第13話――「100万円の封筒、5時の本宅」
尚人は、女に金を渡し、甥に土地の段取りを命じ、夕方には秋谷の本宅へ戻ってくる。金も土地も人も、動かしただけでは自分の物にならない。見える形へ整え、手を入れ、住める場所に変えていくことで、はじめて本当の意味を持ち始める。
(1986年4月17日木曜日午後3時過ぎ、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)
尚人は、母屋の座敷でゆかりに封筒を差し出した。白い封筒は厚く、手に取る前から中身の重みが分かる。ゆかりが目を上げると、尚人は淡々と言った。
「頼んだ仕事の謝礼だ。危ない橋を渡らせることになる。その分は払う」
ゆかりは、はい、とも、いいえ、ともすぐには言えなかった。封筒の口を少しだけ開くと、中には帯封のついた札束がきちんと収まっている。新しい紙幣の乾いた匂いが、畳と木の匂いの中へ生々しく混じった。指先で触れると、紙は思った以上に硬く、角がぴたりとそろっていた。
「……100万?」
声が少し上ずった。昼の光が障子を通して座敷へ入り、札束の縁だけが白く浮いて見えた。
「多いと思うなら、仕事の危なさをまだ甘く見てる」
尚人はそう言って、ゆかりの顔を見た。
「このくらいは当たり前だ」
ゆかりは封筒を胸に引き寄せた。心臓がどくどく打っているのが、自分でも分かる。金の重みだけではなかった。信用され、選ばれ、危ない仕事の中へ自分だけが一歩入れられた。その事実が、金以上に胸の奥を熱くしていた。
尚人は通帳と計算用紙を脇へ寄せた。普通預金の残高は3376万0500円。数字は減っているのに、不思議と惜しいとは思わなかった。これは消える金ではない。先へ進むために、人へ替えた金だった。
屋敷を出るころには、午後の光が少し傾きはじめていた。庭の黒松の影は長く伸び、池の水は白く光るところと暗く沈むところに分かれている。潮を含んだ風が吹くたび、葦の葉がかすかに鳴った。尚人はバイクを引き出し、キックを踏み込んだ。エンジンが腹に響く低い音を立て、車体が小さく震える。ガソリンと機械油の匂いが立ち、春の空気が急に町の匂いへ近づいた。
ゆかりは封筒をポーチの奥へしまい、何度も口金を確かめた。それから尚人の後ろへまたがる。最初は遠慮がちに腰へ手を回したが、バイクが走り出すと、すぐに両腕へ力が入った。尚人の背中は広く、肩は固く、春物の上着越しにも胸板の厚さが伝わる。加速するたび、体がぐっと後ろへ持っていかれそうになり、ゆかりはなおさら強くしがみついた。
秋谷の道を抜ける風は、まだ海の湿り気を残していた。頬に当たる風は冷たいのに、尚人の背に押しつけた胸もとだけが妙に熱い。カーブで車体が傾くたび、尚人の体の動きがそのまま腰へ伝わる。ゆかりは唇を少し開き、目を細めた。怖いのではない。速さと、金の重みと、男の体へしがみついている感触とがいっぺんに来て、腹の奥が甘く痺れるように熱くなった。
道路脇の家並みが流れ、店先の看板が光をはじき、信号待ちの車の列のあいだを風が抜ける。バイクが少し速度を上げるたび、ゆかりの髪が後ろへあおられ、香水の薄い匂いが自分のまわりでほどけた。ヘルメット越しに聞こえる町の音はくぐもっている。だが、尚人の体に伝わるエンジンの振動だけははっきりしていて、それが妙に心地よかった。
「すごい……」
信号で止まった拍子に、ゆかりが尚人の背中へ頬を押しつけたまま小さく言った。自分でも何がすごいのか、うまく言えない。100万円を持っていることか、秋谷の屋敷を見たことか、いまこの男の背中にしがみついて町を走っていることか、その全部だった。
