第17話――「斉藤の玄関、300万円の手付」
第16話で理恵たちは大崎駅東口を歩き、最初に押さえるべき3件を絞った。順番は決まっている。1つ目は斉藤の駐車場である。買ってすぐ回せるからだ。理恵はその日のうちに電話を入れ、翌朝の約束を取った。第17話では、理恵が実際に相手の家へ上がり、顔を見て、困りごとを聞き、最初の判をもらうところまでを描く。
(1986年4月19日土曜日午前8時50分、品川・尚人の持ちビル内早乙女土地売買㈱)
土曜の朝の事務所は、平日より少し静かだった。窓の外を走る車の音も低く、廊下にはまだ人の気配が薄い。だが、部屋の中だけはもう仕事の匂いがしていた。ワックスの残り香、紙の乾いた匂い、黒電話のぬるい樹脂の匂い、その上へ、達也がさっき外で吸ってきた煙草の残り香がわずかに重なっている。
理恵は机の上へ茶封筒を1つ置いた。封の中には、きれいにそろえた札束が入っている。300万円。手付に使う金だった。封筒の脇には、昨夜のうちに杉浦へ頼んで用意させた簡単な買付証と預り証のひな型、筆記具、朱肉、印紙をまとめた小さな書類入れが並んでいる。
順子はそれを見て、声を落として言った。
「本当に持っていくのね」
理恵はうなずいた。
「今日は、様子を見るだけでは帰らない。向こうが決めたら、その場で手付まで入れる」
達也は壁際で地図を折りながら、理恵を見た。
「俺は予定どおり、石渡のほうを見直してくる。階段、裏口、電話線、それだけ拾えばいいな」
「それでいい」
理恵は答えた。
「印刷屋にも無理に話しかけなくていい。ただ、2階へ毎日人が上がるのに無理がないか、それだけ見て」
達也は軽くうなずいた。
順子は手帳をバッグへしまい、理恵の顔をじっと見た。
「相手が迷ったら、焦って押しすぎないことよ」
「分かってる」
理恵はそう言ってから、茶封筒をバッグへ入れた。
「でも、今日はこの話を先へ進める。困っている人なら、話を長引かせないほうがいい」
3人は部屋を出た。階段を下りると、外の空気はまだ午前の涼しさを少し残していた。白いコロナバンのボディは朝日を受けて平たく光り、昨夜拭いたばかりのガラスが白く空を映している。荷室には地図、書類箱、三角コーン2本、それに昨日買ったばかりの小さな工具箱が積んであった。会社が、ようやく動く形になってきていた。
(1986年4月19日土曜日午前9時25分、東京・大崎駅東口近く)
大崎へ着くと、昨日より人通りは少なかった。土曜の朝である。だが、工事の音はもう遠くで始まっていた。鉄のこすれる音、トラックのバックの警告音、どこかで木材を下ろす鈍い音が、春の乾いた空気の中へばらばらに響いている。道の端には、まだ昨夜の雨の名残らしい黒いしみが残り、排気と砂の匂いが混じって鼻へ入った。
斉藤の家は、駐車場の裏手へ1本入った古い通りにあった。表の道路から少しだけ奥まっていて、木の門柱の塗りは褪せ、郵便受けの口もところどころ錆びている。玄関脇には植木鉢が3つ並んでいたが、1つは土だけになっていた。手入れをする気力が、ここしばらく切れているのが、そういうところに出ていた。
達也は車を止めると、先に理恵へ言った。
「終わったら喫茶店の前で落ち合おう。昼前には戻る」
「うん。石渡のほう、よろしく」
達也は地図を脇へ挟み、歩いて去った。背中はもう昨日の外回りの男のそれだった。
理恵と順子は門をくぐった。土の上に小さな砂利が敷いてあり、踏むと、じゃり、と乾いた音がした。玄関の引き戸のガラスは曇り気味で、内側の暗さがうっすら映っている。順子が呼び鈴を押すと、家の奥で柱時計の音に混じって、ぱたぱたと小さな足音がした。
「はい」
