の空き部屋」
五反田の夜で、尚人は黒岩辰夫の名を拾った。黒岩はフィリピンパブの女衒であり、町田小山田の入口角地をめぐる話にも関わっているらしい。だが、町田小山田はまだ黒岩の金を吸い込んだ案件ではない。むしろ、これから黒岩に無理をさせる火種である。ローザたちフィリピン女性は、同じビルの上階にある寮部屋で暮らしているという。尚人は秋谷へ戻らず、五反田の遊興ビルに残る。空き部屋を自室として使い、その夜はそこで眠ることにした。
(1986年4月18日金曜日午後11時20分、東京・五反田、尚人の遊興ビル)
五反田のネオンは、深夜へ向かっても弱らなかった。
駅の方から酔った男たちの笑い声が流れ、タクシーのドアが閉まる音が短く響いた。焼き鳥の煙、ラーメン屋の湯気、雨の残りを吸ったアスファルトの匂いが、ビルの入口まで入り込んでいた。3階のフィリピンパブからは、まだカラオケの音が漏れている。音程の外れた歌声に、女たちの拍手と男の笑いが重なっていた。
尚人は車へ戻らなかった。
秋谷へ帰れば、静かな庭と池の水音がある。澄江も新三も、夜のうちに帰ってきた主のために茶を用意するだろう。だが、この夜は帰る気になれなかった。ローザの紙片が、上着の内ポケットに入っている。薄く濡れた紙は、乾いてもまだ少し波打っていた。
クロイワ。
マチダ。
フランスオンナ。
オンナノカネ。
パスポート。
ウエノヘヤ。
その6つの言葉が、尚人の頭の中で並んだまま離れなかった。
黒岩は、ただの店の顔役ではない。ローザの紙片と、さっき事務所の扉の向こうから漏れた「町田は、角だけでいい」という声が、それを示している。だが、町田小山田で黒岩がすでに大金を使ったわけではない。少なくとも今夜の段階では、町田はまだ獲物であり、支払いの穴ではなかった。
だからこそ、尚人は気になった。
黒岩がいま金に詰まっているなら、その理由は別にある。女たちの借金、紹介料、渡航費、衣装代、寮費、酒屋、内装費、車、そして上にいる者への渡し金。そうした夜の商売の重さが、黒岩の足元を少しずつ削っているのだろう。
町田小山田は、その弱った足元へこれから乗る重石になる。
尚人はそう見た。
夜間管理人は、管理室の小さな机の前に立っていた。蛍光灯の光は少し青く、壁の古いカレンダーの紙を白く照らしている。机の上には、鍵束と来客記録のノートが置かれていた。ノートの端は手垢で黒ずみ、鉛筆で書かれた名前や時刻が、ところどころ擦れていた。
「空き部屋はあるか」
尚人が聞くと、夜間管理人はすぐに鍵束を見た。
「5階の奥に、空き事務所があります。前は小さな金融屋が使っていた部屋です。今は机も椅子もありません。畳の部屋が1つと、流しと洗面だけです」
「今夜はそこを使う」
「えっ、旦那様がですか」
「秋谷へ戻るより早い。朝までここにいる」
夜間管理人は、驚きを隠せない顔をした。だが、すぐに姿勢を直した。
「布団はございません。毛布なら、管理室の奥に1枚あります」
「それでいい」
尚人は鍵を受け取った。
鍵には、白いプラスチックの札が付いていた。黒いペンで「506」と書かれている。古い字だった。札の角は少し欠け、金具は手の脂で鈍く光っていた。
「それから、明日の朝までに出せるものを全部出しておいてください。3階の店の契約書、上の階の部屋の契約書、保証人、家賃台帳、入金の遅れ、更新の記録。古いものも残っているなら出してください」
夜間管理人は喉を鳴らした。
「分かりました。管理会社から預かっている控えは、地下の書庫にあります。朝までに探しておきます」
「無理はするな。ただし、黒岩には知らせるな」
「はい」
尚人は管理室を出た。
エレベーターは使わず、非常階段を上がった。鉄の階段は、歩くたびに乾いた音を返した。3階を通ると、店の扉の奥からローザの声が一瞬だけ聞こえた気がした。日本語ではない。女たちが小さく交わす言葉だった。笑っているようにも、急いでいるようにも聞こえた。
尚人は足を止めなかった。
5階の廊下は、3階より静かだった。赤や青のランプはなく、古い白色灯だけが壁を照らしている。床のビニールタイルはところどころ剥がれ、端に埃が溜まっていた。酒と香水の匂いは薄くなり、代わりに湿った紙と古い木材の匂いがした。
506号室の扉を開けると、空気がこもっていた。
部屋は狭い。入口のすぐ横に小さな流しがあり、奥に6畳ほどの畳部屋があった。畳は日に焼け、縁は擦り切れている。壁には、かつて机を置いていた跡が四角く残り、釘穴がいくつも並んでいた。窓の外には隣のビルの壁が迫り、隙間からネオンの赤い光が少しだけ入っている。
尚人は窓を開けた。
外の音が流れ込んだ。タクシーのエンジン、遠い電車の金属音、誰かが吐き捨てるように笑う声。空気には排気ガスと雨上がりの湿りが混じっている。畳の古い匂いは、それでも消えなかった。
夜間管理人が毛布と古い枕を持ってきた。
「すみません。これくらいしか」
「十分です」
尚人は毛布を受け取り、畳の上に広げた。毛布には防虫剤の匂いがした。体を横たえるには硬いが、眠れないほどではない。
「朝は何時に」
「6時でいい。書類は管理室で見る」
「承知しました」
夜間管理人が出ていくと、部屋は急に静かになった。
尚人は上着を脱ぎ、紙片を取り出して畳の上に置いた。水滴で少し滲んだ文字が、赤いネオンの光を受けて黒く浮かんでいる。ローザは、あの店の中でこれを書いた。誰かの目を盗み、グラスの下へ滑り込ませた。たった6つの言葉で、黒岩の世界を示した。
尚人は煙草を吸わない。だが、この部屋には前の借主が残した煙草の匂いが染みていた。壁紙の黄ばみ、窓枠の黒ずみ、流しの錆。それらを見ていると、金と欲が出入りしていた小さな跡が見えてくる。
黒岩も同じだ。
派手な声を出し、女を従え、店で大きな顔をしている。だが、帳面を開けば、そこには必ず跡が残っている。家賃。保証人。名義。入金日。遅れた月。寮部屋の使い方。金を隠そうとする者ほど、どこかに別の線を残す。
尚人は毛布に横になった。
畳は硬く、背中に薄い痛みが来た。天井の蛍光灯は消した。窓の外の赤い光だけが、部屋の隅を少し染めている。遠くでカラオケが終わり、拍手が起きた。しばらくして、3階の扉が開く音がした。女の声、男の低い笑い、階段を降りる革靴の音。
尚人は目を閉じた。
啓子の手の温かさと、ローザの紙片の冷たさが、同じ日の中にあった。片方は家の記憶を教え、片方は夜の鎖を知らせた。どちらも女の手だった。
眠りは浅かった。
それでも尚人は、五反田のビルの中で朝を待った。
前編では、尚人が秋谷へ戻らず、五反田の遊興ビルに泊まる。ローザの紙片に書かれた6つの言葉は、黒岩の夜の仕組みを示していた。尚人はすぐに怒りで動かず、まずビルの空き部屋を拠点にする。黒岩を倒す刃は、まだ抜かない。女たちを危険にさらさないためにも、最初に見るべきものは契約書と台帳である。五反田の空き部屋は、この夜から敵の帳面を読む場所になった。