横須賀中央へ入ると、人の気配と車の音が一気に濃くなった。バスの排気、商店街のざわめき、駅前へ吸い込まれていく人の流れ。尚人は慣れた手つきでバイクを操り、駅前の少し外れた場所でゆっくり停めた。エンジンが止まると、急に静かになり、その静けさの中でゆかりは自分の息が少し乱れているのに気づいた。
「着いたぞ」
尚人が振り向くと、ゆかりはまだ少し名残惜しそうに腕をほどいた。地面へ足を下ろした瞬間、膝の奥がわずかに頼りなくなった。ポーチの中の札束は、乗っている間ずっと腹の前で確かな重みを持ち続けていた。
「ありがとう」
ゆかりはそう言って笑ったが、その声はいつもの店の女の声より少し低かった。目の中にまだ熱が残っている。尚人の背中に回していた手の感触も、風の速さも、胸の高鳴りも、まだ体の中から消えていなかった。
尚人は軽くうなずき、バイクを発進させた。駅前のざわめきを離れ、持ちビルのあるほうへ戻る。午後の光は少しずつ色を深め、建物の壁と道路の白線を斜めに照らしていた。尚人が自分の持ちビルへ着いたとき、ちょうど午後4時だった。エンジンを切ると、耳の奥に残っていた振動がようやく静まる。だが、今日一日で動いた金と女と仕事の気配は、まだ体の中で熱を持ったままだった。
◇ ◇ ◇
(1986年4月17日木曜日午後4時すぎ、品川・尚人の持ちビル・倉田開発㈱事務所)
尚人が持ちビルの前でバイクを止めた時、西へ傾きかけた春の陽が、白い外壁へ斜めに当たっていた。エンジンを切ると、耳の奥に残っていた低い振動がようやく静まり、代わりに表通りを走る車の音と、遠くで鳴る工事の金属音が聞こえてきた。秋谷から横須賀中央、そこからここまで、風に当たり続けた頬はまだ少し熱く、上着の内側にはガソリンと潮気の混じった匂いがかすかに残っていた。
ガラス扉を押して中へ入ると、外の排気の匂いが切れた。代わりに、床のワックス、乾いた紙、コピー機の熱、それに少しだけ古い建物の木の匂いが鼻へ入る。階段の踊り場には、昼の光が細長く落ちていた。尚人は一段飛ばしに二階へ上がり、廊下の突き当たりにある倉田開発㈱の扉を開けた。
部屋の中では、電話の受話器が机の上へ戻される小さな音がした。窓際の机に座っていた佑馬が顔を上げる。白いワイシャツの袖は肘までまくってあり、ネクタイは少し緩んでいた。机の上には、町田小山田と相原の公図、測量図の写し、業者の見積書、赤鉛筆で書き込みの入った住宅地図が何枚も広がっている。灰皿には短い吸い殻が二本、まだ薄く煙の匂いを残していた。
「叔父さん」
佑馬はすぐに立ち上がった。声は前より落ち着いていたが、机の上の紙の散らばり方に、この三日ほどの慌ただしさが出ていた。尚人は部屋の真ん中まで入ると、まず壁の地図へ目をやった。小山田の谷には赤い丸がいくつも打たれ、相原の県道沿いには青い線が何本も引かれている。紙の上ではもう、土地はただの地番ではなく、手を入れる順番と金の流れに変わり始めていた。
「進み具合を聞く」
尚人がそう言うと、佑馬は机の端の書類を手早くそろえた。紙が擦れて乾いた音を立てる。部屋の隅では、小さな卓上扇風機が回っていて、まだ四月なのに少し熱を持ち始めた事務所の空気をゆっくり動かしていた。
「まず小山田です」
佑馬は一枚目の図面を引き寄せた。指先が、入口から谷へ落ちる細い道筋をなぞる。
「測量屋は明日から入ります。境界杭が消えている箇所が三つ、古いまま残っている箇所が二つあります。入口側はまだいいんですが、谷へ入る途中の法面が雨で少し流れてます。赤土の筋が二本、はっきり出てます」
尚人は図面ではなく、佑馬の顔を見た。
「水は」
「今日、設備屋を一度入れました。上のほうはまだ締まってますけど、谷側はやっぱりぬかるみやすい。側溝の勾配も甘いです。水そのものが湧いてるわけじゃない。ただ、雨水の逃がし方が悪い。だから、土をいじる前に排水の道筋だけ先に決めます」
