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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第1話(前編)――「啓子の公図」

1986年4月18日金曜日、秋谷の屋敷に榎本啓子が訪ねてくる。形見を返した縁は、ただの礼で終わらなかった。尚人は、町田小山田の入口角地をめぐる不審な話を啓子に話す。公図を見た啓子は、尚人がまだ言葉にしていなかった一点を静かに突いた。土地を見る男と、家を守ってきた女では、見ている場所が違っていた。

 (1986年4月18日金曜日午前9時30分、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)


 秋谷の朝は、春の終わりらしい明るさを帯びていた。黒松の枝先には昨夜の湿り気が少しだけ残り、池の水面は風を受けて細かく揺れている。母屋の長い廊下には、障子越しの白い光が四角く落ち、拭き上げた板の上に薄く反射していた。


 台所からは、澄江が取った出汁の匂いが流れてきた。昆布と鰹の香りである。まだ朝の名残を残す屋敷の空気に、その匂いが混じると、広すぎる家も少しだけ人の暮らす場所らしくなった。外では新三が庭先を掃いている。竹箒が砂利をなでる音が、同じ間隔で聞こえた。


 尚人は洋間の大きな机に、公図の写しと登記簿の控えを広げていた。町田小山田の谷の土地である。日曜日に現地を見て、月曜日には根岸から谷ごと押さえた。だが、それで終わりではない。ゆかりがやけに押してきた入口の角地。あれだけは、まだ腹の底に引っかかっていた。


 机の上には、小山田の地番を写した紙が何枚も並んでいる。赤鉛筆で入口付近に丸をつけ、青鉛筆で谷の奥へ続く道筋を引いた。さらに尚人は、私道らしい細い筆に小さく印をつけていた。


 見た目には1つの入口に見える。だが、紙の上では線が細かい。地面はつながって見えても、登記では別の顔をしていることがある。尚人はそのことを知っていた。


 ただ、知っていることと、使える形にすることは違う。


 「旦那様。お客様は10時でございましたね」


 廊下の向こうから澄江が顔を出した。紺の着物に白い割烹着を重ね、髪をきちんとまとめている。


 「そうだ。榎本啓子さんが来る」


 「お茶は洋間でよろしいでしょうか」


 「最初は座敷でいい。屋敷を少し見たいだろうからな。そのあと洋間へ通してくれ」


 「かしこまりました」


 澄江は頭を下げ、音を立てずに戻っていった。


 尚人は公図から目を離し、窓の外を見た。庭の池の縁で、新三が腰を折って落ち葉を取っている。あの夫婦が入ってから、屋敷は早くも変わり始めていた。戸が開き、風が入り、台所から匂いが立つ。家というものは、人の手が入るとすぐ息をし始める。


 だが、今日来る啓子は、この家にとって前の持ち主側の人間である。尚人がこの家に住み始めたことを、どう見るか。そこは少し気になった。


 尚人は机の上の紙を重ねようとして、手を止めた。小山田の公図だけは出したままにした。隠すつもりはない。むしろ、啓子の前で1度、話してみてもいいと思った。


 成城で会った時、啓子はただの奥様ではなかった。形見を前にした時の感情、賃貸ビルの話になった時の目の変わり方、その両方を尚人は覚えている。金に疎い女ではない。家と土地に囲まれて生きてきた女である。尚人が未来の値上がりを知っているなら、啓子は家を持つ人間の弱さを知っているのかもしれなかった。


 午前10時の少し前、門の外で車の止まる音がした。砂利を踏む足音が近づき、新三の低い声が応じる。やがて玄関のほうで、澄江の柔らかい声がした。


 「ようこそお越しくださいました」


 尚人は立ち上がり、洋間を出た。


 玄関には、榎本啓子が立っていた。淡い薄藤色のワンピースに、白い薄手の上着を合わせている。成城で会った時より少し軽い装いだったが、品のよさは変わらない。髪はきちんと整えられ、耳元には小さな真珠が光っていた。派手ではない。だが、玄関の古い木目と障子の光の中に立つと、その静かな美しさがかえって際立った。


 「おはようございます、早乙女さん」


 啓子は微笑んだ。


 「今日はお招きいただき、ありがとうございます」


 「こちらこそ、よく来てくださいました」


 尚人は頭を下げた。中身は62歳であるはずなのに、22歳の体はやはり正直だった。啓子を見ると、ほんの少し言葉が遅れる。


 啓子は玄関から母屋の奥へ視線を移した。廊下、座敷、庭へ抜ける光。その1つ1つを、懐かしむだけではない目で見ている。


 「ずいぶん空気が変わりましたね」


 「そう見えますか」


 「ええ。閉じた家ではなくなっています。窓を開けて、火を使って、人が歩くと、家はすぐ分かるものです」


 その言い方に、尚人は軽く驚いた。やはり、この女は家を見ている。ただの感傷ではない。家がどう生きるかを知っている目だった。


 尚人は座敷へ案内した。3間続きの畳は澄江の手で掃き清められ、床の間には古い花入れが戻されていた。庭の黒松が障子越しに影を落とし、池から来る湿った風が畳の匂いを少し動かしている。


