第14話――「離れの灯、13億円の夜」
秋谷の旧海運商別邸は、尚人の手に渡っただけでは本宅にならない。管理人夫婦の荷が離れに入り、台所に火が入り、母屋に湯気と声が戻って、ようやく家は人の住む顔を見せ始める。その静かな夜の中で、尚人の頭はもう次の手を組んでいた。フランス人女性の一味を追うための聞き込み、大崎東口の買付、その両方が、コーヒーの苦みの向こうで少しずつ形になる。
(1986年4月17日木曜日午後5時過ぎ、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)
尚人が秋谷の本宅へ戻って来たとき、門の内側にはもう人の動く気配が満ちていた。夕方の光は西へ傾き、黒松の枝の影を砂利の上へまだらに落としている。バイクのエンジンを切ると、耳の奥に残っていた振動がすっと引き、そのかわりに、庭のどこかで板箱を下ろす鈍い音と、離れのほうから聞こえてくる人の声がはっきりした。
門の脇には、小さなトラックが1台寄せてあり、荷台にはまだ半分ほど荷が残っていた。茶箪笥らしい背の高い箱、布団袋、木箱、鍋釜を詰めた段ボール、古びた鏡台、それに細長い衣装箱。どれも使い込まれた暮らしの重みを持っている。荷台の木の床からは乾いた埃っぽい匂いが立ち、紐の擦れる音が風の中へ混じっていた。
離れの玄関先では、管理員の三浦新三が、汗のにじんだ額を手の甲でぬぐいながら、木箱を抱えていた。背はそれほど高くないが、腰の入れ方がうまく、重い物でも持ち上げるたびに重心がぶれない。その脇で澄江が風呂敷包みを胸へ抱え、草履の音を小さく立てながら出入りしている。ふたりとも、すでに何往復もしたらしく、着物の裾と袖口に細かな埃がついていた。
尚人はバイクを止め、ヘルメットを脱いだ。夕方の風が、汗ばんだ額と首筋をひやりと撫でる。まだ少しガソリンの匂いが上着に残っていた。
「戻りました」
声をかけると、新三がすぐに振り向いた。
「お帰りなさいませ。もう少しで片づきますが、まだ大物が残っておりまして」
尚人は返事の代わりに上着を脱ぎ、バイクのハンドルへ掛けた。
「手を貸します。3人でやれば早いでしょう」
澄江が、あら、と息を洩らした。
「そんな、旦那様に運んでいただくようなものでは……」
「運べば済む話です。どれを先に入れます」
そう言って荷台へ手をかけると、木の角が掌へごつりと当たった。箱は見た目より重く、持ち上げると腕へずしりと重みが乗る。だが、尚人が腰を落として抱えると、箱は素直に浮いた。
「じゃあ、これを先に」
新三が指したのは、小ぶりの茶箪笥だった。表面の艶は少し曇っているが、引き手の金具だけは手垢で黒く光っていた。尚人はそれを抱え、離れの上がり框をまたいだ。中はまだ荷を入れたばかりの匂いで満ちている。畳の青さ、古い木の匂い、布団袋に染みついた日なたの匂い。夕方の光が障子を通して白く広がり、畳の目がきれいに見えた。
「そっち、壁際へ寄せて下さい」
澄江の声が後ろから飛ぶ。さっきまで遠慮がちだったのに、置き場所のことになると急に迷いがない。尚人は言われた通り、箪笥を壁際へ据えた。床へ下ろすとき、木がきしむ小さな音がした。
そのあとも、3人で荷を運び続けた。新三は重さのある箱を先に分け、尚人へ持たせる順を見ていた。澄江は布物や台所道具を抱えて何度も離れとトラックのあいだを往復し、そのたびに風呂敷の端や箱の位置を細かく直す。尚人は衣装箱を肩へ担ぎ、鏡台を両手で抱え、鍋の入った段ボールを脇へ押さえた。砂利を踏むたび、足もとでしゃり、と乾いた音が立つ。荷台の木板は夕方の熱を少し残しており、ロープは手にざらついた。ひとつ運ぶごとに、汗が背中へじわりと広がる。だが、夕方の風がその汗をすぐに冷やし、潮を含んだ空気が肺へ入ると、身体の芯だけがはっきり起きてくる感じがあった。
離れの中も、荷が入るたびに少しずつ人の住む場所らしくなっていった。最初はがらんとしていた座敷に茶箪笥が据わり、押入れへ布団袋が納まり、台所の棚へ鍋と皿が並び、隅に置かれた火鉢や古い座卓が、急にその部屋へ昔からあった物のような顔をし始める。暮らしとは、こうして品がひとつずつ納まることで形になるのだと、尚人は運びながら思った。
