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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第2話(後編)――「成城への夜道」

秋谷の屋敷を歩いた尚人は、啓子がこの家の記憶を深く知っていることを知る。帰る時間が近づくが、尚人は啓子を引き止め、夕食に誘う。触れたい気持ちはある。だが、今日踏み込みすぎれば、啓子との関係は浅いものになる。夕暮れの座敷、成城へ向かう夜道、門前で重ねた手。後編では、尚人が初めて「待つこと」を選ぶ。

 夕方が近づくころ、澄江が控えめに声をかけた。


 「旦那様。啓子様のお帰りは、いかがなさいますか」


 啓子はその言葉で、ふと現実に戻ったような顔をした。


 「もう、こんな時間でしたのね。長くお邪魔してしまいました」


 「こちらこそ、引き止めてしまいました」


 尚人がそう言うと、啓子は少し困ったように笑った。


 「そうおっしゃるなら、私も帰りやすくなります」


 「本当は、まだ帰ってほしくありません」


 啓子の笑みが、その場で止まった。


 廊下の奥で澄江が目を伏せる。新三は庭の方で、聞こえなかったふりをして竹箒を持ち直した。


 尚人は澄江へ向き直った。


 「夕食は、用意できるか」


 「はい。啓子様の分も、すぐ整えられます」


 啓子が慌てて首を振った。


 「いえ、そこまでしていただくわけには」


 尚人は啓子を見た。


 「今日は、土地の話だけで帰すには惜しい日です。夕食だけでも付き合ってください」


 啓子は、はっきりと困った顔になった。


 「早乙女さんは、本当に人を困らせる言い方をなさいますね」


 「困らせたいわけではありません」


 「では、何のおつもりですか」


 尚人は啓子をまっすぐ見た。


 「啓子さんと、もう少し話していたいだけです」


 座敷へ向かう廊下の空気が、一瞬だけ止まったように感じられた。


 啓子は言葉を返さなかった。やがて、小さく息を吐いた。


 「では、夕食だけ」


 「ありがとうございます」


 「本当に、夕食だけです」


 「分かっています」


 尚人はそう答えた。


 だが、分かっていると言いながら、自分の胸の中では何かが静かに熱を持っていた。啓子を抱きたいという欲がないわけではない。むしろ、ある。薄藤色の服の下にある女の体も、近づいたときの香りも、尚人の若い身体は正直に受け取っている。


 けれど、それよりも強いものがあった。


 この女を急がせてはいけない。


 尚人は、そう思った。


 ◇ ◇ ◇


 夕食は、座敷に小さく整えられた。


 昼よりも品数は控えめだったが、澄江の手は丁寧だった。焼いた鰆、菜の花のおひたし、里芋の煮物、浅く漬けた胡瓜、白い飯。酒は小さな徳利に1本だけ添えられている。


 障子の外では、夕暮れが庭へ降りていた。池の水は昼より暗く、黒松の影が長く伸びている。遠くの海から湿った風が来て、畳の匂いをゆっくり動かした。


 尚人が徳利を持つと、啓子は盃を少し差し出した。


 「少しだけ」


 「少しだけ」


 尚人は同じ言葉を返し、酒を注いだ。透明な液が盃の底で揺れ、啓子の指に小さな光を返す。


 啓子も尚人に注いだ。手つきは落ち着いているが、昼の茶よりも少しだけ距離が近い。尚人は盃を受けながら、指先が触れないようにした。触れたいと思ったから、触れなかった。


 啓子はそれに気づいた。


 「早乙女さんは、いつもそうやって我慢なさるのですか」


 尚人は盃を口に運ぶ手を止めた。


 「何をですか」


 「触れたいと思った時に、触れないことです」


 尚人は返事に詰まった。


 啓子は顔を赤くしたわけではなかった。声も乱れていない。ただ、きちんと見ている。午前中に公図の線を見たのと同じ目で、尚人の手の動きを見ていた。


 尚人は盃を置いた。


 「相手によります」


 「私は、触れてはいけない相手ですか」


 夕暮れの座敷で、啓子の顔は昼よりもやわらかく見えた。だが、その問いは軽くない。からかいではなく、線を確かめる言葉だった。


 尚人は静かに答えた。


 「触れたい相手です」


 啓子の指が、盃の縁で少しだけ止まった。


 「でも、今日ではないと思っています」


 啓子は目を伏せた。


 沈黙があった。酒の香りが薄く立ち、庭の風が障子を撫でる。遠くで新三が戸締まりを始めたらしく、木の戸が低く鳴った。


 やがて啓子は、小さな声で言った。


 「それを聞いて、安心しました」


 「残念でもありますか」


 尚人が言うと、啓子は驚いたように目を上げた。それから、少しだけ笑った。


 「少しだけ」


 その言葉は、盃の酒よりも強く、尚人の胸に入った。


 それ以上、2人は踏み込まなかった。


 夕食の間、話は屋敷のことへ戻った。池の水のこと、蔵の帳面のこと、台所の勝手口のこと。啓子は昔のことを話し、尚人はそれを聞いた。時々、澄江が料理を運び、新三が廊下の明かりを整えた。屋敷は昼とは違う顔になり、客を泊めるでもなく、家の者だけが夜へ移る支度をしていた。


