第15話――「白いバン、最初の鍵」
品川の持ちビルの空き部屋は、この朝から早乙女土地売買㈱の本社になる。理恵は責任者として順子と達也を前に立ち、大崎を先、みなとみらいを後ろにつなぐ買付けの順を決める。売り手を洗う者、熱を拾う者、筋を読む者。その役割が一度に定まり、さらに社用車とスクーターまで揃うことで、会社は名前だけの器ではなく、その日のうちに外へ走り出す足を持つ。
(1986年4月18日金曜日午前9時、品川・尚人の持ちビル内早乙女土地売買㈱)
品川の持ちビルの一室は、つい昨日まで空き部屋だった。だが、朝の光がブラインドの隙間から白く差し込むころには、もう会社の部屋らしい顔つきになっていた。床にはワックスの匂いがまだ薄く残り、窓際には新しく運び込まれた机が3つ、少し間をあけて並べられている。壁には大崎駅東口の地図と、桜木町から新港ふ頭にかけての地図が画鋲で留められ、赤鉛筆と青鉛筆の印が何本も走っていた。電話機の脇には新しい名刺の束が置かれ、ガラス灰皿にはまだ何も入っていない。部屋の空気そのものが、これから金と人が出入りするのを待っているようだった。
理恵は、窓際の机の前に立っていた。紺のスーツの肩は朝の光を受けてきりりと見え、指先にはまだ新しい地図の紙の粉っぽさが残っている。順子は手帳を開き、土地の持ち主の名前を書き込むための万年筆を指で転がしていた。達也は壁の地図の前で腕を組み、大崎の東口から再開発の現場へ抜ける道筋を、目だけで何度もなぞっていた。
理恵は3人のあいだの空気が落ち着くのを待ってから、机の端へ指を置いた。爪の先が木の天板を小さく叩き、乾いた音がした。
「今日から、この部屋が早乙女土地売買の本社よ」
声は若いが、迷いがなかった。
「まず大崎から始める。横浜の調べも続けるけれど、本格的に金を入れるのは後だ。大崎で先に物件を押さえて、そこで商売の形を作る。そのあとで、みなとみらい周辺へ広げて、次の儲けを取りに行く。その順番で動く」
順子が顔を上げた。理恵の言い方が、もう娘ではなく責任者のそれになっているのを聞き分けたらしい。達也も壁から目を離し、黙って理恵を見た。
理恵は続けた。
「お母さんは、大崎で土地や建物を売りたがっている人を探して。税金の負担が重い人、建物が古くて持て余している人、相続でもめる前に手放したい人、そういう相手から先に当たって。最初から高く売れると信じ込んでいる人は、後回しでいい。兄さんは、工事会社や運送屋を回って、大崎の東口で今いちばん足りないものを聞いてきて。車を置く場所なのか、資材を置く場所なのか、仮の事務所なのか、それが分かれば十分。私は2人の話を聞いて、どの土地から先に買うかを決める」
順子は手帳を閉じた。革の表紙がぱたりと鳴る。
「大崎では、東口のまわりだけを見ればいいのね」
「駅前の高い土地は追わない。少し外れた場所で、あとで駐車場や事務所に使えそうな土地だけを買う」
理恵はそう言って、地図の上の赤丸を指で押さえた。
「狙うのは、小さな駐車場、古い雑居ビル、借地の古家、細い私道に面した角地よ。工事関係の人がすぐに使えそうな場所だけを買う」
達也がそこで口を開いた。
「横浜は?」
「横浜は、まず下調べだけ先に始める。桜木町寄り、高島町寄り、新港ふ頭の付け根、そのあたりを見ていく。狙うのは、倉庫、駐車場、古い事務所。いちばん高い場所や、中心の目立つ場所はまだ買わない」
理恵はそう言ってから、机の上の封筒へ手を伸ばした。中には尚人から回された資金表が入っている。紙を引き抜くと、インクの匂いがかすかに立った。
「使える上限は12億。でも、今日それを全部使うわけじゃない。大崎に7億、横浜に4億、残り1億は手元に残す。手付金が重なっても、登記や測量の金が増えても、最後に押す金が残るようにしておく」
順子が小さくうなずいた。
「それなら、向こうが最後まで迷った時に、こちらが押し切れるわね」
「そういうこと」
理恵は言い切った。
部屋の中には、外の品川の車の音が低く流れ込んでくる。窓の外では春の陽がビルの壁に反射し、白い光が机の角を細く光らせていた。新しい会社の朝は、まだ静かだった。だが、その静けさの下で、もう人の足音が走り出している気配がある。
理恵はそこで、話を切り替えた。
「それと、先に移動の足を作る。土地を見て回るにも、思い立った時にすぐ動ける車が要る」
順子が眉を上げる。
「社用車?」
「1台。あとスクーター3台」
達也が笑った。
「いきなりそこまでやるのか」
「土地売買は、思いついた時にすぐ現場へ行けるかどうかで半分決まるの。電車の時間を待っていたら遅い」
理恵はそう言って、机の上に置いてあった電話帳を引き寄せた。ページをめくるたび、紙がざら、と鳴る。もう目星はつけてあったのだろう。品川近くの中古車屋と、原付を扱う販売店の番号へ、迷いなく印がついている。
「兄さん、車屋へ行くわよ。お母さんはここで電話をかけて。大崎の土地の持ち主を、午前中で10件は当たってみて」
順子はもう返事より先に受話器を取っていた。黒い電話機のぬるい光沢が、窓の明るさの中で鈍く光る。
「分かった。大崎の東口のまわりから順に当たるわ」
理恵は達也へ視線を向けた。
「兄さんは運転できるでしょう」
「車も単車もな」
「じゃあ、両方見る」
