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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第1話(後編)――「残す道、売る土地」

町田小山田の入口角地は、見た目には1つの土地に見えていた。だが、啓子は公図の細い線から、本体部分と道路へ出る部分が分かれていることを見抜く。後編では、尚人が啓子の助言を受け、怒りを表に出さず、ただ商売として地面師たちを誘い込む筋道を固めていく。

 啓子の言い方は上品で、声も穏やかである。だが、やっていることは鋭い。相手が自分で確かめるかどうか。それだけを静かに待つ考えだった。


 「啓子さんの方が、私よりよほど怖い」


 尚人がそう言うと、啓子は少しだけ困ったように笑った。


 「私は怖いことを申し上げているつもりはありません。家を守る時は、いつもそうやって考えるものです」


 「私は、攻めることばかり考えていたようです」


 「攻める方は、広い方を見ます。守る方は、狭いところを見るのです。門の幅、道の細さ、判の位置。家は、広い座敷より、そういう狭いところから崩れます」


 その一言は、尚人の中に残った。


 広い座敷より、狭いところから崩れる。


 杉山社長もそうだったのだろう。会社も工場も家も持っていた。だが、崩されたのは入口だった。金の入口、登記の入口、判の入口。そこを押さえられ、急かされ、借金を背負わされ、最後に逃げ場を失った。ならば、今度は相手の入口を押さえればいい。


 「杉山さんのことを、少し聞きました」


 啓子が言った。


 尚人は目を細めた。


 「誰からですか」


 「杉浦さんから、ほんの少しだけ。詳しい事情までは聞いておりません。ただ、追い込まれた方がいたと」


 尚人はしばらく黙った。杉浦が余計なことを喋ったとは思わない。おそらく、啓子のビル管理の話の中で、似たような危ない業者の話が出たのだろう。


 「杉山社長は、土地話で追い込まれました。借金を背負わされ、工場と家を取られかけた」


 「そうでしたか」


 啓子の顔から笑みが消えた。


 「なら、なおさらです。同じことをする人たちは、同じように急ぎます。自分の手口が通じた経験のある人ほど、次も通じると思います」


 「同じことを、もう1度やらせる」


 尚人は低く言った。


 「はい。けれど、今度は相手に判を急がせるのではなく、相手が自分で急ぐようにしておくのです」


 啓子はそう言って、公図から手を離した。


 「早乙女さんが、強く誘う必要はありません。向こうが欲しがっている顔を見せた時だけ、少し道を開ければいいのです。ただし、その道がどこへ続いているかは、こちらだけが知っている」


 尚人は、啓子を見た。


 自分はこの女を、成城の美しい奥様として見ていた。資産家の妻であり、秋谷の前所有者の妻であり、少し甘やかな縁を持つ相手として見ていた。だが、今は違う。啓子は静かな戦場を知っている。家の帳面、境界、私道の持分、借地人の言葉、管理会社のごまかし。そういう地味なものの上で、何度も小さな戦いをしてきた女だった。


 尚人は未来から来た。だが、啓子は過去から積み上がった家の記憶を持っている。


 それは、未来知識とは別の強さだった。


 「1つ、お願いしてもいいですか」


 尚人が言った。


 「何でしょう」


 「この公図を見ながら、もう少し教えてください。土地を守る側の見方を」


 啓子は少し驚いたように目を開いた。そのあと、ゆっくり微笑んだ。


 「私でよろしければ」


 それから2人は、机の上の公図へ向き直った。


 啓子は、まず道を見た。どこから人が入り、どこで車が止まり、どこへ水が落ちるかを見た。次に境界を見た。道路へ接する細い筆と、入口の角地に見える本体部分。その2つが、紙の上では別の土地として分かれている。


 「ここは、触らない方がよろしいと思います」


 啓子は静かに言った。


 尚人は顔を上げた。


 「触らない」


 「ええ。きれいに直したり、境を強く示したりすれば、相手はかえって気づきます。なぜそこだけ急に気にするのか。なぜ今になってはっきりさせるのか。そう考える人も出てきます」


 尚人は公図を見た。


 「つまり、今のままにしておく」


 「はい。2つの土地は、何もしないでそのままにしておくのが最もよいと思います。売る時も、こちらから余計な説明はしない。売る地番だけを、書面の通りに示す。それで相手が調べれば、この話は流れます。けれど、調べずに買うなら、それは相手の責任です」


 尚人は黙っていた。


 啓子の言っていることは、派手な策ではなかった。むしろ、何もしないという策である。だが、その方がずっと強い。地面師たちは、急いでいる。欲しいものだけを見る。入口の角地に見える土地を前にすれば、公図の細い線を後回しにするかもしれない。


 「手を入れれば、こちらの意図が見える」


 尚人は低く言った。


 「はい」


 啓子は頷いた。


 「土地は、動かさない方が怖いこともあります。そこに線があるのに、相手が見ない。それだけで十分なのです」


 そこへ、澄江が昼食の支度ができたと告げに来た。


 「お食事は、縁側に近い座敷へご用意しております」


 「ありがとう」


 尚人が答えると、啓子は公図から顔を上げた。


 「まあ、もうそんな時間ですか」


 「土地の話をしていると、時間が早いでしょう」


 尚人が言うと、啓子は少しだけ笑った。


 「家の話も同じです」


 昼食は、澄江が用意した鯛の焼き物、若竹煮、浅蜊の味噌汁、炊きたての飯だった。座敷の障子を半分開けると、庭の池が見える。鯛の皮は香ばしく焼け、箸を入れると白い身がほぐれた。味噌汁からは浅蜊の潮の匂いが立ち、若竹煮の筍には春の土の香りが残っていた。


