第3話(後編)――「ローザの小さな紙片」
黒岩辰夫は、ただの店の顔役ではなかった。五反田のフィリピンパブで女たちを押さえながら、町田小山田の入口角地にも手を伸ばしていた。ローザは、尚人のグラスの下へ小さな紙片を滑り込ませる。そこには、黒岩、町田、フランス女、パスポート、上の部屋という言葉が並んでいた。後編では、尚人が黒岩の夜の仕組みを知り、復讐が土地だけでは終わらないことを悟る。
廊下の空気は、店の中より少し冷たかった。尚人はエレベーターを待たず、非常階段へ回った。鉄の階段は足音をよく響かせる。上からは別の店の笑い声が落ち、下からはラーメン屋の油の匂いが上がってきた。
2階の踊り場で、尚人はポケットから紙ナプキンを出した。
紙は水滴で少しふやけていた。ボールペンの字は急いで書かれている。かなは少し崩れていたが、読めた。
クロイワ
マチダ
フランスオンナ
オンナノカネ
パスポート
ウエノヘヤ
それだけだった。
尚人は紙を折り直した。
上の部屋。
最後の1語で、尚人の目が止まった。黒岩は、女を店に置いているだけではない。このビルの上の階に、女たちを住まわせている。渡航費、衣装代、住まい、紹介料。そういう名目で借金を作り、給料から引く。パスポートを預かる。帰りたくても帰れない。店で客の話を聞かせ、その話を土地の罠へ流す。
尚人は踊り場の壁に背を預けた。壁紙は煙草で黄ばみ、指先にざらついた感触が残る。下の階から、酔った男の笑い声が上がってきた。夜の街は何も知らない顔で動いている。だが、その奥で女たちは縛られ、土地の話は金に変えられている。
土地を騙す男は、人も騙す。
しかも、その場所は尚人のビルの中だった。
尚人は紙片を財布の奥へしまった。
町田小山田の件は、土地の復讐だけでは終わらない。
黒岩を切らなければならない。
◇ ◇ ◇
1階へ降りると、夜間管理人が管理室から顔を出した。
「もうお帰りですか」
「黒岩は、いつも何時ごろ出る」
「日によります。遅い時は午前2時すぎです。車は黒のクラウン。運転手はいません。自分で運転します」
「店の女たちは、どこに住んでいる」
夜間管理人は少し迷った。
尚人は低く言った。
「怒らない。必要だから聞いている」
「このビルの上の階に、女の子用の部屋が何室かあります。表向きは店の寮という扱いです。けれど、部屋を借りている名義は、黒岩の関係会社だと聞きました。家賃は給料から引かれる、と女の子がこぼしていました」
「関係会社の名は」
「たしか、黒岩興業。正式かどうかは分かりません」
尚人は頷いた。
「今夜のことは、誰にも言わないでください。黒岩にも、店にも」
「承知しました」
「それと、3階の店の賃貸借契約書と保証人の写しを明日そろえてください。上の階の寮部屋も含めて、契約名義を全部見たい。更新履歴もです」
夜間管理人の顔に、管理人としての緊張が走った。
「何か始まるんですか」
尚人は答えなかった。
「書類を見たいだけです」
それだけ言って、尚人は外へ出た。
五反田の夜は、さっきより冷えていた。ネオンは濡れた舗道に赤や青の色を落とし、酔った男たちの声が線路の方へ流れていく。タクシーのドアが閉まる音、客引きの低い声、遠くの電車の金属音。都市は夜でも眠らない。むしろ、昼よりも本音に近い顔を出す。
尚人は車に戻り、運転席に座った。
啓子の手の温かさは、まだ消えていなかった。だが、その上にローザの紙片の感触が重なった。薄く、濡れて、破れそうな紙である。そこには、町田、フランス女、黒岩、パスポート、上の部屋という言葉が並んでいた。
秋谷の公図には、細い私道の線があった。
五反田の紙片には、人を縛る線があった。
どちらも、見落とせば命取りになる。
尚人はエンジンをかけた。夜の排気が窓の外を流れる。ハンドルを握る手に、少し力が入った。
杉山社長の復讐は、土地だけでは終わらない。
ローザたちを縛る鎖も、同じ男たちの手にある。
しかも、その鎖は、尚人のビルの中にかかっている。
ならば、切る順番を考えなければならない。
黒岩はまだ、尚人を知らない。
地面師たちも、まだ尚人を甘く見ている。
それでいい。
相手がこちらを調べる前に、こちらが相手の夜を読む。
尚人は五反田のネオンを背に、車を静かに走らせた。
後編では、ローザの小さな紙片によって、黒岩辰夫の影がはっきりする。黒岩は町田小山田の土地に関わるだけでなく、フィリピン女性たちを借金、住まい、パスポートで縛っていた。尚人は、自分のビルの中にその仕組みがあることを知り、復讐が土地だけでは終わらないと悟る。秋谷の公図にあった細い線と、五反田の紙片に書かれた言葉。どちらも、見落とせば人を追い込む線だった。次に尚人が切るべきものは、土地の罠だけではなく、人を縛る鎖でもある。




