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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第19話――「古い階段、石渡の家の返事」

第18話で理恵は、私道の奥を捨てずに見ながらも、先に石渡の古い雑居ビルへ当たると決めた。理由は小さいが、無視できない動く気配が重なったからである。工事屋が欲しがっているのは、駅に近く、電話が引けて、すぐ机が置ける場所だった。そして同じ日、石渡の1階に入っている印刷屋の袋を持った人間が、尚人の持ちビルの同じフロアへ出入りしていた。第19話では、順子と理恵が石渡の家を訪ね、達也は別に工事屋の熱を拾いに回る。紙の上で読んだ物件が、持ち主の顔と声を持つところまで話は進む。

 (1986年4月21日月曜日午後1時10分、大崎・石渡家の前)


 昼を少し回ったばかりなのに、路地の奥はまだ朝の冷えを少しだけ残していた。細い道の片側に古い家が並び、軒の下には洗った雑巾や色の褪せた植木鉢が寄せてある。遠くで工事の金属音がかすかに響き、すぐに止んだ。大通りへ出れば車の流れが続いているはずだが、ここまで入ると、音は壁に当たって弱くなる。かわりに、どこかの家の味噌汁の匂いと、乾いた土の匂いが薄く混じっていた。


 順子は石渡家の門柱を見上げた。表札は白地に黒い字で「石渡」とある。字は古く、端が少し欠けていた。門扉は鉄で、塗り直した跡があるが、蝶番のあたりには赤錆が浮いている。家そのものは木造2階建てで、庭は狭い。だが、手入れがまるで止まっている家ではなかった。玄関脇の鉢植えは枯れておらず、ガラス戸の内側には、きちんと洗ったレースのカーテンが掛かっている。


 理恵は門の外から一度だけ家の全体を見た。ここで大事なのは、最初のひと言で値段を匂わせないことだと分かっている。駐車場の時とは顔が違う。面倒を抱えきれずにいる人間の家ではない。まだ自分の持ち物として回せると思っている家だ。だから、急ぐ顔で行けば閉じる。


 順子が静かに言った。


 「最初は私が話すわ。あんたは、家の中の音を聞いていて」


 理恵は小さく頷いた。


 「分かってる」


 順子が門扉を押すと、金属がかすかに鳴った。玄関先まで進み、呼び鈴を押す。家の中で乾いた電子音が鳴り、それが廊下の奥へ流れていった。


 しばらくして、足音がした。軽くはない。急いでもいない。板の間をきちんと歩いてくる音だった。


 玄関戸が開き、出てきたのは60代半ばほどの女だった。髪はきちんと後ろでまとめ、薄い色のカーディガンを羽織っている。顔立ちは痩せすぎてはいないが、頬のあたりに年齢の影がある。目だけは、思っていたよりよく動いた。知らない相手を見た瞬間に、服、靴、手ぶらかどうか、その全部を一度に見ている目だった。


 「はい」


 声はよく通った。弱っている家の声ではない。


 順子は、すぐに名乗った。


 「突然すみません。早乙女土地売買の早乙女順子と申します」


 女の目が少しだけ細くなった。「早乙女」の音を覚えている顔だった。だが、その場ではまだ何も言わない。


 順子は続けた。


 「この近くで何件かお話を伺っておりまして、石渡さんのお宅にもごあいさつにと思って参りました。こちら、娘の理恵です」


 理恵も頭を下げた。


 「こんにちは」


 女は、そこで初めて理恵を見た。若い女を前へ出してくる会社かどうかを見たのだろう。理恵は視線を避けず、かといって押しもしない顔で立った。


 「何の話ですか」


 女は訊いた。


 順子はすぐには「売って下さい」とは言わなかった。


 「大崎の東口まわりで、古い建物や土地の使い方がこれから少しずつ変わっていきますでしょう。ですから、いま持っておられる方が、今後どうなさるおつもりかを、先に伺っておきたいのです」


 女は玄関戸に手を掛けたまま、少しだけ黙った。この言い方なら、すぐには追い返しにくい。買い叩きに来た顔ではなく、町の流れを聞きに来た顔だからである。


 「うちは、別に急いでおりませんよ」


 そう言った時、声に張りがあった。順子はその張りを聞いた。やはり、まだ「持っていられる」と思っている。


 「それは結構です」


 順子は柔らかく返した。


 「急いでいるお宅にしか伺わないということでもないんです。ただ、この先、人の動きが変わってきますから、いまのうちに考えだけでも伺っておければと思いまして」


 女は少しだけ戸を広く開けた。追い返すほどの不快はないらしい。


 「立ち話も何ですから、少しの間なら中でどうぞ」


 順子はそこで初めて、胸の中で小さく息をついた。だが、ここからが本番だった。


 玄関へ上がると、家の中は外から見たよりきちんとしていた。廊下はよく拭かれ、板には薄い艶がある。壁に掛かった時計の音が細く続いており、奥の部屋からは小さくラジオが聞こえる。畳の匂いに、煎茶の残り香が混じっていた。