出てきたのは、60代の女だった。髪は後ろでひとつに結んでいるが、朝のうちにきちんと整えたというより、まとめただけという感じである。薄い鼠色のカーディガンを羽織り、手にはまだ台所ふきんを持っていた。昨日電話に出た声、そのままの人だった。
理恵は名乗った。
「早乙女土地売買の倉田理恵です。昨日、お電話した者です」
女は一度、理恵と順子の顔を見比べた。それからようやく戸を広く開けた。
「どうぞ。狭い家ですけど」
玄関へ上がると、古い木の匂いがした。下駄箱の上には小さな花瓶と、男物の古い帽子が置いてある。もう使う人がいないのに、そこから動かしていないとすぐ分かる置き方だった。廊下を進むと、仏壇の線香の薄い匂い、朝炊いた味噌汁の残り香、それに拭いたばかりの畳の湿り気が混じっている。奥の6畳間には古い桐だんすと、座布団の色が少し褪せた座卓、壁際には黒電話、窓辺には日焼けしたレースのカーテンが掛かっていた。
女は座卓の向こうへ座りながら言った。
「斉藤です。昨日も言いましたけど、売ると決めたわけじゃないんですよ」
「ええ」
理恵はまっすぐ答えた。
「今日は、無理に決めていただくために来たんじゃありません。まず、お困りのことを聞きに来ました」
その言い方で、斉藤の肩の力が少しだけ抜けた。順子は横で、何も急がせない顔をして座っている。相手が先に口を開くのを待つ顔だった。
斉藤はふきんを膝の上で折り直し、少し黙ってから言った。
「困っていることなら、いくらでもありますよ。税金は重いし、空きも増えてるし、夜は無断で停める人もいるし」
理恵は静かにうなずいた。
「昨日見た時、10台入らないくらいで、3台空いていました」
斉藤は驚いた顔をした。
「よく見てるのね」
「買うかどうかを決める前に、そこは見ます」
理恵はそこで口をつぐみ、斉藤が続けるのを待った。
斉藤は観念したように小さく息をついた。
「主人が元気なころは、あれでよかったんです。月極の集金も、草刈りも、看板の直しも、全部あの人がやっていましたから。でも、いなくなったら駄目ね。私1人じゃ、電話が鳴るたびに面倒で。空きが出ても、すぐ次を入れようという気も起きない。舗装も直したほうがいいって分かってるんですけど、お金を入れる気になれなくて」
順子がそこでやわらかく言った。
「ご主人がやっていたものを、そのまま自分1人で抱えるのはしんどいですよね」
斉藤は、その言葉にはすぐ返した。
「ええ。しかも息子は埼玉で所帯を持ってしまって、こっちへ戻る気はないんです。『売れるなら売れば』と簡単に言うけど、毎日見てるのは私でしょう。そんなに簡単じゃないんですよ」
そう言いながら、斉藤は押し入れの上の棚から茶封筒を取ってきた。中には固定資産税の納付書、月極駐車場の古い契約書の控え、手書きの集金帳が入っていた。紙は端が少し丸まり、長く同じ封筒へ入れっぱなしだったことが分かる。
理恵はそれを1枚ずつ見た。話を難しくしないよう、数字だけを追った。税額、空きの月数、入ってくる駐車料。十分だった。斉藤が困っているのは、値段の夢ではない。面倒が重くなりすぎたことだった。
理恵は言った。
「駐車場、見せてもらえますか」
斉藤はすぐ立ち上がった。
3人で裏口から外へ出ると、朝の光が少し強くなっていた。駐車場は昨日見たままだった。白い区画線は薄れ、端のほうの草は短くも長くもない中途半端な伸び方で、しばらく刈っていないことが分かる。入口の脇には古い木の看板が立ち、「斉藤駐車場」の文字だけが日に焼けずに残っていた。近づくと、板の裏側に新しい木目が見える。看板だけは、ごくたまに触っていたのだろう。