最後に残ったのは、少し大きめの木箱と、束ねた竹箒、洗い桶、それに小さな神棚の箱だった。新三はその箱だけは、自分で持つと言って譲らなかった。胸の前へ抱えたまま、離れの床の間に近い棚の上へ静かに置く。その手つきに、長く住んできた家を離れる人間の、最後の礼儀のようなものがあった。
荷が全部納まるころには、空はすっかり夕方の色へ移っていた。砂利道の白さも少し鈍くなり、黒松の影がさっきより長く伸びている。新三は腰へ手を当てて、ふう、と息を吐いた。澄江も額の汗を手拭いで押さえながら、離れの入口から部屋の中を見渡した。
「これで、どうにか住めますね」
その声には、ほっとした響きが混じっていた。新三も、ええ、とひとつうなずいた。尚人は離れの座敷を一通り見てから、門のほうへ目をやった。もう荷台は空で、さっきまで積まれていた荷物の形だけが薄く板の上に残っている。
「間に合ってよかった」
尚人がそう言うと、新三は少し照れたように頭を下げた。
「旦那様に手伝っていただけるとは思いませんでした。3人でやると違いますな」
「重い物ほど、人数を掛けたほうが早い」
尚人はそう返したが、声はやわらかかった。命じるだけでなく、自分でも手を出した後のほうが、言葉が素直に届くことを、尚人は知っていた。
そのころには、離れの台所からもう火の気が立っていた。澄江は、荷が納まるやいなや、まるで待っていたように台所へ引っ込んでいたらしい。しばらくすると、母屋のほうまで、出汁の匂いと味噌の匂いが細く流れてきた。煮える鍋の気配、包丁がまな板へ当たる音、器の触れ合う音。広い敷地の中で、その一角だけが急に生活の熱を持ち始めた。
尚人が母屋へ戻り、手拭いで顔を拭いていると、しばらくして澄江が盆を持って現れた。炊きたての飯の湯気が白く立ち、焼き魚の香ばしさと、煮物の醤油の匂いがそのあとを追う。味噌汁の椀からは、出汁と葱の青い匂いが立っていた。引っ越しを終えたばかりの離れで、自分たちもまだ落ち着いていないはずなのに、夕食だけはきちんと整っている。
澄江は、盆を尚人の前へ置いて、背筋を伸ばした。
「急いで拵えましたので、粗末ですが」
「十分です」
尚人は湯気の立つ椀を見ながら言った。飯の匂いが腹へまっすぐ落ちる。汗をかいたあとの身体には、それだけでうまそうだった。
澄江は、それ以上は座らず、離れのほうへ戻る気配を見せた。自分たちは向こうで食べるつもりなのだろう。尚人はその前に、ひとつ思い出して声をかけた。
「澄江さん」
「はい」
「明日の朝10時に、以前の屋敷の持ち主の奥様、榎本啓子さんが見えます。母屋へ通すことになるでしょうから、そのつもりでいて下さい」
澄江は、少しだけ目を上げ、それからすぐにうなずいた。
「かしこまりました。お茶の支度もしておきます」
「お願いします」
澄江はもう一度、ていねいに頭を下げてから離れへ戻っていった。足袋の底が板敷きを擦る音が遠ざかり、そのあとでまた、離れのほうから新三の低い声と、器を並べる音が微かに聞こえた。
尚人はひとり母屋に残り、湯気の立つ膳へ向き直った。庭の外では、夕方の風が黒松の梢を鳴らし、池の水がどこかで石へ触れている。敷地の中にはもう、買ったばかりの空っぽの家の気配ではなく、人が戻り、火が入り、声が宿る家の気配が生まれていた。尚人は箸を取り、その静かな変化を、湯気の向こうに確かに見ていた。
◇ ◇ ◇
母屋へ戻った尚人は、夕食を食べ終えると、座敷の隅の小机へ肘を置き、澄江が淹れてくれたコーヒーをゆっくり口に運んだ。湯気はもう細くなっていたが、焦がした豆の苦い香りはまだはっきり残っている。庭のほうでは、夕方の風が黒松の梢を渡り、池の水が石に触れるかすかな音が絶えず続いていた。障子の向こうはすでに薄暗く、広い母屋の中には、さっきまで人が出入りしていた気配だけが、まだ温度のように残っている。