 通されたのは6畳の居間だった。南向きで、障子越しの光が白く入っている。箪笥の上に家族写真が二枚、棚には贈答の缶がきれいに積んである。どこを見ても、暮らしがまだ回っている。苦しくて持ち切れない家ではなく、きちんと保ってきた家だった。


 女は座布団を二枚出した。


 「どうぞ」


 順子と理恵が腰を下ろすと、女も向かいに座った。お茶までは出さない。その距離の取り方が、まだ様子見だということをはっきり示していた。


 「それで」


 女は言った。


 「近所で何件か、とおっしゃいましたね」


 順子はうなずいた。


 「ええ。このへんで、駐車場や古い建物について、いま後で困らないように先に整理したいという方が、少しずつ出てきています」


 女の目が一瞬だけ動いた。駐車場。その言葉に反応したのである。斉藤の件はもう近所へ回り始めているのだろうと、順子はそこで読んだ。


 女は表情を変えないまま訊いた。


 「斉藤さんのところも、あなた方ですか」


 理恵は答えなかった。順子が受けた。


 「ご縁がありました」


 女はそれ以上は追わず、膝の上で指を組んだ。


 「それで、うちの雑居ビルもですか」


 「はい」


 順子はようやく正面から言った。


 「石渡さんのところは、駅に近いですし、使い方によってはまだ十分に動かせる場所だと思っています。ですから、もし今後、持ち方を変えるご予定があるなら、早いうちにお話を伺っておきたいのです」


 女は鼻で息をひとつ抜いた。嫌な顔ではない。だが、簡単には崩さない顔だった。


 「予定は、まだありません」


 そう言ってから、少しだけ言い足した。


 「ただ、年を取ると、いろいろ考えますけどね」


 その一言で、理恵は顔を上げた。そこだと思ったのである。まだ「売る気」ではない。だが、「このままでいいのか」は頭にある。


 理恵が初めて口を開いた。


 「失礼ですが、いまは何軒入っておられるんですか」


 女は若い相手に訊かれたことで少しだけ警戒したが、質問そのものはごまかしにくかった。


 「1階は印刷屋さん。2階は、いま半分空いています。前の人が出てから、まだそのままです」


 「電話線は残っていますよね」


 理恵がすぐに続けた。


 女は目を細めた。


 「見てきたんですか」


 「外から分かる範囲だけです」


 理恵はそう言ったが、声は落ち着いていた。


 「階段も急ではありますけど、使えないほどではなかったです。裏口もありますし」


 女はそこで、ようやく理恵を少し違う目で見た。ただの付き添いではないと分かったのだろう。


 「若いのに、よく見てますね」


 順子は何も足さなかった。ここで母が娘を褒める形にすると安くなる。相手にそう言わせたままにしておく。


 理恵は小さく頭を下げた。


 「商売ですから」


 女は、その返しで少しだけ笑った。ほんのわずかだったが、これが今日の最初の緩みだった。


 「でもね」


 女は言った。


 「古い建物でも、すぐに手放す気にはなれないんですよ。主人が生きていた頃から回してきたものですし、まだ印刷屋さんも入っている。空いているからといって、すぐ駄目だとは思っていません」


 順子はすぐにうなずいた。


 「それは当然です。うちも、駄目だから手放して下さいという話をしたいわけではありません」


 女はその言葉を待っていたのかもしれない。


 「じゃあ、どういう話なんです」


 順子は少しだけ前へ身を乗り出した。


 「この先、駅の東口で工事や人の動きが増えます。そうなると、いまは古いだけに見える建物でも、突然、借りたいという話が重なることがあります。ただ、その時に持ち主の側で準備が出来ていないと、結局、家賃を下げるか、慌てて手を入れるかになる。だったら、その前にどうするか考えておく方がいい。そのために、持ち続けるのか、一部だけ動かすのか、まとめて渡すのか、選べるうちに見ておくのがいいと思っているんです」


 女は黙って聞いた。ここまでは、売り込みに見えて、実は「考える理由」を渡している。順子はそこへ女の目が追いつくのを待った。


 しばらくして、女はゆっくり言った。


 「主人がいた頃は、あの建物も満室に近かったんです」


 それは独り言のようでもあり、説明のようでもあった。


 「でも、この数年は、前みたいにはいきません。入っても長く続かない。直すにもお金が掛かるし、かといって、壊してどうこうする話でもない。そういうところです」


 理恵は、その言葉の中にある「維持の重さ」を聞いた。駐車場ほどむき出しではないが、面倒は確かに溜まり始めている。


 「固定資産税も、昔より軽くはないですよね」


 順子が静かに言った。


 女は、それにはすぐ答えなかった。だが否定もしない。


 部屋の外で、玄関の戸ががたんと鳴った。誰かが帰ってきたらしい。足音は若くも老いてもいない、中年の男の歩き方だった。理恵はそちらへ意識を向けた。家族がいる。しかも、この話を女ひとりで決める家ではない。


 襖が少し開き、男が顔を出した。50代前半くらいで、ワイシャツの袖をまくっている。顔は女に似ており、目の位置が少し下がっている。帰ってきて知らない女がふたり座っているので、一瞬だけ足が止まった。