 啓子は座敷の入口で、1度だけ足を止めた。


 「ここで、義父がよく客を迎えていました。私は結婚してから何度も来ましたけれど、この座敷は少し苦手でした。広すぎて、どこに座ればいいのか分からなくなるんです」


 「今は私も同じです」


 尚人がそう言うと、啓子は小さく笑った。


 「早乙女さんでも、そういうことをおっしゃるんですね」


 「家については、まだ素人です」


 「土地については、そうではなさそうですけれど」


 その一言は軽かった。だが、まっすぐでもあった。


 澄江が茶と菓子を運んできた。白い湯気が立ち、茶の青い香りが座敷に広がる。啓子は澄江にも丁寧に礼を言い、湯呑みを両手で受けた。その所作に、澄江の目が少しやわらいだ。働く側の人間は、客の礼儀をすぐ見る。啓子はそこを外さない。


 少し屋敷の話をしたあと、尚人は啓子を洋間へ案内した。暖炉の残る部屋である。机の上には、先ほどの小山田の公図と登記簿の控えが残っていた。啓子は椅子に座る前に、その紙へ目を落とした。


 「お仕事の途中でしたのね」


 「ええ。町田のほうの土地です」


 「町田」


 啓子は紙を覗き込むように少し身を寄せた。白い指が机の端に触れる。香水は強くない。だが、近くに来ると、石鹸と花のような淡い匂いがした。


 「小山田の谷です。古い分譲地が止まったままになっていまして、まとめて買いました」


 「まあ。あのあたりにも手を伸ばしていらっしゃるんですね」


 「ええ。ただ、入口の角地だけを妙に欲しがる筋がありまして」


 啓子の目が、そこで変わった。


 それまでの柔らかさが消えたわけではない。ただ、奥の光が静かに細くなった。茶を飲む手を止め、啓子は公図の線をゆっくり追った。


 「入口の角地だけ、ですか」


 「はい。知り合いの女が持っていて、350万円で離すという話でした。実際には、谷ごと根岸が持っていましたから、その話はおかしい」


 「その人たちは、土地が欲しいのではありませんね」


 啓子は静かに言った。


 尚人は黙った。


 「入口が欲しいのでしょう」


 部屋の空気が、少し変わった。外では新三の竹箒の音が遠くなり、池の水が風を受ける音だけが小さく残った。


 尚人は椅子へ腰を下ろした。


 「入口ですか」


 「ええ。広い土地を持つ人を困らせる時、入口だけを押さえる人がいます。逆に、入口に見える場所だけを持っていても、本当の道を持っていなければ、何もできないこともあります」


 啓子は公図へ指を伸ばした。爪は短く整えられている。その指先が、角地のように見える場所の線をなぞった。


 「ここ、1つの土地に見えますけれど、筆が分かれていませんか」


 尚人は赤鉛筆で印をつけた細い部分を見た。


 「分かれています。まだ確定ではありませんが、こちらが道路へ出る細い部分。こちらが本体です」


 「なら、そこです」


 啓子は顔を上げた。


 「男の方は、広さと角の形を先に見ます。駅からどれくらいか、車が入るか、いくらで売れるか。けれど、家を守る側は違います。出入りできるか、水を引けるか、排水をどこへ流すか、揉めた時に誰が判を押せるかを先に見ます」


 尚人は返事をしなかった。啓子の言葉は、考えれば当たり前のことばかりである。だが、その当たり前が、妙に重かった。未来を知っている尚人は、値上がりする土地を見抜ける。だが啓子は、土地で人がどこを見落とすかを知っていた。


 「その入口を欲しがる人たちは、たぶん急いでいるのでしょう」


 「ええ。急がせてきました」


 「急いでいる人は、自分が欲しいものだけを見ます。角地だ、入口だ、車が入る、これで奥の土地を動かせる。そう思うと、地番の線を丁寧に見なくなります」


 啓子はそこで、少しだけ言葉を切った。


 「早乙女さん。売るなら、売っても困らないところだけになさいませ」


 尚人は啓子を見た。


 「困らないところだけ」


 「ええ。相手が勝手に入口だと思っている土地を、書類の通りに売るだけです。ただし、道路へ出る本当の細い部分、通行や掘削に必要な部分、水道や排水を通すために必要な部分は、手元に残しておく。そうすれば、相手は角地を買ったつもりでも、建てることも、転売することも、融資を受けることも難しくなります」


