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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第16話――「東口の坂、最初の3件」

白いバンと3台のスクーターがそろったことで、早乙女土地売買㈱は、ようやく机の上の会社ではなくなった。理恵は、その日のうちに順子と達也を連れて大崎駅東口へ出る。紙の地図に引いた赤い線が、本当に使える道かどうかを、自分の足で確かめるためである。順子は売り手の顔を拾い、達也は工事屋の困りごとを拾い、理恵はその両方を受けて、どの物件から押さえるべきかを決める。最初の勝負は、大きな土地ではない。人が今すぐ困っている場所を、先に見抜けるかどうかだった。

 (1986年4月18日金曜日午後0時20分、品川・尚人の持ちビル内早乙女土地売買㈱)


 昼を少し回るころには、机の上の紙だけでなく、部屋の空気まで変わっていた。ワックスの匂いと紙の乾いた匂いの中へ、外から戻ったばかりのガソリンとオイルの匂いが混じっている。理恵は窓際の机の前に立ち、もう一度だけ地図を見た。大崎駅東口の外側に赤い丸がいくつか打ってある。細い私道に面した角、小さな月極駐車場、2階が空いていそうな古い雑居ビル。どれも、地図の上では小さな印に過ぎない。だが、そこへ行く車と足がもうある。そこが朝とは違っていた。


 順子は手帳を閉じ、バッグへ入れた。


 「じゃあ、今日はまず顔を見るだけね」


 理恵は言った。


 「今日は無理に決めようとしない。大崎の東口を歩いて、どこに人が流れているか、どこが放ってあるか、まずそれを見たい。売る話を進めるのは、そのあと」


 達也は壁の地図から目を外し、窓の外の白いコロナバンを見た。


 「3人とも車で行くのか」


 「最初は一緒に動くわ」


 理恵はそう答えた。


 「別れるのは向こうへ着いてからでいい。今日は、戻ってきた時に同じ景色を見て話せる方が早い」


 順子は小さくうなずいた。


 「それはそうね。見てきた場所がばらばらだと、話がずれやすいもの」


 理恵は机の上の封筒を取り、そこから現金の入った茶封筒を3つ出した。どれも分厚くはない。だが、薄くもない。


 「お母さん、兄さん。今日は使わないかもしれないけれど、持っていて。礼金や手土産や紹介料で、その場で話が開くことがある」


 達也が封筒を手に取って笑った。


 「社長らしくなったな」


 「うるさい」


 理恵はそう言ったが、声は硬くなかった。


 3人は部屋を出た。廊下には昼の光が差している。階段を下りると、外の空気は思ったより暖かかった。品川の道にはトラックが流れ、白い排気が少しだけ空気に残っている。コロナバンの白い塗装は、春の陽を受けて平たく光っていた。まだ買ったばかりで、荷室には新しいビニールと洗剤の匂いが残っている。達也が運転席に座り、理恵は助手席へ、順子は後ろへ乗った。ドアが閉まるたび、乾いた金属音が小さく鳴った。


 (1986年4月18日金曜日午後1時5分、東京・大崎駅東口)


 大崎へ着くと、駅の東口は思っていたより騒がしかった。駅のまわりだけが整っているわけではない。古い建物のあいだを、背広の男、作業着の男、台車を押す女、弁当を提げた若い社員らしい男が、せわしなく行き来している。遠くでは鉄骨を打つような音がかすかに響き、風に乗って砂っぽい匂いが来た。道の端には工事車両が何台か停まり、歩道のすみに寄せた看板には、再開発の工事名が白い字で出ていた。


 理恵は車を降り、まず駅前を一度だけ見渡した。空はよく晴れているが、地面に落ちる光はやわらかくない。建物の壁に跳ねた光が目に刺さり、道路の上には昼の熱が少しずつたまり始めていた。


 理恵は小さく言った。


 「駅前は見なくていい。駅前では人の流れだけ見て、その先へ出る」


 達也が車の鍵を回して確認し、頷いた。


 「分かった。俺は先に現場の周りを見る」


 「お母さんは古い店の並びを見て。ずっとここにいる人なら、持ち主の顔を知ってる」


 「任せなさい」


 3人は駅の東口を背にして歩き始めた。最初は同じ方向へ進んだが、1本目の角で別れた。順子は商店の並ぶ通りへ、達也は工事音の聞こえる方へ、理恵はその中間の細い道へ入った。