理恵は入口に立ち、前の道を通る車の数を見た。土曜の朝でも、工事関係らしいワゴン車が2台続けて通る。駅からの歩きの距離も、やはり長すぎない。ここは使える。昨日見た時より、その確信が強くなった。
順子は看板を見て、斉藤へ聞いた。
「これ、ご主人が作ったんですか」
斉藤はすぐにそちらを見た。
「ええ。町工場に板だけ切ってもらって、字は自分で書いたんです」
声が、そこで少し変わった。理恵はその変化を見逃さなかった。問題は、ただ高く売るかどうかではない。主人が残したものを、自分の手で終わらせることへの引っかかりもあるのだ。
3人は座敷へ戻った。斉藤が麦茶を出すと、グラスの表面に細かな水滴が浮いた。理恵は一口だけ飲み、冷たさで頭を整えた。それから、まっすぐ言った。
「斉藤さん。私は、今日ここで話を長引かせるつもりはありません」
斉藤は黙って理恵を見た。
「うちが買うなら、値段は3,000万円で考えます。今日ここで、うちに売ると決めていただけるなら、手付は300万円を置きます。残りは10日以内に払います。測量と司法書士の手配はこちらでやります。難しい話で引っぱりません」
座敷が静かになった。壁の時計が、こち、こち、と鳴っている。
斉藤はすぐには返事をしなかった。困っている人の沈黙だった。欲の沈黙ではない。順子はそこを見て、先に口を開いた。
「後になって、もう少し高く売れたかもしれないと考えてしまうんですよね」
斉藤は小さくうなずいた。
「そうです。あと、それだけじゃないんです」
理恵は待った。
「売るなら売るでいいんです。でも、すぐ看板を外されて、知らない名前に変わって、主人がやっていたものがその日のうちに消えるみたいなのは、ちょっとね」
理恵はそれを聞いても、すぐ値段の話へ戻さなかった。引っかかっているのは金額だけではないと分かったからである。
「分かりました」
理恵は言った。
「契約したあともしばらくは、看板はそのままでいいです。急いで外しません。名義は変わっても、募集の札を出すまでは『斉藤駐車場』のままにします」
斉藤の目が少しだけ上がった。
理恵は続けた。
「その代わり、話は今日ここで決めたい。値段は3,200万円にします。ここで決めましょう」
順子は横で、余計な言葉を足さなかった。ここは理恵の場だと分かっている顔だった。
斉藤は膝の上の手を握ったり開いたりした。やがて、座卓の上の税の納付書へ目を落とし、それから壁際の黒電話を見た。長く迷ってきた人の顔だった。最後に、小さく息を吐いた。
「……お願いします」
その一言で、部屋の空気が変わった。
理恵はすぐにバッグを開けた。書類入れから買付証のひな型を出し、日付、物件、金額、手付、残金の期限を、読み上げながら書いた。紙の上をボールペンが走る、さらさらという音がした。順子は間違いがないか横から見ている。斉藤は立って印鑑を取りに行き、仏壇の横の小引き出しから朱肉と一緒に持ってきた。
茶封筒から札束を出すと、部屋の空気が少し張った。新しい札と古い札が混じっている。紙の匂いが、畳と線香の匂いの上へ重なった。理恵は300万円を座卓の上へきちんと並べず、そのまま封筒ごと置いた。
「手付です。数えて下さい」
斉藤は封筒を受け取る手が少し震えていた。だが、1枚ずつ数えるときの指先は思ったより確かだった。最後まで数え終えると、朱肉を開けた。ふたを開けた瞬間、赤い油の匂いがふっと立つ。斉藤は買付証へ印を押した。少しずれたが、それで十分だった。理恵も署名し、順子が受取の預り証をその場で書いた。
書類が重なった時、理恵はようやく息を吐いた。最初の1件は、口約束ではなく、紙になった。
◇ ◇ ◇
(1986年4月19日土曜日午前10時40分、東京・大崎駅東口、石渡ビル前)
