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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第3話(前編)――「五反田の黒岩」

成城の門前で啓子を見送った尚人は、秋谷へは戻らなかった。啓子の手の温かさは、まだ手の甲に残っている。だが、杉山社長を死へ追い込んだ連中は、夜の街にも足場を持っているはずだった。尚人は五反田の持ちビルへ向かう。そこには、以前ローザが働いていたフィリピンパブがある。酒と香水と煙草の匂いの奥で、女たちは客の話を聞き、男たちは女たちを借金で縛る。尚人はその夜、自分のビルの中で、黒岩という名を拾う。

 (1986年4月18日金曜日午後9時20分、東京・成城)


 榎本啓子の背中が、成城の門の奥へ消えた。


 玄関灯のやわらかい光に、薄藤色の服が1度だけ浮かび、すぐに暗い庭木の影へ溶けた。門扉は静かに閉まり、住宅街にはまた夜の静けさが戻った。遠くで犬が1度吠え、すぐに止んだ。街路樹の葉がわずかに擦れ、車内の空気だけが取り残されたように温かかった。


 尚人はハンドルに両手を置いたまま、しばらく動かなかった。


 啓子が手袋を外して重ねた手の感触が、まだ手の甲に残っている。長くはない。だが、軽くもなかった。触れた時間より、離れたあとの余韻の方が深い。あの女は、抱けば手に入る女ではない。秋谷の屋敷と同じで、入る前にまず時間を受け止めなければならない。


 尚人は息を吐いた。


 その息の奥へ、別の匂いが入り込んできた。


 線香の匂いだった。


 杉山社長の顔が浮かんだ。追い込まれ、工場と家を奪われかけ、最後に命まで落とした男である。尚人は町田小山田の入口角地に、相手を落とす道を見つけた。だが、まだ相手の顔は見えていない。ゆかりは入口にすぎない。フランス女たちも、そのさらに奥にいる。土地の話になると日本人の男が入る。金を集め、女を使い、客から話を吸い上げる者がいる。


 尚人はエンジンを切らなかった。


 秋谷へ戻れば、澄江が温かい茶を出すだろう。黒松の庭は静かで、池の水音も聞こえる。啓子の余韻を抱いたまま寝ることもできる。


 だが、今夜は眠れない。


 尚人はギアを入れた。


 車は成城の静かな道を抜け、環八へ向かった。街灯の光がフロントガラスを流れ、対向車のヘッドライトが一瞬だけ白く刺した。住宅街の匂いは薄い。生垣の青さ、風呂を沸かす家の湿った匂い、遠い夕飯の残り香。その静けさは、五反田へ近づくにつれて崩れていった。


 道路の音が増える。排気ガスが濃くなり、看板灯の色が増えた。ラーメン屋の湯気、焼き鳥の煙、古いビルの湿ったコンクリート、酔った男の声。都内の夜は、家の中へ閉じる成城とは違う。人が外へ漏れ出している。欲も、疲れも、嘘も、路地の角に溜まっている。


 午後10時を少し過ぎたころ、尚人は五反田の遊興ビルの前に車を止めた。


 ビルは7階建てだった。1階は小さな飲食店と管理室、2階から上にスナック、クラブ、フィリピンパブ、麻雀店、事務所が入っている。上の階には、店の事務所や倉庫に混じって、女たちを住まわせる部屋もあった。表向きは店の寮である。だが、どこまで正規の契約で、誰が本当の借主なのか、尚人はまだ詳しく見ていなかった。


 入口の床は磨かれているが、夜になると水商売の靴跡で少し曇る。壁には香水と煙草と油の匂いが染み、エレベーター前の灰皿にはまだ赤い火が残っていた。


 尚人は建物を見上げた。


 ここは尚人の持ち物である。だが、持っていることと、中の夜を知っていることは違う。秋谷の屋敷と同じだった。建物には帳簿に出ない癖がある。誰がいつ入り、誰がどの女を連れ、どの男が勘定を払うのか。そういう線は、賃貸借契約書には出てこない。


 入口の管理室に、初老の夜間管理人がいた。白いワイシャツの襟が少し黄ばみ、眼鏡の奥の目は眠そうに見える。だが、客の顔はよく覚えている男だった。こういうビルでは、眠そうな男ほど見ている。