 ◇ ◇ ◇


 順子が入った通りには、古い文房具屋、乾物屋、酒屋、クリーニング屋が肩を寄せるように並んでいた。どの店先にも、長くここで商売してきた匂いがあった。紙とインク、洗い粉、醤油と昆布、酒樽の湿った木。順子は最初に文房具屋へ入った。ガラス戸を開けると、帳面と消しゴムと紙の匂いがまとわりつく。


 店の奥には、60を過ぎた女が丸眼鏡をかけて座っていた。


 「いらっしゃい」


 「便箋、見せてもらえますか」


 順子はそう言って棚の前へ行き、すぐには本題へ入らなかった。2つ3つ品物を見て、細い封筒をひと束だけ買う。釣りを受け取ってから、何でもない調子で言った。


 「このあたり、古い建物が多いですね」


 女はすぐに笑った。


 「古いですよ。古いまま持ってる人が多いから」


 「売る気のある人もいますか」


 女はそこで順子の顔を見た。よそ者かどうかを見ている目だった。


 順子はバッグから名刺を出した。


 「早乙女土地売買です。いきなり土地を売って下さいという話をしに来たわけじゃないんです。ただ、持て余して困ってる方がいるなら、話だけでも聞かせてもらえませんか」


 女は名刺を受け取り、しばらく見たあとで口を開いた。


 「表通りの角から2軒目の古いビル、あそこは息子さんが継がないって言ってるね。持ち主はまだ元気だけど、2階が空いたままで困ってる。それと、裏手の月極駐車場。あれは未亡人が1人で持ってるけど、固定資産税が重いって、去年からずっとぼやいてる」


 順子は手帳を開いた。万年筆の先が紙をこする音が、小さく鳴る。


 「お名前は」


 「ビルは石渡。駐車場は斉藤」


 「ありがとう。ほかには」


 女は少し考えてから、声を落とした。


 「細い私道の奥に、借地のまま古い家が1軒残ってる。息子夫婦はもう埼玉に住んでるって話だから、いずれ動くかもしれないよ」


 それだけ聞ければ十分だった。順子はもう1つ小さなノートを買い、丁寧に礼を言って店を出た。


 次に入ったクリーニング屋でも、似た話が出た。3階建ての小さな雑居ビルの2階が半年空いたままになっていること。その持ち主が、階段が急で借り手がつかず、いっそ売った方が早いかと口にしていること。順子は店の中の洗剤と湯気の匂いを吸いながら、ひとつずつ名前を手帳へ写した。


 歩き回るうちに、順子の手帳には、もう6つ名前が増えていた。どれも、高く売れると期待されている物件ではなかった。持ち主が困っている物件ばかりだった。


 ◇ ◇ ◇


 達也は工事の音がする方へ歩いた。駅から少し離れると、道端には砂利と土が増え、作業服の男の姿が目につくようになった。仮囲いの脇で煙草を吸っている男が2人いた。ひとりはヘルメットを脱ぎ、タオルで首を拭いている。達也は缶コーヒーを3本買い、そのまま近づいた。


 「暑いですね」


 男のひとりが缶を受け取り、少しだけ笑った。


 「まだ4月だけどな」


 「このへん、工事の人、だいぶ増えてますか」


 達也はそう言って、自分の缶を開けた。プルタブの金属音が、小さく鳴る。


 「増えてるよ。これからもっと増える」


 「いちばん困ってるのは何です」


 男は迷わず答えた。


 「車だな。まず車を置く場所。次に、人が詰める小さい事務所」


 もうひとりの男も口を挟んだ。


 「資材は少し離れてても何とかなる。でも、職長が日報を書いたり、図面を広げたりする場所が足りない。あと、職人の車を昼だけでも停められる場所がない」


 達也は頷いた。


 「月極駐車場でも足りますか」


 「駅から近けりゃな。5分歩くくらいまでなら十分だ」


 「古いビルの2階とかは」


 「階段があって、机が置けりゃ使うよ。きれいじゃなくていい」


 達也はそこで笑った。


 「ずいぶん率直ですね」


 男も笑った。


 「困ってるからな」


 達也はそのあと、近くの運送会社の小さな営業所にも入った。狭い事務室には、電話機の熱い匂いと、油で黒ずんだ作業手袋の匂いがあった。所長らしい男は40代で、帳簿をめくる手を止めずに話をした。


