第2話(前編)――「秋谷の記憶」
町田小山田の公図を前に、啓子は尚人に土地を守る者の目を教えた。昼食を終えれば、啓子は成城へ帰るはずだった。だが尚人は、そのまま帰す気になれない。公図の線だけではなく、秋谷の屋敷にも、啓子だけが知っている線がある。座敷、控えの間、台所、蔵、雨の日の水の流れ。尚人は啓子に屋敷を見てほしいと頼む。2人は午後の光の中で、前の家と新しい持ち主のあいだに残る記憶を、ひとつずつ歩いていく。
(1986年4月18日金曜日午後1時30分、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)
昼食の膳が下げられると、座敷には茶の香りだけが残った。
庭の黒松は午後の光を受け、枝先をわずかに揺らしている。池の水面には空の明るさが落ち、鯉の影がゆっくり動いた。障子を半分開けていたため、畳の上には春の終わりの風が薄く入り、鯛の焼き物と浅蜊の味噌汁の匂いも、少しずつ遠のいていった。
啓子は湯呑みを両手で包み、静かに庭を見ていた。薄藤色のワンピースの袖口が白い手首を縁取り、真珠の耳飾りが光を拾って、小さく揺れている。午前中、公図を前にしていた時の鋭さは、いったん奥へ収まっていた。けれど、ただの客の顔ではなかった。
この屋敷を知っている者の顔だった。
尚人は、その横顔を見ながら言葉を探していた。
成城まで帰すのは簡単である。運転手を呼んでもいい。自分で送ってもいい。礼を言い、また相談に乗ってほしいと頼めば、それで筋は通る。
だが、それでは惜しい気がした。
町田小山田の公図を見た啓子は、尚人が気づいていながら、まだ使える形にできていなかった線を指先で示した。土地の細い筆、通行、掘削、水道、排水。啓子は、男が見落とす狭い場所から家が崩れることを知っていた。
ならば、この秋谷の屋敷にも、啓子だけが知っている狭い場所があるはずだった。
雨の日に水が溜まる場所。風の抜ける廊下。閉めにくい雨戸。客を通す座敷と、家の者だけが使う裏の動線。図面には残らない、家の癖である。
尚人は湯呑みを置いた。
「啓子さん」
啓子は庭から目を戻した。
「はい」
「今日は、もうお帰りになりますか」
啓子は少しだけ笑った。
「そのつもりでおりました。長居をしては、かえってご迷惑でしょう」
「迷惑ではありません。むしろ、もう少しいていただきたい」
啓子の指が、湯呑みの縁で止まった。言葉の調子を聞き分けるように、尚人を見ている。
尚人は続けた。
「よろしければ、屋敷を少し見ていってください。この家のことを、私はまだよく知りません。啓子さんが覚えていることを、教えてほしいのです」
「私が、ですか」
「はい」
「この家は、もう早乙女さんの家です。前の持ち主側の者が、あまり口を出すのはよくありません」
「前の持ち主側だからこそ、分かることがあります」
尚人は、そこで少し声を落とした。
「私は金でこの家を買いました。でも、金で買えるのは土地と建物だけです。この家が何を覚えているかまでは、まだ分かっていません」
啓子は黙った。
庭の奥で、新三が竹箒を立てかける音がした。澄江が廊下の向こうで膳を片づけている。皿と盆が触れる音は遠慮がちで、座敷まで来るころには、やわらかくほどけていた。
啓子は湯呑みを置いた。
「早乙女さんは、時々ずるい言い方をなさいますね」
「ずるいですか」
「ええ。断りにくい言い方です」
「それなら、お願いの仕方としては間違っていませんね」
尚人が真面目な顔で答えると、啓子は思わず小さく笑った。その笑いに、午前中の張り詰めた空気が少しほどけた。
「少しだけなら」
啓子はそう言った。
「この家を歩くのは、久しぶりですから」
◇ ◇ ◇
最初に回ったのは、座敷の奥にある小さな控えの間だった。
3間続きの広い座敷とは違い、そこは光が少し弱い。畳は澄江の手で拭かれていたが、柱の低い位置には、古い傷がいくつも残っていた。障子の桟も少し歪み、長く使われた家の指跡のようなものが見える。
啓子は入口で立ち止まり、柱の傷へ指を伸ばした。
