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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第20話――「祝杯の席、理恵の昇格」

石渡の家へ当たり、私道の奥の土地も切らずに追い、達也は工事屋や港湾業者が何を欲しがっているかを聞いて回った。その1週間後、理恵たちの買付けは、当初の読みどおり、大崎とみなとみらいの両方でまとまった。大崎では駅東口の外側に残っていた駐車場、雑居ビル、車庫、小倉庫を押さえ、みなとみらいでは港の工事や周辺開発が進んだ時に先に使われる倉庫、駐車場、古い事務所を手に入れたのである。第20話では、その買付けの結果と金額を宴席で明らかにする。尚人はその席で、理恵が物件の順番を見切る目と、迷わず決める力を認め、早乙女土地売買㈱の社長に据えることを告げる。

 (1986年4月28日月曜日午後6時30分、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)


 春の陽はまだ少し残っていたが、谷戸へ入る風はもう夕方の冷たさを含んでいた。黒松の枝がかすかに鳴り、池の水面には白い空の最後の色が薄く揺れている。秋谷の屋敷の玄関には灯りが入り、廊下の奥までやわらかな明るさが伸びていた。台所からは、焼いた魚の脂の匂いと、醤油の香ばしさ、炊きたての飯の湯気が流れてくる。今夜は祝いの席だった。


 三間続きの座敷には、すでに膳が並べられていた。刺身、煮物、天ぷら、蛤の吸い物、寿司、酒の瓶。どれも見栄えだけを狙ったものではなく、きちんと腹へ収まる品ばかりである。順子は座布団の位置を見て、理恵は膳と膳の間を目で確かめた。達也は座る前から瓶の銘柄を見ており、杉浦は書類の入った封筒を脇へ置いてからようやく腰を下ろした。


 尚人は上座に座り、全員の顔を見回した。今夜は、ここまでの細かな経過を一つずつ言い直す必要はない。もう買い付けた物件も、金額も、結果も、すべて出そろっているからだった。


 最初に口を開いたのは杉浦だった。封筒から紙を1枚だけ出し、膝の前へ置く。


 「数字を確認します」


 声は抑えていたが、書かれている数字の大きさは、その場にいる誰にでもすぐ分かった。


 「大崎駅東口まわりは、買付け11件です。内訳は、駅から再開発現場へ抜ける筋の小駐車場4件で1億2100万円。古い雑居ビル2件で2億3800万円。借地権が絡む古家と私道の奥の角地を合わせて3件で1億6100万円。車庫と小倉庫2件で1億1200万円。買付総額は6億3200万円でした」


 達也が口笛を吹きかけて、順子に肘で小さく止められた。だが顔は笑っている。


 杉浦は続けた。


 「みなとみらい周辺は7件です。桜木町寄りの古い倉庫1件で1億4600万円。細切れ駐車場3件で8700万円。事務所兼店舗の古い雑居ビル2件で7800万円。旧車庫跡地1件で5700万円。こちらの買付総額は3億6800万円でした」


 部屋の中が一瞬しんとなった。買付けの最中は、1件ごとに相手も事情も違い、そのたびに重かった。だが、こうして並べて聞くと、ばらばらに見えていた物件が、きちんと役割を持った一つの陣形になっていることがよく分かる。


 杉浦は紙へ目を落としたまま言った。


 「大崎とみなとみらいを合わせた買付総額は10億円ちょうどです。整備、測量、登記、名義整理の備えとして1億円。さらに最初から手元に残すと決めていた1億円も、そのまま残っています」


 尚人は黙って頷いた。最初に決めた12億円の置き方が、そのまま崩れずに生きていた。


 達也が先に杯を持ち上げた。


 「予定どおりに収まりましたね」


 順子が笑った。


 「そこへ収めるまでが大変だったのよ」


 理恵はまだ杯を上げず、杉浦の紙を見ていた。数字そのものは見慣れている。だが、こうして全部並ぶと、この1週間で自分たちがどれだけの土地を動かしたのかが、ようやく腹の底へ落ちた。


