第12話――「銀の小箱、池の畔の約束」
秋谷の旧海運商別邸は、尚人にとってただの買い物ではない。人を迎え、気持ちを動かし、これから先の仕事まで引き寄せるための場所になり始めている。ゆかりを連れて門をくぐったこの日、尚人は庭と屋敷を見せ、小さな贈り物を渡し、二人の距離をさらに縮めていく。春の光の下で結ばれる甘い約束は、やがて別の動きにもつながっていく。
(1986年4月17日木曜日午前11時前、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)
門の内へワゴン車が入ると、ゆかりは助手席の窓から身を乗り出すようにして庭を見た。黒松の枝が門の上へ広がり、その下をくぐると、砂利道がゆるく弧を描いて母屋の前まで続いている。石灯籠の肩には薄く苔がつき、春の光を受けた飛び石の縁だけが白く浮いていた。
車を降りたとたん、町の匂いがすっと切れた。代わりに、潮を含んだ風と、土の湿り気と、庭木の青い匂いが鼻へ入る。遠くで波の気配がかすかにあり、近くではどこかの枝で鳥が鳴いた。ゆかりは深く息を吸い、目を丸くした。
「すごい……ほんとに別世界みたい」
昼の光の下で見ると、屋敷は朝よりもいっそう大きく見えた。母屋の瓦は鈍く光り、縁側のガラス戸には庭の緑が揺れて映っている。離れは母屋の脇に少し離れて建ち、その先には白壁の土蔵が二棟、木立の向こうに半分だけ見えていた。
尚人は荷物を車へ残したまま、ゆかりを庭のほうへ促した。
「先に中より外を見よう。広いから、そのほうが分かりやすい」
「ええ。こんなお屋敷、歩いて見て回るだけでも楽しそう」
ゆかりはそう言って、石の上へ細い靴先をそっと乗せた。昼の街で見た時より、声が一段やわらかい。客を迎える女の声ではなく、目の前のものに本当に心を動かしている時の声だった。
母屋の前には黒松の立つ広い前庭があり、飛び石と石灯籠のあいだを砂利道がゆるく曲がっていた。尚人が先に立って歩くと、足もとの砂利がしゃり、と乾いた音を立てる。ゆかりも後ろからついて来て、ときどき立ち止まっては母屋の屋根や松の枝ぶりを見上げた。
「手入れしたら、もっときれいになるわね」
「いまはまだ、どこまで手を入れるか考えてるところだ」
「でも、このままでもいいわ。少しくたびれてる感じが、かえって贅沢」
その言い方が妙にこの家に似合って、尚人は少し笑った。
母屋の横へ回ると、細長い池が見えた。谷戸の湧き水を溜めたらしい水面は、陽が当たるところだけ明るく、奥は木の影で暗く沈んでいる。岸の半ばは葦と菖蒲に侵され、風が通るたび、細い葉がこすれ合ってかすかな音を立てた。水の上では小さな虫が光り、石の縁には湿った苔が貼りついている。
ゆかりは池のそばまで行き、身をかがめた。
「きれい。こういう池、昔の旅館みたい」
「手を入れれば、もっと水も澄むだろうな」
「夜も見てみたいわ。灯りが映ったら、きっと素敵」
尚人はその横顔を見た。昼の薄い化粧でも、池の反射した光が頬の下へやわらかく入って、店の中で見る時より若く見える。連れて来てよかった、と素直に思えた。
池の裏からは雑木林の斜面がそのまま敷地の奥へ続いていた。樫や椎に竹が混じり、昼でも少し薄暗い。足もとには落ち葉が厚く積もり、踏むと湿り気を含んだやわらかな音が返る。風が吹くと竹の葉がさやさや鳴り、青い匂いがふっと流れた。
「ここまで屋敷なの?」
「まだ全部は見切れてないけど、奥の雑木林まで入ってる」
「すごいわね……。ひとつの家というより、小さな公園みたい」