 「このへんは、荷を置く大きい場所より、小さな車庫が欲しいんですよ。2トンか3トンが夜だけ入れられる場所。それと、電話を引ける小部屋。あれがないと話にならない」


 達也はその言葉をそのまま胸へ入れた。大きな倉庫ではない。まず要るのは、小さくてすぐ使える場所だ。そこが理恵の考えとぴたりと重なった。


 ◇ ◇ ◇


 理恵は駅から東へ出て、少し外れた道を歩いていた。大きな通りではなく、1本中へ入った道のほうが気になったのである。駅前から人が流れてくる道。再開発の現場へ向かう男が通る道。だが、まだ古い町の顔が残っている道だった。


 1つ目に理恵の目へ入ったのは、小さな月極駐車場だった。10台も入らない。白いペンキで区画線だけは引いてあるが、地面はところどころひび割れ、端には雑草が出ている。入口は狭いが、駅から歩けば7分ほどで来られる。看板には「斉藤駐車場」と書いてあった。板が日に焼けていて、電話番号の文字も少し薄い。だが、昼の今でも3台分空いていた。


 理恵はそのまま立ち止まり、駐車場を見た。空いている区画の幅、入口の向き、前の道の車の流れ、駅からここまで歩いた時間。頭の中でそれを順に並べる。ここは大きな儲けをすぐ生む物件ではない。だが、買ってすぐ貸せる。しかも現場の人間が本当に要っている。


 理恵は手帳へ「斉藤駐車場」と書き、その横へ小さく丸を打った。


 2つ目は、その少し先にあった古い3階建てのビルだった。1階には印刷屋が入り、2階の窓には白く抜けたカーテンが下がっている。3階は誰か住んでいるらしく、洗濯物が風に揺れていた。階段は外に出ていて、鉄の手すりが少し錆びている。玄関脇には貸室の貼り紙があるが、紙の端がめくれ、長くそのままになっているのが分かった。


 理恵は向かいの煙草屋へ入り、マッチをひとつ買った。


 「このビル、長く空いてるんですか」


 店の主人は、包み紙を折りながら言った。


 「2階だけね。去年の秋から」


 「借り手がつかないんですか」


 「階段が急だし、昔のままだから。でも、電話は引けるよ。持ち主は石渡さん」


 石渡。その名は順子が拾っているかもしれない。理恵はそう思った。


 3つ目は、さらに細い私道へ入ったところにある古い木造の家だった。角に近いのに、道が細く、表から見ると少し引っ込んでいる。だが、門の位置がよい。壊して更地にすれば、小さい車なら何台か入る。家自体は古く、雨戸の塗りも剥げている。だが、立地だけは死んでいなかった。表札は外れていて、ポストにだけ名字の紙が差してある。


 理恵はそこで足を止めた。これは今すぐ使える物件ではない。手が掛かる。だが、あとで線になる場所かもしれない。先に駐車場とビルを押さえ、その次にこういう角を入れる。そうすれば、外側の土地や建物を一続きのものとして見せやすくなる。そこまで考えたところで、理恵は無理に近づくのをやめた。今日はここまででいい。欲を出す日ではない。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月18日金曜日午後4時10分、東京・大崎駅東口近くの喫茶店)


 午後4時を回るころ、3人は駅から少し外れた喫茶店へ戻った。ガラス戸を開けると、コーヒーの苦い匂いと、バターを塗ったトーストの匂いが流れてくる。奥のテーブルへ座ると、店の中は外より少し暗く、歩き続けた目がようやく落ち着いた。達也はアイスコーヒー、順子は紅茶、理恵はホットコーヒーを頼んだ。冷たいグラスの水滴が、木のテーブルへ丸く残る。