 尚人が低く言った。


 「大崎は、理恵の勝ちだ」


 理恵が顔を上げる。尚人は続けた。


 「駅前そのものを追わず、その外側で先に使われる場所だけを拾った。駐車場、雑居ビル、借地の古家、私道の奥の角地。どれも見た目は地味だ。だが、工事関係者が車を置き、資材を積み、電話を引いて机を並べるには、ああいう場所が先に要る。そこを外さなかった」


 尚人の視線が次に達也へ向く。


 「達也、おまえが持ち帰った現場の話も効いた。工事屋、運送屋、仮設事務所を探している連中が、いま何に困っているか。それを先に聞いてきたから、買う順番がぶれなかった」


 達也は杯を置いて、少しだけ背筋を伸ばした。


 「歩いた甲斐はありました」


 尚人はさらに順子を見た。


 「順子さんの当たり方もよかった。相場が上がる話ばかりして値を吊り上げる相手には深入りせず、税金が重い、建物が古い、相続で揉めたくない、そういう事情を抱えた持ち主だけを狙った。だから無理が出なかった」


 順子は静かに笑った。


 「売る気のない相手を追い回しても、金と時間が泥になりますからね」


 杉浦が紙を畳んだ。


 「みなとみらいも同じです。中心部の派手な土地ではなく、港の工事が進んだ時に先に必要になる受け皿だけを押さえました。倉庫、駐車場、古い事務所です。これなら港の工事関係者の出入りにも、そのあと人と金が集まる流れにも対応できます」


 理恵はそこで、ようやく小さく息を吐いた。


 「港の真ん中を買う必要はなかったんです。再開発の中心を囲む外側で、最初に荷物と車と人が集まる場所だけあればよかった」


 尚人はそれを聞いて、はっきり笑った。


 「そこだ」


 そして杯を持ち上げた。


 「今日は、買えたことを祝う席でもあるが、それだけじゃない」


 全員の視線が尚人へ集まった。廊下の向こうで風が一度だけ鳴り、池の水面がかすかに揺れた。


 尚人は、理恵をまっすぐ見た。


 「理恵。おまえは2026年の知識を持っている」


 理恵は目をそらさなかった。部屋の空気が一段静かになる。


 「だが、俺が見ていたのは、そこだけじゃない。先を知っている人間は、俺も同じだ。違うのは、その知識を1986年の地面へどう落とすかだ」


 尚人の声は静かだった。だからこそ、言葉がよく通った。


 「俺は大きい流れを見る。どこで再開発が始まり、どこで金が動き、どこで時代の向きが変わるかは読む。だが、おまえは、その変化が最初に表へ出る場所を見つける。どの通り沿いから先に人と車が増えるか。どの角地を先に押さえれば、あとで隣の物件とまとめて見せられるか。その読みでは、もう俺より上だ」


 順子は黙って理恵の横顔を見た。達也もふざけた顔を消していた。杉浦だけが、最初からこうなることを半分知っていたように静かだった。


 尚人は杯を置いた。


 「だから決めた。今日から、早乙女土地売買㈱の社長は理恵だ。俺は会長に退く。金と順番は後ろで切るが、前で買う会社の顔は、おまえがやれ」


 理恵は、すぐには言葉を返さなかった。驚いたからではない。胸の中で、今の言葉の重みをきちんと受け止めていたからである。


 達也が最初に笑った。


 「やっぱり、そう来たか」


 順子は娘の膝へ軽く手を置いた。


 「返事なさい」


 理恵はようやく顔を上げた。声は落ち着いていたが、目の奥は少し赤くなっていた。


 「分かりました。お受けします」


 それだけ言ってから、一度だけ言葉を切る。


 「ただし、私ひとりではやりません。お母さんが売り手の腹を見て、兄さんが現場で誰が何を欲しがっているかを聞いてくる。会長には、使える金の上限と最後の決裁を見てもらいます。契約の細かいところは、小沼先生に回します。私は、その話を聞いたうえで、どの物件から先に押さえるかを決めます」