 「夜分すまない」


 尚人が声をかけると、夜間管理人は慌てて椅子から立った。


 「これは、早乙女さん。こんな時間に」


 「少し中を見に来た。変わった客はいるか」


 夜間管理人はすぐには答えなかった。どこまで言っていいかを、頭の中で測っている。


 尚人は薄く笑った。


 「怒りに来たわけじゃない。知っておきたいだけだ」


 夜間管理人はようやく声を落とした。


 「3階のフィリピンパブに、このところ妙な男が出入りしています。店の客というより、女の手配をしているような男です」


 「名前は」


 「黒岩と呼ばれています。黒岩辰夫。うちの賃借人ではありません。店の裏に顔を出して、女の出勤や給料のことで口を出す。店長でもないのに、皆が逆らわない」


 黒岩。


 尚人はその名を胸の中で1度だけ転がした。硬く、角のある名前だった。


 「ほかには」


 「外国の女を連れた日本人の男が、先週あたりから何度か来ています。フランス語のような言葉を話す女です。髪は濃い色で、背が高い。店には長くいません。誰かを待って、少し話して帰るだけです」


 尚人は管理室の小さな窓から、エレベーターの方を見た。


 「黒岩と、その女は会っているのか」


 「直接かは分かりません。ただ、同じ夜に来たことはあります」


 十分だった。


 尚人は夜間管理人に言った。


 「私は3階へ行く。私が来たことは、聞かれるまで言わなくていい」


 「承知しました」


 夜間管理人は頭を下げた。


 エレベーターの扉が開くと、中から甘い香水と酒の匂いが流れてきた。床には薄く靴の泥がついている。尚人が3階のボタンを押すと、古い機械が低く唸り、箱がゆっくり上がった。


 ◇ ◇ ◇


 3階の廊下は、1階より空気が濃かった。


 赤いランプが壁を染め、奥の店からカラオケの音が漏れている。古い英語の歌を、誰かがたどたどしく歌っていた。拍手が起き、すぐに笑い声が重なる。氷の入ったグラスが触れ合う音、女の高い声、男の低い笑い。廊下の壁には煙草の匂いが張りつき、床のビニールタイルは酒を含んだ雑巾で拭いたような湿りを残していた。


 フィリピンパブの看板は、青いネオンで光っていた。アルファベットの一部が少しちらつき、海の絵を描いた安っぽいパネルの端が剥がれている。尚人は店名を見上げたが、そこにこだわる気はなかった。以前ローザが席についた店である。それだけで足りた。


 尚人が扉を開けると、暖かい空気が頬にぶつかった。


 店内は思ったより狭い。ボックス席が4つ、カウンターが8席。壁にはフィリピンの海辺の写真が飾られ、薄いプラスチックの造花が棚に挿してあった。空調は効いているが、煙草と香水と人の熱で、空気は重い。カラオケのスピーカーは少し割れていて、女の声が高音でざらついた。


 カウンターの奥にいた女が、尚人を見て一瞬だけ目を見開いた。


 ローザだった。


 黒い髪を肩の下でゆるく巻き、赤いワンピースを着ている。唇には濃い口紅が引かれ、耳には小さな金色の飾りが揺れていた。以前より化粧は濃い。だが、目だけは変わっていない。客の懐と機嫌を同時に測る、夜の店の女の目である。


 「ナオトさん」


 名前は小さく出た。すぐにローザは笑顔を作り、仕事の声に戻した。


 「いらっしゃいませ。ひとり?」


 「ひとりだ」


 尚人はカウンターに座った。椅子の革は少しべたつき、座ると中のウレタンが沈んだ。ローザは水割りを作るためにグラスを取り、氷を入れた。氷がガラスに当たる音が、店の喧騒の中で妙に澄んで聞こえた。


 「また来てくれたね」


 ローザは笑っている。だが、笑みが目の奥まで届いていない。


 以前、尚人はこの店でローザを指名し、レディドリンクを頼み、彼女の歌を聞いた。名前も覚えられた。だが、それだけである。店の外へ連れ出したわけでも、深い関係になったわけでもない。ローザにとって尚人は、少し印象に残った若い客だった。


 その距離だからこそ、今の笑顔は不自然だった。


 「元気だったか」


 尚人が聞くと、ローザは一拍遅れて頷いた。


 「元気。仕事、忙しい。日本のお客さん、いっぱい飲む」


 その日本語は明るく作られている。だが、手元は少し硬い。マドラーを回す指先に、小さな傷があった。水仕事の荒れではない。何かに引っかけたような細い傷である。


 尚人はグラスを受け取り、口をつけた。安いウイスキーの匂いが鼻に抜け、舌に少し苦みが残る。


 「この店は、黒岩という男が見ているのか」


 ローザの手が止まった。


 ほんの一瞬である。客なら見落とす。だが尚人は見落とさなかった。


 「クロイワさん、知ってる?」


 「名前だけだ」


 ローザは周囲を見た。ボックス席では酔った会社員が女の肩に腕を回し、別の席では太った男がカラオケの本をめくっている。店の奥、事務所へ続く扉の前に、若い男が1人立っていた。黒い開襟シャツに、細い金のネックレス。腕組みをして、店の女たちを見ている。