「ここは、客を迎える前に女たちが控える場所でした。お膳の順番を整えたり、お酒の替えを待ったり。座敷では男の方たちが大きな話をしていましたけれど、本当はこの部屋のほうが忙しかったんです」
「座敷で話が動き、こちらで家が動いていたのですね」
「そうです。お客様の顔色、義父の機嫌、主人が酔いすぎていないか。そういうことを見て、お膳を出す順番まで変えていました。座敷にいる人は気づきません。でも、出し方をひとつ間違えるだけで、場の空気が変わることもありました」
尚人は狭い控えの間を見た。
大きな床の間も、立派な掛け軸もない。だが、家が実際に動いていたのはここだった。華やかな座敷ではなく、控えの間。朝の台所や、裏の廊下。啓子が午前に言った「家を守る側の目」は、こういう場所で育ったものだった。
「啓子さんは、ここに立っていたんですか」
「若いころは、よく」
啓子は少し懐かしそうに微笑んだ。
「嫁いだばかりのころは、何をすればいいのか分からなくて、この柱の前で何度も叱られました。お酒を出すのが早いとか、遅いとか。お椀の蓋を置く向きが違うとか。今思えば細かいことですけれど、その時は必死でした」
「怖かったですか」
「ええ。怖かったです」
啓子は隠さずに言った。
「でも、後で分かりました。細かいことを見ている人は、家を壊しに来る人も見抜けるようになります。酒の席で笑っている人が、本当に笑っているのか。それとも、どこかの土地や借地の話を切り出す隙を探しているのか。そういうことも、少しずつ分かるようになりました」
尚人は啓子の横顔を見た。
薄藤色の服を着た美しい女が、若い嫁としてこの柱の前に立ち、膳の順番を覚え、男たちの顔色を読み、家を守る目を少しずつ身につけていった。午前中、公図の線を一目で見抜いた力は、生まれつきのものではない。こういう場所で、何年もかけて育ったものだった。
「私は、啓子さんのことを何も知らなかったようです」
「そんなに知っていただくほどの者ではありません」
「それは違います」
尚人ははっきり言った。
啓子は少し驚いたように見た。
「私は、地図と数字ばかり見ていました。どの道が使いやすいか、どの土地が買われやすいか、どこに金が集まりそうか。そういうことには少し自信があります。けれど、人がどこで欲に負けるか、どこを見落とすか、家がどこから削られるかは、啓子さんのほうがずっとよくご存じです」
啓子は、すぐに返事をしなかった。
外の風が障子をわずかに押し、紙が小さく鳴った。控えの間には、畳の匂いと、啓子の淡い香りが混じっていた。
「早乙女さんは、私を買いかぶっています」
「そうかもしれません」
尚人は少し笑った。
「でも、今日は買いかぶらせてください」
啓子は困ったように目を伏せた。怒ってはいない。むしろ、その困り方には、少しだけ嬉しさが混じっていた。
◇ ◇ ◇
次に2人は、台所へ回った。
澄江は突然の来訪に少し慌てたが、啓子が丁寧に頭を下げると、すぐに表情を和らげた。台所にはまだ昼の名残がある。鯛を焼いた香ばしさ、出汁の匂い、米を蒸らした甘い湯気が、土間の冷えた空気に薄く残っていた。
啓子はかまどの跡に目を向けた。
「昔は、ここがもっと暗かったんです。夏は暑くて、冬は足元から冷えました。今はずいぶん使いやすくなっていますね」
澄江は少し誇らしそうに言った。
「旦那様が、必要なところは直してよいとおっしゃってくださいましたので」
「それは良いことです。家は飾るところより、火を使うところから傷みます」
啓子は、流しの下、勝手口の段差、土間の水はけを順に見た。座敷を見る時よりも目が細かい。蛇口の位置、棚の高さ、風の抜け方まで確かめる。
「澄江さん。この勝手口は、雨の日に少し水が入りませんか」
澄江は目を丸くした。
「はい。昨日の雨で、ほんの少しだけ。まだ旦那様には申し上げておりませんでした」
「ここは昔からそうなんです。風向きによって、戸の下から水が入ります。敷居の外に、小さく水の逃げ道を作った方がよろしいと思います」
尚人は横で聞いていた。
家の記憶とは、こういうものなのだと思った。登記簿にも、売買契約書にも出てこない。だが、住む者には必要なことだ。雨の日に水が入る場所を知っている女。台所で働く人の足元を気にする女。啓子は秋谷の屋敷を、座敷の美しさだけで見ていなかった。