 尚人は頷いた。


 「それでいい。社長は、ひとりで全部抱える人間じゃない。売り手を見る者、現場を見る者、書類を固める者、それぞれを使って、どの順で勝つかを決める人間だ」


 理恵は、その言葉を聞いてから杯を持った。


 「では、社長として最初に言います」


 達也が吹き出した。


 「いきなりかよ」


 理恵は兄を見ずに言った。


 「大崎は、いまの11件で終わりじゃない。石渡の周りと、私道の奥の土地は、まだ少しつなげられる。みなとみらいは、買った7件をそのまま寝かせるんじゃなくて、港湾業者や工事関係の会社が使いやすい順に貸していく。最初の3か月で、毎月の家賃が動く形を作る」


 杉浦は、少し離れたところで静かに聞いていた。早乙女土地売買の仕事には口を挟まない。ただ、長期で持つ物件が出た時には、早乙女不動産側で受けられるように準備しておく。その目だけは、もう動いていた。


 順子が言った。


 「売り手側の次の顔ぶれは、もう見えてるわ」


 達也も笑った。


 「じゃあ俺は、また歩くしかないな」


 理恵はそこで初めて、少しだけ笑った。


 「そういうこと」


 尚人は、そのやり取りを見てから杯を上げた。


 「では、祝おう。大崎とみなとみらいの買付成功と、早乙女土地売買㈱の新社長に」


 全員が杯を上げた。酒の匂いが立ち、刺身の皿の白が灯りを返し、座敷の空気がようやくゆるむ。杯が触れ合う音は高く、ひと呼吸のうちに消えた。今夜の区切りとして、それで十分だった。


 そのあとは、ようやく宴席らしい時間になった。達也は寿司を先に取り、順子は煮物の味付けにひとこと言い、杉浦は飲み過ぎないように盃の位置を見ている。理恵は最初の数分だけ黙っていたが、やがて箸を取り、刺身をひと切れ口へ運んだ。魚の脂が舌に広がり、ようやく肩の力が少し抜けた。


 座敷の外では、春の夜がゆっくり深くなっていく。黒松の枝が風に鳴り、池の水がかすかに光を返す。屋敷の中では、膳の上の湯気と酒の匂いの向こうで、誰がどの役を担うのかが、もう誰の目にもはっきり見えていた。


 尚人は盃を置き、理恵を見た。もう娘を見る目ではない。自分の前に立つ商売人を見る目だった。


 理恵もそれを分かっていた。


 今夜で、理恵の買付けチームの話はいったん締まる。だが、理恵自身は、ここで終わるのではない。ここから先は、自分が会社の前へ立つ。その最初の夜が、秋谷の広い座敷で、静かに形になった。

第20話では、理恵たちの買付けの経過を細かく追わず、結果と金額だけを宴席の上へ並べた。大崎では駅東口外縁の受け皿を11件、みなとみらいでは港の工事や周辺整備が進んだ時に先に使われる物件を7件、当初の構えどおりに押さえた。金額も、大崎6億3200万円、みなとみらい3億6800万円で、合わせて10億円ちょうどに収まっている。残した2億円のうち、1億円は整備と名義整理のための備え、もう1億円は最初から手元に残すと決めていた金である。数字の上でも、理恵たちの勝ち方は崩れていない。そして何より大きいのは、尚人がここで理恵を早乙女土地売買㈱の社長に据えたことである。理恵は2026年の知識を持つだけではない。その知識を1986年の町の形へ落とし直し、どの通りから先に人と車が増えるか、どの物件を先に押さえれば後でまとめて見せられるかを読む。その力を、尚人は自分以上だと認めた。順子が売り手の腹を見て、達也が現場の事情を聞いて持ち帰り、杉浦が金と契約を締める。その中心で順番を決めるのが理恵になる。理恵の買付けチームの話は、ここでひと区切りついた。だが、理恵その人の話は、ここからさらに大きく動き始める。

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