 「お客さんか」


 女が振り返った。


 「早乙女土地売買さん。近くの建物のことで話を聞きに来たの」


 男は、そこで理恵たちを見た。目つきに露骨な敵意はない。だが、警戒はあった。


 「兄です」


 女が言った。


 「いまは、建物のことも一緒に見ています」


 順子はすぐに頭を下げた。


 「突然失礼しております」


 男は部屋へ入りきらず、敷居のところで立ったまま言った。


 「何の話です」


 順子は同じ説明を繰り返した。駅東口まわりの動きが変わること、古い建物でも先に持ち方を考えておいた方がいいこと、急いで売れという話ではないこと。


 男は黙って聞いていたが、最後にひとつだけ訊いた。


 「いくらで売れます、という話をしに来たんじゃないんですね」


 順子はそこで初めて、ごく小さく笑った。


 「きょうは、その話をしに来たんじゃありません」


 男は、それで少しだけ力を抜いた。値段から入る相手は信用しないという顔だった。


 「そうですか」


 そして女に向かって言った。


 「まあ、聞くだけ聞けばいい」


 そこまで来たところで、理恵はようやく今日の落としどころが見えた。ここで金額を出す回ではない。次につながる家かどうかを見に来た。その意味では、もう十分に取れている。


 理恵は膝の上の鞄から名刺入れを出し、机の上に二枚そろえて置いた。


 「きょうはごあいさつだけで結構です。ただ、もし一度、建物そのものをこちらでもう少し見せていただけるようでしたら、次に伺いたいです。すぐにどうこうではなくても、持ち方の相談として」


 男は名刺を見た。女も横から見た。ふたりとも、すぐには手を伸ばさない。その一拍が、家の慎重さをよく表していた。


 やがて女が名刺を取った。


 「分かりました。売るかどうかを、今ここで決めるつもりはありません。ただ、建物をもう一度見てもらうことなら、兄とも相談してみます。家のことですから、私ひとりでは返事できません」


 男ももう一枚の名刺を取った。


 「中を見るだけなら、次は平日の午前がいいです。印刷屋もいますし、階段の具合も、その時間のほうが分かるでしょう」


 順子はそこで初めて、はっきりうなずいた。


 「ありがとうございます。それで十分です」


 理恵は何も急がなかった。押せば閉じる家である。今日は、戸を半分開けさせるところまででいい。


 部屋を出ると、廊下の空気は来た時より少しだけ柔らかかった。玄関で靴を履く間、女が後ろから言った。


 「斉藤さんのところみたいに、急に決まる話ではないですよ」


 順子は振り向いて答えた。


 「承知しています。でも、急に決まらない話の方が、あとで大きく動くこともありますから」


 女はその言葉に何も返さなかった。だが、玄関戸を閉める前に、ほんの少しだけうなずいた。


 門の外へ出ると、路地の空気はさっきより白く乾いていた。遠くの工事音が、今度は前よりはっきり聞こえる。理恵は振り返らずに歩き出した。順子が横で低く言う。


 「悪くないわね」


 理恵は頷いて言った。


 「ええ。まだ売る気じゃない。でも、持ち続ける重さはもう分かってる」


 「兄がいたのもよかった」


 「うん。女ひとりで止める家じゃなかった。次は中を見せてもらえる」


 順子は歩きながら、少しだけ口元をゆるめた。


 「ここで焦らなかったのは正解よ」


 理恵はそれには返事をせず、路地の先を見た。まだ今日の勝負は半分残っている。石渡の家が閉じなかった以上、次に必要なのは、もっとはっきりした外側の熱である。達也が拾ってくる話が、それを押すことになる。


 その時、路地の入口の方から足早に近づいてくる音がした。背広ではない。ゴム底の靴で、少し急いでいる。理恵が顔を上げると、達也だった。額に汗があり、歩いてきた熱がまだ肩に残っている。


 「いたか」


 達也は息を整えながら言った。


 「話はどうだった」


 理恵はすぐに訊き返した。


 「そっちは」


 達也は口元だけで笑った。


 「悪くない。でかい話を拾った」

第19話では、石渡家の戸口をこじ開けるのではなく、半分だけ開かせるところまでを丁寧に描いた。相手は困り切って投げる家ではない。だからこそ、順子は値段をぶつけず、理恵は建物の現実だけを静かに押さえた。1階の印刷屋、空いた2階、残っている電話線、急な階段、そして維持の重さ。そうした細部が、石渡側の胸の内を少しずつ言葉にさせている。この回で大事なのは、石渡家がまだ閉じていないことよりも、もう完全には閉じていないことである。女ひとりでは決めない家であり、兄も絡み、値段から入る相手を嫌う。その輪郭が見えたことで、次に何を持って行けば扉がさらに開くかがはっきりした。達也が最後に持ち帰った「でかい話」は、その外側の熱として働くはずである。家の中の重さと、外で膨らむ需要の熱が、次の一手でぶつかる。そこから、この物件は本当に動き始める。

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