尚人は、黒いコーヒーの面を見ながら、フランス人女性の一味のことを考えていた。ゆかりをこちらへ引き寄せたのはいい。だが、ゆかりが知っているのは入口までだ。金を出している女がいて、その下に日本人の手足が何人かいる。さらに、その奥に、顔を出さない元締めがいるはずだった。ひとりずつ剥がしていくしかない。ホテルの名、酒の席、勘定を払う男、車を回す若いの、そういう細い糸を拾っていけば、いつか本体へ届く。
だが、どうやって。
尚人はカップを置いた。陶器が木の天板に触れて、小さく乾いた音がした。
やはり、夜の店で聞き込みをするしかない。
昼の顔では聞けない話がある。酒が入って、女が油断し、男が見栄を張る場所でしか浮いてこない名がある。ゆかり一人に頼るのではなく、横須賀中央の店をいくつか当たり、フランス女の連れや、末端の運び役の顔を拾っていく。遠回りに見えても、それがいちばん早い。尚人はそう腹を決めた。
そのとき、部屋の隅の黒電話が鳴った。静まり返っていた母屋の中で、ベルの音だけが妙に硬く響く。尚人は受話器を取り上げた。掌へ、少しぬるくなったプラスチックの感触が残る。
「はい」
「社長。理恵です」
倉田理恵だった。若い女の声だが、用件を急ぐ調子が最初から混じっている。向こうでも、机の上へ図面でも広げているのだろう。紙をめくる気配が、受話器の奥でかすかにした。
「大崎の東口周りの物件買付けの件ですが、資金はどのくらい使えますか?」
尚人は、庭の暗がりへ目をやった。頭の中で数字が自然に並ぶ。小田原で抜いた金、いま動かせる金、残しておくべき金。その並びは、もう身体の癖になっている。
「そうだな。小田原で3億儲かったから、13億弱の資金が使える。まあ、12億までにしておけ」
理恵の返事は早かった。
「了解しました」
すぐに話を切るつもりだった尚人は、ふと思い出したように言葉を足した。
「それと、お母さんの順子に言っておけ。小田原で儲かったから、ボーナスとして300万円振り込むとな」
受話器の向こうで、一瞬だけ息が止まった。次いで、理恵の声がひとつ高くなった。
「ええ!! そんなに貰えるの?」
尚人は、口元だけで少し笑った。若い声の驚き方が、妙にまっすぐで悪くなかった。
「そうだ。ひとりひとりに、儲かった分の1%やろう」
「分かったわ。私も頑張る」
「頑張れよ」
そう言って受話器を置くと、さっきよりも母屋の静けさが深く感じられた。理恵の明るい声だけが、まだ耳の奥へ少し残っている。尚人は冷めかけたコーヒーを飲みきった。苦みが舌の上へ広がり、あとから豆の重い香りが鼻へ抜ける。今日一日で、女にも金にも土地にも手を打った。その感触が、ようやく胸の奥でひとつにまとまり始めていた。
尚人は立ち上がり、風呂場へ向かった。板敷きを渡る足音が、夜の家の中で小さく返る。浴室の戸を開けると、まださっきの湯気の匂いが少し残っていた。湯に肩まで沈むと、汗をかいた背中と、バイクの風で冷えた脚がいっぺんにほどける。熱が皮膚からじわりと入り、肩の奥に固まっていたものがゆっくり崩れていく。耳を澄ますと、外では風がまた松を鳴らし、遠くで離れの戸の開け閉めする音が一度だけした。
湯から上がったあとの身体は軽かった。寝間着に着替え、布団へ入ると、綿の匂いと、干した日の名残の乾いた匂いが鼻へ届く。障子の向こうの闇はもう濃く、母屋の中の音もほとんど消えていた。考えるべきことはまだある。フランス人女性の線も、大崎東口の買付けも、明日来る榎本啓子のこともある。だが、今夜はもう頭を無理に回さないことにした。
尚人は片腕を枕の脇へ投げ出し、ゆっくり息を吐いた。池の水の音が、どこか遠くで細く続いている。その音を聞いているうちに、まぶたの裏の暗さが少しずつ深くなり、尚人は穏やかな眠りへ沈んでいった。
この回では、秋谷の屋敷に暮らしの音と匂いが入り、尚人の本宅がようやく本当の意味で立ち上がった。三浦夫妻の引っ越しを手伝い、澄江の作る夕食を受け、夜にはコーヒーを飲みながら次の追跡を考える。派手な勝負の回ではないが、家を自分の場所へ変えていく手つきと、次の商売へ向かう頭の動きとが、同じ夜の中にきれいに並んだ回である。理恵からの電話が入ることで、尚人の世界が秋谷だけで閉じず、横須賀、品川、大崎へと同時につながっていることもはっきりした。