 尚人は公図を見た。


 見た目には、地面は続いている。現地を歩けば、入口の角地は1つに見える。だが、紙の上では違う。道路へつながる細い私道部分と、そこから奥へ入った本体部分が分かれている。もし本体だけを売れば、相手は「入口の角地を買った」と思うかもしれない。だが、道路へ出るための権利を持たなければ、そこは見た目よりずっと弱い土地になる。


 尚人の中で、町田の地面が別の形に変わった。


 これまで尚人は、相手が何を仕掛けているかを見ようとしていた。だが啓子は、その相手がどこで自分から落ちるかを見ていた。


 「啓子さん」


 尚人は、思わず名前で呼んでいた。


 啓子は少しだけ目を上げた。驚いた顔をしたが、咎めるような色はなかった。


 「はい」


 「それは、かなり怖い考えです」


 啓子は湯呑みへ視線を落とした。茶の湯気はもうほとんど消えていた。


 「怖いのは土地ではありません。よく見ないまま、土地を動かそうとする人です」


 その声は静かだった。だが、柔らかいだけではない。長いあいだ、資産家の家に来る不動産屋、管理会社、親族、借地人、銀行員、税理士、近所の人間を見てきた女の声だった。


 「私も、嫁いでからずいぶん見ました。にこやかに来る人ほど、こちらがどこまで知っているかを試します。『奥様には難しい話ですから』と言いながら、判を急がせる方もいました。けれど、家を守る者が何も知らなければ、家はすぐ削られます」


 尚人は黙って聞いた。


 「義父は海運の人でしたから、海図を上手に見ることができました。主人は都内の暮らしが中心で、あまり細かい土地のことを見ません。だから、世田谷の古い借地や、自由が丘寄りのビルの境界や通路は、私が帳面で追うことが多かったのです。誰がどこを通っているか。水道管がどこを走っているか。塀を直す時、隣がどう言うか。そういうことは、女の仕事のように扱われます。でも、本当はそこが家の命です」


 その言葉に、尚人は初めて啓子の強さをはっきり見た気がした。


 尚人には金がある。未来の知識もある。若い体もある。だが、啓子には別の武器がある。家を守るために、何十年も人の欲を見てきた目である。派手に勝つための目ではない。削られないための目だ。だからこそ、相手が削ろうとした時、どこへ手を伸ばすかが分かる。


 「相手が勝手に勘違いするところまで、こちらが背負う必要はありません」


 啓子は続けた。


 「ただ、売る土地の地番、範囲、権利関係は、書面ではっきりさせるべきです。曖昧にしてはいけません。曖昧にすれば、こちらも同じ穴へ落ちます」


 「嘘はつきたくありません」


 「はい。嘘をつけば、相手と同じになります」


 尚人は、そこで深く頷いた。


 地面師たちに仕返しをするなら、汚い手を使う必要はない。相手が杉山社長に使ったものを、そのまま返せばいい。急がせる言葉、登記の見落とし、接道の思い込み、欲の目。こちらは書類通りに売る。相手が勝手に「角地なら使える」と思い込む。その思い込みが、相手の首に縄をかける。


 尚人は公図をもう1度見た。


 本体部分だけを売る。道路へ接する細い私道部分は残す。通行の承諾も、掘削の承諾も出さない。そうなれば、相手は見た目だけの入口を手に入れても、水道も排水も思うように通せない。建築確認も融資も、そこで止まる。


 そこまで考えたところで、尚人はようやく、啓子の言った意味を理解した。


 土地そのものが罠なのではない。公図に引かれた細い線を、相手が勝手に見落とすだけなのだ。


 「売る時は、どう言えばいいと思いますか」


 尚人は低く聞いた。


 啓子は、少しだけ首を傾けた。


 「余計なことはおっしゃらないほうがよろしいと思います」


 「余計なこと、ですか」


 「ええ。『売買の対象は、この地番です』。それだけで足ります。隣の私道を売るとは言わない。通行できるとも言わない。水道や排水が通るとも言わない。建物が建つとも言わない。ただ、売る土地の地番と範囲だけを、書面ではっきりさせるのです」


 尚人は黙って聞いた。


 「相手が本当に土地を見る人なら、その時点で気づきます。気づかない人なら、こちらが親切に教える必要はありません。嘘をつかず、余計な約束もせず、書類の通りに売る。それだけです」


 尚人は、公図の細い線を見つめた。


 「つまり、こちらから罠を仕掛けるのではない」


 「はい」


 啓子は静かに答えた。


 「相手が、自分の欲で線を見落とすだけです」

前編では、啓子が町田小山田の入口角地に隠れた危うさを見抜く。尚人は未来の知識で土地の値上がりを読むが、啓子は家を守ってきた経験から、道、通行、水道、排水、判の位置を見る。ここで復讐の形は、乱暴な仕掛けではなく、書類通りに売り、残すべき道を残すという形に変わり始める。

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