 啓子は、その空気を何度も目でたしかめていた。


 この家はまだ生きている。


 そう言葉にしなくても、彼女の表情がそう言っていた。


 ◇ ◇ ◇


 午後8時を過ぎて、尚人は自分でハンドルを握った。


 啓子を成城まで送るためである。運転手を使うこともできたが、今日はそうしたくなかった。啓子も、最初は遠慮したものの、最後には何も言わず助手席に座った。


 秋谷の門を出ると、夜の道に海の匂いが流れていた。ヘッドライトが路面を白く照らし、海沿いの暗がりが窓の外を過ぎていく。遠くで波の音がした。はっきり聞こえるほどではない。ただ、闇の奥に大きな水があることだけが分かる音だった。


 車内は静かだった。


 啓子は窓の外を見ている。横顔がフロントガラスに薄く映り、街灯が通るたびに頬の線が浮かんでは消えた。薄藤色の服は夜の中で淡く沈み、白い上着だけがぼんやり見える。


 尚人は運転に集中していた。集中しなければ、横にいる女の気配に引き寄せられそうだった。


 逗子を抜け、横浜方面へ向かうころ、啓子がぽつりと言った。


 「今日は、帰りたくないと思ってしまいました」


 尚人の手が、ハンドルの上でわずかに強くなった。


 啓子は続けた。


 「秋谷の家に、あんなふうに長くいたのは久しぶりです。懐かしいだけなら、つらくなると思っていました。でも、今日は違いました。家が前へ進んでいるように見えました」


 「澄江と新三のおかげです」


 「それだけではありません」


 啓子は尚人を見た。


 「早乙女さんが、前の家を消そうとしていないからです」


 尚人はすぐに返事をしなかった。


 車は夜の道を滑るように進む。対向車のライトが一瞬、啓子の目を照らした。そこには、寂しさと安堵が同じだけあった。


 「私は、古いものを残したいわけではありません」


 啓子は言った。


 「けれど、なかったことにされるのは寂しいのです。人も、家も」


 尚人はゆっくり息を吐いた。


 「私は、啓子さんが覚えているものを消したくありません」


 啓子は黙っていた。


 「だから、また秋谷へ来てください。客としてではなく、この家を見てくれる人として」


 啓子の視線が、前方の夜道へ戻った。


 「それは、仕事ですか」


 「仕事にしてもいい。仕事でなくてもいい」


 尚人は、そこで少しだけ声を低くした。


 「私は、あなたに来てほしい」


 車内に、言葉の余韻が残った。


 啓子は返事をしなかった。けれど、その沈黙は拒絶ではない。午前中、公図を見つめていた時のように、彼女は言葉の重さを測っていた。


 やがて、成城の住宅街へ入った。


 道は静かで、街灯の光が生垣を淡く照らしている。家々の窓には明かりがあり、夜の生活がそれぞれの内側に閉じていた。啓子の家の前で車を止めると、門の奥に玄関灯が見えた。


 尚人はエンジンを切らなかった。


 啓子はシートベルトを外し、鞄を膝の上で整えた。すぐに降りてもよかった。だが、扉に手をかける前に、彼女はしばらく動かなかった。


 「早乙女さん」


 「はい」


 「次に秋谷へ伺う時は、客としてではなく、この家を見る者として参ります」


 尚人は啓子を見た。


 「では、私はその日を待ちます」


 啓子は少しだけ微笑んだ。


 そして、手袋を外した。白い指が夜の車内に現れ、尚人の手の上へ静かに重ねられる。温かい手だった。ほんの一瞬ではない。けれど、長すぎもしない。指先が、尚人の手の甲に確かめるように触れた。


 「今日は、ありがとうございました」


 「こちらこそ」


 尚人は握り返さなかった。握れば、きっと離したくなくなる。


 啓子はそれを分かっているように、手を引いた。扉を開けると、外の夜気が車内へ入ってきた。彼女は降り、門の前で一度だけ頭を下げた。


 尚人は車内から見送った。


 啓子は振り返らずに門の中へ入っていく。薄藤色の背中が玄関灯の下で一度だけ明るくなり、それから家の奥へ消えた。


 尚人はしばらく、ハンドルに手を置いたまま動かなかった。


 啓子は、抱けば手に入る女ではなかった。


 秋谷の屋敷と同じである。鍵を開けるには、まずその家が歩んできた時間を知らなければならない。尚人は成城の門の奥に消えた女の気配を思いながら、自分の若い身体に残る熱を、ゆっくり押し戻した。


 今夜は、ここまででよい。


 だが、次に会う時は違う。


 待つだけではなく、自分の方から一歩踏み込む。


 その決意だけを胸の底に置き、尚人は夜の成城から車を出した。

後編では、啓子をすぐ男女の関係へ進めず、夕食と夜道の会話で距離を深めた。尚人は啓子に触れたいと思いながらも、今日ではないと判断する。啓子もまた、その抑制に安心し、同時に少しだけ残念だと打ち明ける。成城の門前で手を重ねるだけで止めたことで、2人の関係は浅い情事ではなく、次に踏み込む余地を残した関係として残る。

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