 啓子は1口ごとに、澄江の料理を褒めた。


 「おいしいわ。秋谷の家で、こんなふうに食事をいただくのは久しぶりです」


 澄江は控えめに頭を下げた。


 「ありがとうございます。まだ台所の癖を覚えているところでございます」


 「台所も、喜んでいると思います」


 啓子のその言葉に、澄江は本当に嬉しそうに目を細めた。


 尚人はそのやり取りを見ながら、啓子が人の扱いも外さない女だと改めて思った。上から褒めるのではない。家の働きを分かっている者として、働く人の手を見ている。その姿勢が自然だった。


 食後、啓子はもう1度だけ洋間の机へ戻った。公図の上に、尚人のメモが増えている。私道、通行、掘削、水道、排水。どれも地味な言葉である。だが、その地味さが、相手を逃がさない。


 「早乙女さん」


 啓子は立ったまま言った。


 「この件は、怒りで進めない方がいいと思います」


 「怒っていますよ」


 尚人は隠さず答えた。


 「杉山社長は死んだ。奥さんも会社も、めちゃくちゃにされかけた」


 「それでも、怒りを表に出したら、相手は逃げます」


 啓子は静かに言った。


 「怒っている人は、顔で分かります。復讐しようとしている人も、言葉で分かります。けれど、ただ商売をしている人は、分かりにくいものです」


 尚人はその言葉を、ゆっくり受け取った。


 「私は、ただ商売をしている顔をすればいい」


 「はい。相手が欲しがる土地を、相手に見せる。売る範囲は書類で明らかにする。残すものは残す。それだけです」


 「そして、相手が勝手に急ぐ」


 「そうです」


 啓子はそこで、少しだけ寂しそうな顔をした。


 「人は、欲しいものが見えた時、自分に都合の悪い線を消してしまいます。公図に描いてあっても、見ないことにする。契約書に書いてあっても、読んだつもりになる。そういう時が最も危ないのです」


 尚人は頷いた。


 「杉山社長も、そうやってやられた」


 「なら、同じ線を、今度は相手に見せるのです。見えるところへ置いておく。それでも見ないなら、それはその人たちの責任です」


 啓子の言葉は、冷たく聞こえなかった。むしろ、きちんと線を引く者の言葉だった。


 尚人は机の上の電話へ手を伸ばした。小沼の事務所へかける。呼び出し音のあと、小沼本人が出た。


 「早乙女です。町田小山田の件で、入口周辺をもう1度確認してください。公図、地積測量図、道路台帳、水道管、排水経路、それと私道部分です」


 小沼の声が、受話器の向こうで少し鋭くなった。


 「何か気になる点がありましたか」


 「入口周辺の地番と、道路に接している筆を整理してください。公図と道路台帳で食い違いがないか見たい。現地は今のままにしておいてください」


 「分かりました。通行承諾と掘削承諾の有無も見ますか」


 「お願いします。水道と排水も含めて、権利関係を整理してください」


 「承知しました」


 電話を切ると、尚人は受話器に残った小さな熱を感じながら、啓子を見た。


 「今の言い方なら、余計なことは漏れていませんね」


 啓子は少しだけ頷いた。


 「はい。調べることだけをお伝えになったので、それでよろしいと思います」


 尚人は受話器を置き、ゆっくり息を吐いた。


 「私は、あなたを少し甘く見ていました」


 啓子は目を丸くした。


 「私を、ですか」


 「成城の美しい奥様だと思っていた」


 言ったあとで、さすがに少し直接すぎたかと思った。だが啓子は怒らなかった。むしろ、目元をやわらげた。


 「それは、半分は当たっていますわ」


 「半分ですか」


 「ええ。もう半分は、家の帳面を見てきた女です」


 尚人は笑った。


 その笑いは、単なる色気や好意から出たものではなかった。負けたと思ったのだ。少なくとも今日の公図の上では、啓子の方が1枚上だった。


 「啓子さん」


 「はい」


 「また、相談に乗ってください」


 啓子は少しだけ間を置いてから、静かに頷いた。


 「私でお役に立てるなら」


 外では、春の風が黒松を鳴らしていた。庭の池には午後の光が差し、細い波の上で白く揺れている。秋谷の屋敷は、前の持ち主の妻を迎えたことで、また別の顔を見せ始めていた。


 尚人は公図へ目を落とした。


 町田小山田の入口は、もうただの角地ではない。杉山社長を追い込んだ連中を、同じ欲で歩かせるための道になった。その道の先に穴を掘ったのは尚人ではない。もともとそこにあった線を、啓子が指先で示しただけだった。


 未来を知る男は、家を守ってきた女から、土地の怖さを教わったのである。

後編では、啓子の助言によって、尚人の復讐がはっきりした形を持つ。相手を騙すのではなく、売る土地を明確にし、残す道を残す。怒りを顔に出さず、ただ商売をしているように見せる。啓子は復讐を煽らず、家を守る者の目で尚人を支える。町田小山田の入口角地は、ここで「売る土地」と「残す道」に分かれた。

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