 ローザは声を落とした。


 「ここでは、あまり言えない」


 「分かった」


 尚人はそれ以上聞かなかった。


 聞かないことで、ローザの肩がわずかに下がった。彼女はカウンターの下から灰皿を出し、尚人の前に置いた。そのとき、紙ナプキンを1枚、グラスの下へ滑り込ませた。何でもない動きだった。手品にも見えない。だが、紙の端が少し折られている。


 尚人はすぐには見なかった。


 店の扉が開いた。


 空気が動き、廊下の煙草の匂いが流れ込んだ。入ってきたのは、45歳前後の男だった。背は高くないが、肩に妙な厚みがある。白いシャツの襟は開き、濃い色のジャケットを羽織っている。髪は油で撫でつけられ、指には太い金の指輪が光っていた。香水ではない。整髪料と煙草と、古い革靴の匂いがした。


 店の女たちの声が、半音だけ下がった。


 男はカウンターへ近づき、ローザの背中を見た。


 「ローザ。今日の分、後で事務所な」


 日本語だった。声は柔らかい。だが、命令だけが中に入っている。


 ローザは振り返らずに答えた。


 「はい、黒岩さん」


 黒岩辰夫。


 尚人はグラスを持ったまま、男を見た。


 黒岩も尚人に気づいた。客として見る目ではない。どこの筋の人間か、金を持っているか、面倒な男かを一瞬で測る目だった。


 「見ない顔だな」


 黒岩が言った。


 ローザがすぐに割って入った。


 「私のお客さん。前に指名してくれた人」


 「そうか」


 黒岩は笑った。歯が白い。だが、目は笑っていなかった。


 「楽しんでいってくださいよ。うちは女の質がいいから」


 尚人は薄く頷いた。


 「そうらしいな」


 黒岩は一瞬だけ眉を動かした。尚人の返事に、客の軽さがないことを感じたのだろう。だが、ここで探るほどでもないと判断したらしい。奥の事務所へ向かい、扉を開けた。


 その扉の向こうから、別の声が漏れた。


 低い男の声である。


 「町田は、角だけでいい。急がせろ」


 それだけ聞こえた。


 扉は閉まった。


 尚人はグラスを置いた。氷が小さく鳴った。ローザの指がカウンターの下で震えている。店のカラオケはまだ続いている。誰かが下手な日本語で恋の歌を歌っている。ボックス席では男が笑い、女が手を叩いている。だが、尚人の耳には、いまの一言だけが残った。


 町田は、角だけでいい。


 尚人は、ようやく黒岩の位置を見た。


 この男は、単なる女衒ではない。店の女を縛り、客の話を吸い上げるだけでもない。町田小山田の入口角地に、手を伸ばしている。


 ローザが小さく言った。


 「ナオトさん、飲みすぎないでね」


 その声は、客への気遣いではなかった。早く帰れ、という意味だった。


 尚人はグラスの下の紙ナプキンを、指先で押さえた。濡れた水滴が紙に染みている。尚人はそれを軽く折り、上着の内ポケットへ入れた。


 「勘定を」


 ローザは頷き、伝票を書いた。ボールペンの先が紙をこする音がする。金額は普通の客より少し安かった。ローザの小さな抵抗かもしれなかった。


 尚人は札を置き、釣りは受け取らなかった。


 「また来る」


 ローザは笑顔を作った。


 「待ってます」


 だが、その目は笑っていなかった。むしろ、来てほしくない目だった。来れば尚人も危ない。自分も危ない。そう分かっている目である。


 尚人は店を出た。

前編では、成城の静けさから五反田の夜へ場面を移した。尚人は、自分のビルの中で黒岩辰夫という男の名を聞く。黒岩は女たちの出勤や給料に口を出し、店の裏で力を持っていた。さらに、事務所の扉の向こうから「町田は、角だけでいい」という言葉が漏れる。杉山社長を追い込んだ土地の線と、ローザたちを縛る夜の線が、ここで初めて同じ方向へつながり始める。

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