 「先に言うわね」


 順子が手帳を開いた。


 「売る気のありそうな名前は8つ拾えた。そのうち今すぐ話になりそうなのは3つ。石渡の古いビル、斉藤の駐車場、それから私道の奥の借地の家」


 理恵は黙って頷いた。


 「私も同じ3つを見た」


 達也がそこで口を挟んだ。


 「現場の連中が足りないって言ってるのは、まず車を置く場所。次に、小さな事務所。大きな倉庫は後だ。図面を広げられて、電話が引けて、駅から歩ける距離なら古くても使うってさ」


 理恵はコーヒーカップを持ち上げた。熱い。だが、その熱さがちょうどよかった。今日一日で拾ってきたものが、胸の中でひとつの形になり始めている。


 「順番は決まった」


 理恵はカップを置いた。


 「1番目は斉藤の駐車場。買ってすぐ回せる。2番目は石渡のビルの2階。事務所で貸せる。3番目に私道の奥の家。あれは後でまとめる」


 順子は手帳の端を指で押さえた。


 「斉藤さんから当たる?」


 「そう。今日のうちに話を入れる」


 達也が眉を上げた。


 「早いな」


 理恵はそう言った。


 「今日見た動きには、今日のうちに手を打つ。駅前の夢を買うんじゃない。今困ってる場所を買うんだから、迷う必要はない」


 順子はふっと笑った。


 「尚人さんの言い方に似てきたわね」


 理恵はそれには答えず、喫茶店の黒電話を見た。店の入口に近い棚の上に置かれている。店主に断りを入れ、立ち上がってそこへ向かった。受話器は少し温かかった。斉藤駐車場の電話番号を手帳から見て、円盤を回す。乾いた戻り音が、店の中で小さく響く。


 呼び出し音は4回で切れた。出たのは年配の女の声だった。


 「はい、斉藤です」


 理恵は名乗った。


 「早乙女土地売買の倉田理恵と申します。大崎の駐車場のことで、一度お話をうかがえませんか」


 向こうの声は、すぐには強くならなかった。迷っている声だった。


 「売るとは、まだ決めていないんですけどね」


 「それでも構いません。今すぐ決めていただく話ではありません。ただ、お困りのことがあるなら、聞かせて下さい」


 その言い方で、相手の息が少しやわらいだ。


 「明日の午前なら家におります」


 「では、明日うかがいます」


 理恵は時間を決め、受話器を置いた。戻ってくると、順子も達也も、もう次の顔になっていた。話は動き出したのである。


 「明日の朝、斉藤さんのところへ行く」


 理恵は席に着きながら言った。


 「お母さんも一緒に来て。兄さんは先に石渡のビルのまわりをもう一度見て。2階へ人が上がりやすいか、裏口が使えるか、電話線がどこから入るか、そのへんを見たい」


 達也は短く答えた。


 「分かった」


 順子は手帳を閉じ、紅茶の最後のひと口を飲んだ。


 「やっと最初の1件ね」


 理恵は窓の外を見た。駅の東口へ戻る人の流れが、夕方の光の中で少し色を変え始めている。朝はただの紙だった赤い丸が、いまはもう、手を伸ばせば動く物件になっていた。


 「まだ1件じゃない」


 理恵は静かに言った。


 「最初の1件を取る道が見えただけ」


 その声には、朝よりも深い落ち着きがあった。会社の鍵、車の鍵、人の役。そこへ今日、大崎の道と空気と持ち主の名前が加わった。早乙女土地売買㈱は、品川の一室を出て、ようやく本当の町の中へ足を入れたのである。

第16話では、理恵チームが初めて大崎の東口へ出て、自分たちのやり方で町を読み始めた。順子は長くこの土地にいる人の口から売り手の名を拾い、達也は工事屋や運送屋の困りごとから「今すぐ要る場所」を拾い、理恵はその両方を受けて、最初に押さえるべき3件を絞った。大事なのは、駅前の大きな夢を追わなかったことである。駐車場、古いビルの空いた2階、細い私道の奥の古家。どれも地味だが、今すぐ使える物件ばかりだった。理恵は、その中でもまず斉藤の駐車場から当たると決め、今日のうちに電話を入れた。第16話は、会社ができた翌日に派手な成功を取る話ではない。だが、何を先に買えば勝てるか、その最初の目が揃った回として大きい。次からは、いよいよ本当に話を進めに行く回になる。

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