話しながら佑馬は、別の紙を出した。簡単な見立て図で、谷へ向かって青い矢印が何本も引いてある。
「見せ方だけなら、草刈りと入口の掃きだけでずいぶん変わります。実際、もう今日の午後、近所の雑貨屋の婆さんが『誰か本気でやるのかい』って声を掛けてきたそうです。噂は動き始めてます」
尚人は小さくうなずいた。そこまでは想定どおりだった。草と泥を放っておけば死んだ土地に見える。だが、入口の顔が変われば、近所はすぐ気づく。土地はまず、見た目で息を吹き返す。
◇ ◇ ◇
「角はどうだ」
佑馬はそこで少し口元を引き締めた。
「まだ押さえたままです。名義も金額も表には出してません。ただ、あそこだけ見に来たらしい車は一台ありました。白いクラウンで、昼過ぎに入口で少し止まって、すぐ引き返したそうです」
「どこの人間か分かるか」
「まだそこまでは。ただ、地元の農家筋じゃない。車も服も、そういう感じじゃなかったと」
尚人は、鼻の奥に小山田の赤土の湿った匂いを思い出した。まだ正式な買付の話が飛び込む時期ではない。だが、動かし始めた気配だけは、もう人の鼻をくすぐっているらしかった。
「相原は」
尚人が言うと、佑馬はすぐに青線の入った図面へ持ち替えた。こちらは紙の上でも表情が違った。乾いた直線、広い間口、県道の太い線。小山田よりずっと事業用地らしい顔をしている。
「相原は早いです」
佑馬の声が少しだけ明るくなった。
「一昨日のうちに草刈りを入れました。今日は排水溝の詰まりをさらってます。ヘドロと落ち葉がかなり溜まってましたが、半分以上は抜けました。砕石はもう四トン車二台分を手配済みで、明日の朝に入ります。入口の見え方が変われば、県道からの印象がかなり違うはずです」
机の上には、現場で撮ったらしいインスタント写真も並んでいた。草に埋もれた入口、泥の詰まった側溝、古びた看板。別の写真では、すでに草が倒され、排水溝の縁が見えている。たった数日なのに、土地の顔つきが少し変わっていた。
「大型車は」
「いけます。試しに砕石屋の四トンは入れてます。切り返しは一度必要でしたが、入口幅そのものは十分です。荒れたままだと貧相に見えますが、骨はやっぱり悪くない」
尚人は写真を一枚手に取った。印画紙の表面は少しざらつき、現場の白い光がそのまま薄く焼きついている。県道の脇に放り出されたように見えていた土地が、手を入れただけで急に商売の匂いを持ち始めていた。
「土建屋の見積もりは」
「概算だけ出てます」
佑馬はメモ帳を開いた。
「相原は入口まわり、排水、砕石、草刈りまでで当面250万円前後。看板を立てて、仮の柵を一部入れるなら、もう150万見ます。小山田はまだ測量が出ないとはっきりしませんが、赤土止めと水逃がしの初動で300万から400万。入口だけ整えるならもっと安い。ただ、谷まで本気でやるなら、その先がかかります」
尚人は椅子を引いて腰を下ろした。椅子の背が少しきしんだ。窓の外では、品川の車の流れが低くうなり、日差しはビルの壁を斜めに照らしている。秋谷の池の水も、横須賀中央の駅前も、まだ今日の中にある。だが今はもう、頭の中が土地の順番へ切り替わっていた。
「相原は、まず見える顔を作れ」
尚人はゆっくり言った。
「県道から見て、捨てた土地に見せるな。入口、砕石、草、看板。その4つを先に整えろ」
「はい」
「小山田は急ぐな。入口だけ生かしても谷は起きない。測量、水、境界、赤土。その理由を先に全部出せ」
佑馬はすぐにうなずいた。
「分かってます。見せ方で上げられるのは入口までです。その先は、理由を片づけないとどうにもならない」
尚人はそこで、机の上の写真から目を上げた。
「他社から正式な買付は、まだ来てないな」
「まだです」
佑馬は答えた。