達也はそれだけ答え、壁から外した地図を二つ折りにして脇へ挟んだ。歩き方が、もう仕事で外へ出る人間のそれになっていた。
◇ ◇ ◇
午前10時前、理恵と達也は持ちビルの外へ出た。表通りには、品川らしい乾いた車の流れがあり、トラックの排気が少し白く風へ混じっている。アスファルトはまだ昼ほど熱くないが、春の陽はもう容赦なく照り返していた。理恵はバッグを脇へ抱え、達也と並んで歩いた。目はもう、次に買う車の形を見にいっている。
最初に入った中古車店には、白と銀の営業車が何台も並んでいた。ボンネットの上に値札が置かれ、洗ったばかりのボディには水滴が細く残っている。ゴムとワックスとガソリンの匂いが、春の外気の中へむっと立っていた。
理恵は派手な車を見なかった。最初から、白いコロナバンだけを見た。荷室が広く、後ろに図面も書類箱も積める。外から見れば目立たず、営業に使っても浮かない。年式は少し落ちるが、塗装はまだきれいだった。
「これ」
理恵が言うと、達也は車体の横を一周し、タイヤと荷室を見た。ドアを開けると、古いビニールシートと洗剤の匂いがした。運転席へ腰を下ろしてキーを回すと、エンジンは一度低く咳払いのような音を立て、それから素直に回り始めた。
「悪くない。荷も積める」
理恵は販売員の説明を半分だけ聞いて、必要なところだけ拾った。
「今日、持って帰れますか」
販売員は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔へ戻った。
「書類が揃えば、仮渡しはできます」
「会社で買う。名義は早乙女土地売買株式会社」
そう言って理恵が名刺を出すと、販売員の目が少し変わった。若い娘の買い物と思っていたのが、会社の初動だと分かったのだろう。言葉づかいが、急に丁寧になった。
コロナバンはその場で押さえた。白いボディは朝の光を受けて、営業用らしい無愛想な顔をしている。だが、その無愛想さが今の会社にはちょうどよかった。
次は原付だった。スクーター屋の店先には、新車と中古の50ccが肩を寄せるように並んでいる。オイルとゴムの匂い、薄い鉄の匂い、磨かれたプラスチックの匂いが、狭い店の中でこもっていた。理恵はそこで、白、紺、黒の3台を選んだ。形は揃えず、だがどれも癖のない実用車だ。ホンダのタクトが2台、ヤマハのジョグが1台。どれも足回りが軽く、細い路地へ入っても取り回しがいい。
「私が白ね」
理恵が言った。
「兄さんは紺。お母さんは黒でいい」
達也が笑う。
「決めるのが早いな」
「仕事で使うんだから、色で迷ってどうするの」
理恵はそう返したが、白を自分へ取ったところに、少しだけ責任者の気負いが見えた。
店の奥でナンバーの手配の話が始まり、帳面へ会社名が書き込まれる。インクの匂いが立ち、ゴム印が紙へ押されるたび、机がこつ、と鳴った。理恵はその音を聞きながら、ようやく息をひとつ吐いた。会社の机、社用車、スクーター3台。まだ朝のうちなのに、形だけはもう出来始めている。
◇ ◇ ◇
品川の持ちビルへ戻ると、部屋の中の空気はすでに変わっていた。順子が電話を何本も回したらしく、机の上には大崎の東口周辺のメモが増え、青いボールペンの走り書きが何行も並んでいる。受話器を置いたばかりの手で、順子は髪を耳へかけた。
「10件どころじゃないわ。売る気のある人が6件、迷っている人が4件。借地が1件、相続で揉めかけているのが2件、固定資産税が重いとこぼした人が3件」
理恵は新しいキーを机の上へ置いた。金属が乾いた音を立てる。
「社用車、押さえた。スクーターも3台。午後には車は持って来られるって」
順子がふっと笑った。
「仕事が早いわね」
「今日から動くんだから、足がないと話にならない」
達也は地図を広げた。
「大崎は、ここから入る。東口の外側で、まず車を置ける場所からだ」
理恵は机の前へ戻り、壁の地図に新しくピンを打った。赤い頭の小さなピンが、紙の上へまっすぐ刺さる。
「よし。今日は本社を作った。車も足も揃えた。午後から、お母さんは1件目へ行って。兄さんは工事会社の話を拾って。私はこの部屋で、どの土地を先に買うか決める。ここから先は、待たないで動く」
窓の外では、品川の春の光が少しずつ高くなっていた。新しい会社の部屋には、ワックスと紙と電話機の熱の匂いが混じっている。そこへ今度は、外から戻ったばかりのガソリンとオイルの匂いまで加わった。まだ看板も新品のままなのに、もう部屋の空気だけは、長く人が働いてきた場所のように濃くなり始めていた。
理恵は壁の地図の前で腕を組んだ。若い顔だが、目つきだけはもう朝よりひとつ深くなっている。大崎の東口も、みなとみらいの周縁も、まだ紙の上の印にすぎない。だが、会社の鍵があり、車の鍵があり、人の分担が決まった以上、それらはもう空想ではなかった。
早乙女土地売買㈱は、その朝ようやく、机の上の名前から、動く会社になった。
この回では、理恵が初めて「任された娘」ではなく、「会社を動かす側の人間」として立ち上がった。順子は売り手の腹を探り、達也は工事屋と運送屋の熱を拾い、理恵はその両方を受けて地図の上に筋を引く。さらに、本社の一室、白いコロナバン、3台のスクーターが揃ったことで、計画は机上の線から現場の足へ変わった。第15話は、早乙女土地売買㈱が本当に会社として息をし始めた、その最初の朝である。