そのころ達也は、石渡のビルの前に立っていた。土曜の朝の光が外階段の錆を白く浮かせ、手すりの冷たさが手のひらに残る。階段は急だが、上がれないほどではない。2階の扉の前には古い新聞受けがあり、中は空だった。誰も使っていない空き方である。
達也は下へ降りると、1階の印刷屋の主人に声をかけた。
「2階、電話はまだ生きてますか」
主人はインクで少し黒くなった指をエプロンで拭きながら言った。
「線は来てるよ。前の借り手が抜いただけだ。裏口もあるし、荷物を運ぶならそっちのほうが楽だね」
達也は裏の細い路地へ回った。たしかに、狭いが荷を入れられないほどではない。机2つ、電話1本、書類棚いくつか。仮の現場事務所なら十分だ。達也はそれだけ確かめると、メモ帳へ書いた。
「階段は急だ。でも使える。裏口あり。電話線あり」
必要なことは、それで足りた。
◇ ◇ ◇
(1986年4月19日土曜日午後0時15分、品川・尚人の持ちビル内早乙女土地売買㈱)
昼過ぎに3人が事務所へ戻ると、部屋の中は朝より少し熱を持っていた。窓から入る光が机の上の紙を白くし、買ってきたばかりのコロナバンの鍵が金属の光を返している。理恵は書類入れから、さっきの買付証を出して机の真ん中へ置いた。
「斉藤さんの駐車場、話がまとまった」
達也が先に笑った。
「早かったな」
順子は椅子へ腰を下ろしながら言った。
「向こうも、もう長く持つ気が切れてたのよ。高く売れると期待している顔じゃなかった」
理恵はうなずいた。
「値段だけの話じゃなかった。看板を急いで外されたくなかったんだと思う」
達也は自分のメモ帳を広げた。
「石渡も悪くない。2階は古いけど、上がれる。裏口もある。電話線も来てる。手を入れれば、現場事務所で十分いける」
理恵は買付証の赤い印影を見ながら、ゆっくり言った。
「よし。順番どおり行く。次は石渡。そのあと、私道の奥」
順子が聞いた。
「斉藤は、月曜に司法書士ね」
「うん。今日のうちに杉浦さんへ回す」
理恵はそう言ってから、窓の外へ目をやった。品川の空は明るく、遠くのビルの壁が白く光っている。昨日の夕方までは、斉藤駐車場はただの候補の1つだった。だが、いまは違う。紙になり、金が動き、順番の一番先へ入った。
理恵は小さく言った。
「最初の1件はまとまった。でも、まだこれで終わりじゃない」
達也はすぐに返した。
「分かってる。これで、やっと始まったんだろ」
理恵はうなずいた。
その声のとおりだった。昨日までは、地図の上に赤い丸が打ってあるだけだった。今日からは違う。人の家へ上がり、困りごとを聞き、紙にして、金を置いた。早乙女土地売買㈱は、その朝はじめて、本当に物件を動かす会社になったのである。
机の上の買付証には、まだ朱肉の匂いがわずかに残っていた。
第17話では、理恵が初めて自分の言葉で売り手をまとめ、最初の1件を紙にした。ここで大きいのは、理恵たちが高い夢を見ている相手にぶつかったのではなく、もう抱えきれなくなっている相手に向き合ったことである。斉藤が重く感じていたのは税金や空き区画だけではない。亡くなった夫が残した駐車場を、自分の代で終わらせることへのためらいもあった。理恵はそこを聞き分けたから、値段だけで押し切らず、看板をしばらく残すという着地を出せた。
また、斉藤の家の中の空気、畳や線香の匂い、玄関先の古び方まで入ったことで、ただの商談ではなく、暮らしの引き渡しの場面になっている。そこがこの話の芯である。
そして理恵たちの側でも、会社はもう机上の名前ではない。電話をかけ、相手の家へ行き、書類を出し、その場で金を置くところまで進んだ。早乙女土地売買㈱は、この回で、現場で契約をまとめる会社へ変わったのである。