「ただ、相原のほうは、通りがかりの運送屋と地元の不動産屋が二件、誰が動かしてるのか探りを入れてきました。名乗ってません。『どこか入ったのか』程度です。小山田はまだ静かです」
その答えは、尚人の読みとほとんど同じだった。相原は県道沿いで、変化が見えやすい。だから先に鼻の利く連中が寄ってくる。小山田は谷で奥まっているぶん、まだ地面の中に眠っている。
「ちょうどいい」
尚人は言った。
「今はまだ、こっちから騒ぐな。相原だけ、じわじわ顔を変えろ。向こうから聞いてきた時に、ようやく話を匂わせる」
佑馬は鉛筆を回しながら、小さく笑った。
「叔父さん、やっぱり相原は先に売る気ですね」
「売るとは言ってない」
「顔がそう言ってますよ」
尚人は返事の代わりに、写真を机の上へ戻した。乾いた紙の匂い、インクの匂い、灰皿の残り煙の匂いが、午後の事務所の少し温んだ空気に混じっている。こういう匂いの中で段取りを切っている時が、いちばん頭が澄むのを尚人は知っていた。
「おまえは、現場へ毎日顔を出せ」
「相原も小山田もですか」
「両方だ。電話だけで回すな。土の色と草の倒れ方は、現場へ行かないと分からん」
「はい」
佑馬は即座に答えた。もう若い甥の顔ではなく、会社の前面に立つ男の顔になっていた。疲れはある。だが、重い買付そのものは叔父が済ませ、その先の段取りを自分が預かる。その形が、いまの佑馬にはいちばん馴染むのだろう。
尚人はそこで一度、言葉を切った。窓の外では、四時を回った光が白いビルの壁から少し黄味を帯び始めている。
「それから、余計な線には手を広げるな」
佑馬は鉛筆を止めた。
「女のほうは、もう俺が見る。おまえは小山田と相原だけに専念しろ」
佑馬は一瞬だけ尚人の顔を見たが、すぐにうなずいた。
「分かりました。こっちは土地だけ見ます」
「それでいい。中途半端に二つ持つと、どっちも鈍る」
佑馬は、はい、と短く答えた。その返事には、余計な詮索をしないかわりに、自分の持ち場はきちんと守るという硬さがあった。
尚人は立ち上がり、窓際へ寄った。今日のうちに、秋谷では女を送り、ここでは土地の進みを確かめた。だが、佑馬に持たせる仕事は、あくまで土と境界と見せ方だ。金を動かしたあと、それを目に見える形へ変える。倉田開発㈱がいまやるべきなのは、それだけで十分だった。
「よし」
尚人は振り返って言った。
「相原は顔を作れ。小山田は腹を出せ。順番を間違えるな」
佑馬は椅子から立ち、はっきりとうなずいた。
「分かりました。相原は見せ方、小山田は中身ですね」
その声は、もう朝の電話の向こうで息を呑んでいた時のものではなかった。紙と土と人のあいだを回り始めた男の声だった。部屋の中では、卓上扇風機が変わらず静かに回り、机の上の図面の角だけをわずかに揺らしていた。倉田開発㈱の午後は、そうして乾いた紙の匂いの中で、次の一手へ進み始めていた。
◇ ◇ ◇
尚人はうなずきだけ返すと、倉田開発㈱の事務所を出た。扉が閉まると、部屋の中の紙と煙草の匂いがふっと遠のき、代わりに廊下の乾いた空気が頬へ当たる。階段を下りる足音が、古いビルの中でかすかに反響した。窓の外はもう夕方の色へ傾き始めていて、白い壁に当たる陽の光にも、昼の鋭さはなくなっていた。
ガラス扉を押して表へ出ると、外気はまだ明るいのに、どこか一日の終わりの匂いを混ぜ始めていた。排気ガス、温まったアスファルト、遠くの工事現場から流れてくる土埃の匂い。そこへ春先らしい少し青い風が通る。尚人は駐めてあったバイクへ歩み寄り、シートへ手を置いた。革は日を受けて少し温んでいる。キーを差し込み、キックを踏み込むと、エンジンが一度低く唸ってから目を覚ました。腹の底へ響く振動が、今日一日で切り替えてきた頭の中の歯車を、また別の回転へ押し直す。
