第2話(後編)――「成城への夜道」
秋谷の屋敷を歩いた尚人は、啓子がこの家の記憶を深く知っていることを知る。帰る時間が近づくが、尚人は啓子を引き止め、夕食に誘う。触れたい気持ちはある。だが、今日踏み込みすぎれば、啓子との関係は浅いものになる。夕暮れの座敷、成城へ向かう夜道、門前で重ねた手。後編では、尚人が初めて「待つこと」を選ぶ。
夕方が近づくころ、澄江が控えめに声をかけた。
「旦那様。啓子様のお帰りは、いかがなさいますか」
啓子はその言葉で、ふと現実に戻ったような顔をした。
「もう、こんな時間でしたのね。長くお邪魔してしまいました」
「こちらこそ、引き止めてしまいました」
尚人がそう言うと、啓子は少し困ったように笑った。
「そうおっしゃるなら、私も帰りやすくなります」
「本当は、まだ帰ってほしくありません」
啓子の笑みが、その場で止まった。
廊下の奥で澄江が目を伏せる。新三は庭の方で、聞こえなかったふりをして竹箒を持ち直した。
尚人は澄江へ向き直った。
「夕食は、用意できるか」
「はい。啓子様の分も、すぐ整えられます」
啓子が慌てて首を振った。
「いえ、そこまでしていただくわけには」
尚人は啓子を見た。
「今日は、土地の話だけで帰すには惜しい日です。夕食だけでも付き合ってください」
啓子は、はっきりと困った顔になった。
「早乙女さんは、本当に人を困らせる言い方をなさいますね」
「困らせたいわけではありません」
「では、何のおつもりですか」
尚人は啓子をまっすぐ見た。
「啓子さんと、もう少し話していたいだけです」
座敷へ向かう廊下の空気が、一瞬だけ止まったように感じられた。
啓子は言葉を返さなかった。やがて、小さく息を吐いた。
「では、夕食だけ」
「ありがとうございます」
「本当に、夕食だけです」
「分かっています」
尚人はそう答えた。
だが、分かっていると言いながら、自分の胸の中では何かが静かに熱を持っていた。啓子を抱きたいという欲がないわけではない。むしろ、ある。薄藤色の服の下にある女の体も、近づいたときの香りも、尚人の若い身体は正直に受け取っている。
けれど、それよりも強いものがあった。
この女を急がせてはいけない。
尚人は、そう思った。
◇ ◇ ◇
夕食は、座敷に小さく整えられた。
昼よりも品数は控えめだったが、澄江の手は丁寧だった。焼いた鰆、菜の花のおひたし、里芋の煮物、浅く漬けた胡瓜、白い飯。酒は小さな徳利に1本だけ添えられている。
障子の外では、夕暮れが庭へ降りていた。池の水は昼より暗く、黒松の影が長く伸びている。遠くの海から湿った風が来て、畳の匂いをゆっくり動かした。
尚人が徳利を持つと、啓子は盃を少し差し出した。
「少しだけ」
「少しだけ」
尚人は同じ言葉を返し、酒を注いだ。透明な液が盃の底で揺れ、啓子の指に小さな光を返す。
啓子も尚人に注いだ。手つきは落ち着いているが、昼の茶よりも少しだけ距離が近い。尚人は盃を受けながら、指先が触れないようにした。触れたいと思ったから、触れなかった。
啓子はそれに気づいた。
「早乙女さんは、いつもそうやって我慢なさるのですか」
尚人は盃を口に運ぶ手を止めた。
「何をですか」
「触れたいと思った時に、触れないことです」
尚人は返事に詰まった。
啓子は顔を赤くしたわけではなかった。声も乱れていない。ただ、きちんと見ている。午前中に公図の線を見たのと同じ目で、尚人の手の動きを見ていた。
尚人は盃を置いた。
「相手によります」
「私は、触れてはいけない相手ですか」
夕暮れの座敷で、啓子の顔は昼よりもやわらかく見えた。だが、その問いは軽くない。からかいではなく、線を確かめる言葉だった。
尚人は静かに答えた。
「触れたい相手です」
啓子の指が、盃の縁で少しだけ止まった。
「でも、今日ではないと思っています」
啓子は目を伏せた。
沈黙があった。酒の香りが薄く立ち、庭の風が障子を撫でる。遠くで新三が戸締まりを始めたらしく、木の戸が低く鳴った。
やがて啓子は、小さな声で言った。
「それを聞いて、安心しました」
「残念でもありますか」
尚人が言うと、啓子は驚いたように目を上げた。それから、少しだけ笑った。
「少しだけ」
その言葉は、盃の酒よりも強く、尚人の胸に入った。
それ以上、2人は踏み込まなかった。
夕食の間、話は屋敷のことへ戻った。池の水のこと、蔵の帳面のこと、台所の勝手口のこと。啓子は昔のことを話し、尚人はそれを聞いた。時々、澄江が料理を運び、新三が廊下の明かりを整えた。屋敷は昼とは違う顔になり、客を泊めるでもなく、家の者だけが夜へ移る支度をしていた。
啓子は、その空気を何度も目でたしかめていた。