澄江が深く頭を下げた。
「ありがとうございます。明日にでも新三に見てもらいます」
「急がなくても大丈夫です。ただ、大雨の前には直しておいた方がいいと思います」
啓子の声は穏やかだった。指図ではなく、知っていることを置いていく言い方である。
尚人はその姿を見ながら、胸の奥に妙な静けさを感じていた。
ゆかりなら、ここで金の匂いをかぎ分ける。
真理子なら、尚人の仕事を手伝う知恵を差し出す。
啓子は違う。
家が長く生きるための、目立たない場所を見ている。
女として近づきたい気持ちはある。けれど、それだけで手を伸ばすには、この人は深すぎる。尚人は初めて、そう思った。
◇ ◇ ◇
蔵へ向かうころには、午後の光が少し傾いていた。
庭の飛び石を渡ると、苔の湿った匂いが立つ。蔵の白壁はところどころ古び、扉の金具には黒い錆が浮いていた。新三が鍵を持ってきて、尚人へ差し出す。鍵は重く、掌に冷たい。
尚人が鍵を開けると、扉は鈍い音を立てた。中から、乾いた紙と古い木箱の匂いが押し出される。薄暗い蔵の中には、使われなくなった長持ち、古い火鉢、帳面を入れた箱、欠けた皿の包みが並んでいた。
啓子は一歩入ると、息を止めるようにして奥を見た。
「ここは、まだ残っているんですね」
「中は、ほとんど触っていません」
「それでいいと思います。急に片づけると、何が大事だったのか分からなくなります」
啓子は木箱のひとつに近づいた。蓋には墨で古い文字が書かれている。海運関係の帳面らしい。啓子は触れかけて、途中で手を止めた。
「開けてもいいですか」
「もちろんです」
尚人が答えると、啓子は慎重に蓋を持ち上げた。中には、紐でくくられた帳面が何冊も入っていた。紙は黄ばみ、端が少し波打っている。古い墨の匂いが、蔵の空気へ混じった。
「義父が使っていたものです。船の荷、港の名、支払いの控え。私は詳しくは分かりませんでしたけれど、義父はこの帳面をとても大事にしていました」
尚人は帳面の表紙を見た。
そこには、かつてこの家が海とつながっていた時代の名残があった。いま尚人が見ているのは、不動産の価値や土地の線だけではない。秋谷の屋敷が、金と船と人の出入りの上に建っていた記憶である。
「処分しますか」
尚人が聞くと、啓子はゆっくり首を横に振った。
「いいえ。残してください。役に立つかどうかではなく、この家が何であったかを忘れないために」
「分かりました」
尚人はすぐに答えた。
啓子は帳面をそっと戻し、蓋を閉めた。その手つきは、亡くなった人の肩へ布をかけるように静かだった。
蔵を出ると、風が明るかった。外の空気に触れた瞬間、啓子は少し目を細めた。蔵の暗さから戻った顔は、どこか遠いところを歩いてきたようにも見えた。
尚人はその横で、何か言わなければならない気がした。
「啓子さん」
「はい」
「この家を、私が持ってよかったと思いますか」
啓子はすぐには答えなかった。
庭の向こうで、池の水が光っている。黒松の枝の間から、春の雲が見えた。遠くから海鳥の声がしたような気がした。
「まだ、分かりません」
啓子は正直に言った。
「でも、今日の早乙女さんを見ていると、悪い方へは行かない気がします」
「まだ信用されてはいませんね」
「信用は、今日1日で決めるものではありません」
その言葉は厳しい。だが、拒絶ではなかった。
尚人は小さく頷いた。
「では、時間をください」
啓子は尚人を見た。
「家のために、ですか」
「家のためにも」
尚人は、そこだけ少し間を置いた。
「啓子さんに、信用してもらうためにも」
啓子の頬に、午後の光とは違う薄い色が差した。彼女は視線を池の方へ戻したが、返事を避けたわけではない。その沈黙そのものが、返事のようだった。
前編では、啓子が秋谷の屋敷に残る記憶をたどる。座敷の奥の控えの間、台所の勝手口、蔵の帳面。どれも売買契約書には出てこないが、家を長く生かすためには欠かせない場所である。尚人は、啓子がただの美しい奥様ではなく、家の細部を見て、人の欲を読んできた女だと知る。2人の距離は近づくが、まだ急がない。そこに、この回の大切な呼吸がある。