まだ通勤ラッシュには早かった。道は混み切る前で、信号のつながりも悪くない。尚人はヘルメットをかぶり、車体を滑らせるように走り出した。ビル街のあいだを抜ける風は乾いている。交差点のたびに車の列はあるが、詰まって動かないほどではない。バスの吐き出す排気の白さ、配送トラックの低い唸り、信号待ちのあいだに横断歩道を急ぐ会社員の靴音。夕方へ向かう町はまだ忙しさの縁に立ったところで、その少し手前を、尚人のバイクだけが先へ抜けていく。
速度が乗ると、上着の裾が後ろへ引かれた。頬へ当たる風は冷たいが、その冷たさがむしろ頭を冴えさせる。秋谷の屋敷でゆかりへ渡した100万円の封筒、横須賀中央の駅前でほどいた女の腕、倉田開発の机の上へ広がっていた小山田と相原の図面。そのどれもがまだ今日の中にあり、消えずに残っていた。だが、いまは考えをひとつに寄せる。5時までに本宅へ戻ること。それだけでよかった。
道が空き始めると、車体はさらに軽くなった。高架の上では西日がフロントガラスに反射し、前を走る車の輪郭が金属の縁だけ光って見える。ガードレールの向こうでは、低い倉庫の屋根が夕方の光を受けて白く鈍った。風は町の匂いを運びながら、場所が変わるたび少しずつ性質を変える。街中では排気と油の匂いが強く、郊外へ寄るにつれて土と草の匂いが混じる。さらに海の近くへ入ると、そこへ塩気が戻ってくる。
尚人はアクセルを緩めず、だが飛ばしすぎもしなかった。急げば早く着く。だが、転べば全部が止まる。そういう計算は、もう身体に染みている。交差点をひとつ抜けるたび、時計の針もひとつずつ目盛りを刻む。管理人夫婦は今日、自分たちの荷を運び込むはずだった。先に戻って手を貸してやれば、屋敷の空気も少し違う。命じるだけではなく、最初の荷ほどは一緒に運ぶ。そのくらいはしておくべきだと尚人は思っていた。
やがて道の両脇の建物が低くなり、空が広がった。西へ傾いた陽が、白線や標識の金属に細く光る。海の匂いがはっきりしてくる。横須賀の町なかのざわめきから少し離れると、走行音のほかには風の音しか耳へ残らない時間ができた。エンジンの振動が膝と掌へ規則正しく伝わり、その単調さが妙に心地よい。今日一日の熱が、ようやく一枚ずつ身体の外へ抜けていく感じがした。
秋谷へ近づくころには、陽の色は少しやわらかくなっていた。家並みのあいだに見える木々の緑が濃くなり、道端の草の先が風にそよぐ。尚人は見慣れた角を曲がり、海から少し入ったほうへ車体を向けた。さっきまでの乾いた町の匂いは消え、代わりに土の湿り気と庭木の青い匂いが立ち始める。
門の前へ着いたのは、ちょうど午後5時だった。エンジンを切ると、耳の奥に残っていた振動がすっと静まる。その代わりに、松の梢を抜ける風の音と、遠くの波の気配がかすかに聞こえた。門の内側には、いつものように黒松の影が落ち、砂利道の上へまだらな夕方の光が散っている。管理人夫婦はまだ戻っていないらしい。庭先にも、玄関先にも、人の動く気配はなかった。
尚人はバイクを降り、門の内側を見渡した。屋敷は夕方の光の中で静かに沈み、広い敷地だけが先に彼を迎えている。ここから先は、今日の後始末ではない。これから始まる暮らしの手触りだ。尚人はヘルメットを外し、少し汗ばんだ額へ夕方の風を受けた。それから、管理人夫婦が荷を持って帰って来る前に、玄関まわりだけでも片づけておこうと、母屋のほうへ足を向けた。
尚人の一日が、女と金の熱から、土地と段取りの乾いた現実へ移り、最後には秋谷の本宅という生活の場へ戻ってくる。ゆかりへ渡した100万円も、倉田開発で確認した小山田と相原の進みも、どちらも尚人にとっては「先へ進めるための手」だが、夕方の本宅へ戻る場面で、ようやくその手が暮らしの中へつながる。次は、管理人夫婦の引っ越しを手伝いながら、秋谷の家がさらに尚人の生活へ近づいていく。