この家はまだ生きている。
そう言葉にしなくても、彼女の表情がそう言っていた。
◇ ◇ ◇
午後8時を過ぎて、尚人は自分でハンドルを握った。
啓子を成城まで送るためである。運転手を使うこともできたが、今日はそうしたくなかった。啓子も、最初は遠慮したものの、最後には何も言わず助手席に座った。
秋谷の門を出ると、夜の道に海の匂いが流れていた。ヘッドライトが路面を白く照らし、海沿いの暗がりが窓の外を過ぎていく。遠くで波の音がした。はっきり聞こえるほどではない。ただ、闇の奥に大きな水があることだけが分かる音だった。
車内は静かだった。
啓子は窓の外を見ている。横顔がフロントガラスに薄く映り、街灯が通るたびに頬の線が浮かんでは消えた。薄藤色の服は夜の中で淡く沈み、白い上着だけがぼんやり見える。
尚人は運転に集中していた。集中しなければ、横にいる女の気配に引き寄せられそうだった。
逗子を抜け、横浜方面へ向かうころ、啓子がぽつりと言った。
「今日は、帰りたくないと思ってしまいました」
尚人の手が、ハンドルの上でわずかに強くなった。
啓子は続けた。
「秋谷の家に、あんなふうに長くいたのは久しぶりです。懐かしいだけなら、つらくなると思っていました。でも、今日は違いました。家が前へ進んでいるように見えました」
「澄江と新三のおかげです」
「それだけではありません」
啓子は尚人を見た。
「早乙女さんが、前の家を消そうとしていないからです」
尚人はすぐに返事をしなかった。
車は夜の道を滑るように進む。対向車のライトが一瞬、啓子の目を照らした。そこには、寂しさと安堵が同じだけあった。
「私は、古いものを残したいわけではありません」
啓子は言った。
「けれど、なかったことにされるのは寂しいのです。人も、家も」
尚人はゆっくり息を吐いた。
「私は、啓子さんが覚えているものを消したくありません」
啓子は黙っていた。
「だから、また秋谷へ来てください。客としてではなく、この家を見てくれる人として」
啓子の視線が、前方の夜道へ戻った。
「それは、仕事ですか」
「仕事にしてもいい。仕事でなくてもいい」
尚人は、そこで少しだけ声を低くした。
「私は、あなたに来てほしい」
車内に、言葉の余韻が残った。
啓子は返事をしなかった。けれど、その沈黙は拒絶ではない。午前中、公図を見つめていた時のように、彼女は言葉の重さを測っていた。
やがて、成城の住宅街へ入った。
道は静かで、街灯の光が生垣を淡く照らしている。家々の窓には明かりがあり、夜の生活がそれぞれの内側に閉じていた。啓子の家の前で車を止めると、門の奥に玄関灯が見えた。
尚人はエンジンを切らなかった。
啓子はシートベルトを外し、鞄を膝の上で整えた。すぐに降りてもよかった。だが、扉に手をかける前に、彼女はしばらく動かなかった。
「早乙女さん」
「はい」
「次に秋谷へ伺う時は、客としてではなく、この家を見る者として参ります」
尚人は啓子を見た。
「では、私はその日を待ちます」
啓子は少しだけ微笑んだ。
そして、手袋を外した。白い指が夜の車内に現れ、尚人の手の上へ静かに重ねられる。温かい手だった。ほんの一瞬ではない。けれど、長すぎもしない。指先が、尚人の手の甲に確かめるように触れた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
尚人は握り返さなかった。握れば、きっと離したくなくなる。
啓子はそれを分かっているように、手を引いた。扉を開けると、外の夜気が車内へ入ってきた。彼女は降り、門の前で一度だけ頭を下げた。
尚人は車内から見送った。
啓子は振り返らずに門の中へ入っていく。薄藤色の背中が玄関灯の下で一度だけ明るくなり、それから家の奥へ消えた。
尚人はしばらく、ハンドルに手を置いたまま動かなかった。
啓子は、抱けば手に入る女ではなかった。
秋谷の屋敷と同じである。鍵を開けるには、まずその家が歩んできた時間を知らなければならない。尚人は成城の門の奥に消えた女の気配を思いながら、自分の若い身体に残る熱を、ゆっくり押し戻した。
今夜は、ここまででよい。
だが、次に会う時は違う。
待つだけではなく、自分の方から一歩踏み込む。
その決意だけを胸の底に置き、尚人は夜の成城から車を出した。
後編では、啓子をすぐ男女の関係へ進めず、夕食と夜道の会話で距離を深めた。尚人は啓子に触れたいと思いながらも、今日ではないと判断する。啓子もまた、その抑制に安心し、同時に少しだけ残念だと打ち明ける。成城の門前で手を重ねるだけで止めたことで、2人の関係は浅い情事ではなく、次に踏み込む余地を残した関係として残る。