さらに裏手へ回ると、梅と柿の古木が枝を広げ、その脇に柚子の木も混じっていた。井戸のまわりには石組みの洗い場が残り、使わなくなった物干し台の脚が土の中へ半ば埋まっている。陽の匂いを含んだ土、古い木の皮、乾きかけた草の匂いが混ざり合って、裏庭は表よりも生活の気配が濃かった。
ゆかりは井戸の石縁へ手を置き、指先で苔をそっとなぞった。
「ちゃんと人が暮らしてた家なのね。見せるためだけの別荘じゃなくて」
「そうだな。そういう感じはする」
「私、こういうの好き。きれいすぎる家より、こっちのほうが落ち着く」
その言葉を聞いてから、尚人は母屋のほうを振り返った。縁側のガラスに庭の緑が映り、その奥に昨夜置いておいた小箱のことが頭に浮かぶ。
「じゃあ、もうひとつ見せたいものがある」
「なに?」
「中だ」
ゆかりは少し首をかしげながらも、すぐについて来た。廊下へ入ると、外の潮気は薄れ、古い木と畳の匂いが戻った。障子越しの光は白くやわらかく、昼の静けさが広い家の中へ満ちている。
尚人は洋間へ案内した。昨夜磨いておいたガラスの小箱は、小机の上に白い布を敷いて置いてある。昼の光が窓から斜めに入り、銀の縁とガラスの面をきれいに拾っていた。
ゆかりは部屋へ入るなり、その小箱に目を止めた。
「なに、これ……」
「昨日、家の中を見ていて出てきた。お前が喜びそうだと思って、少し磨いておいた」
尚人がそう言うと、ゆかりはゆっくり小机へ近づいた。ガラスの蓋に指をかけ、壊れ物へ触る時のように、そっと持ち上げる。澄んだ小さな音がして、箱が開いた。
中には、銀のシガレットケース、細い口紅差し、青い石のはまった粉入れ、琥珀色の香水瓶が、藤色のベルベットの上に整えて並んでいた。昼の光を受けた銀は、昨夜よりも明るく、青い石は小さいながらも澄んだ色を返している。
ゆかりは息をのんだ。
「……きれい」
声が小さくなった。店で客に向ける作った甘さではなく、本当に胸へ入った時の声だった。彼女は粉入れを持ち上げ、鏡をのぞきこんだ。曇りの取れた丸い鏡の中に、自分の顔がきちんと映るのを見て、口元がふわっとゆるむ。
「すごい。こんなの、私、初めて……。まるで映画の中の女の人みたい」
次に口紅差しをつまみ、指先でくるりと回した。細い銀の筒が光るたび、ゆかりの目まで明るくなる。香水瓶の栓を少しだけ抜いて香りを確かめた時には、嬉しさを隠しきれない顔になっていた。
「これ、本当に私にくれるの?」
「そのつもりで磨いた」
ゆかりは尚人を見た。昼の光の中で、その目だけが急に濡れたように見えた。何か言いかけて、言葉にならず、代わりにガラスの小箱を小机へ戻すと、そのまま尚人へ歩み寄ってきた。
「うれしい……」
声が掠れていた。次の瞬間、ゆかりは両腕を尚人の首へ回し、胸もとへ強く抱きついた。春物の布が擦れる音と、髪に残る軽い香水の匂いがいっぺんに近づく。尚人の胸に押し当てられた頬は温かく、細い肩は思ったよりも素直に震えていた。
「そんなに喜ぶとは思わなかった」
尚人が低く言うと、ゆかりは顔を上げた。目は笑っているのに、どこか少し真剣だった。
「だって……こういうの、ただ買って渡すのと違うもの。私が好きそうだって思って、見つけて、磨いてくれたんでしょう?」
尚人は答えず、ゆかりの背へ手を回した。薄い上着の下の体が、抱き寄せると素直に寄ってくる。ゆかりはそのまま尚人の胸へもう一度額を押しつけ、それから少しだけ顔を傾けた。
「ねえ……キスして」
声は甘えていたが、ふざけてはいなかった。尚人はその顔を少し見下ろした。昼の光の中で見ると、まつ毛の影が頬へ細く落ち、唇だけがやけにはっきり見える。
尚人はゆかりの腰を抱く手に力を入れ、もう片方の手で頬に触れた。肌はあたたかく、指先へやわらかさが返る。そのまま引き寄せると、ゆかりは目を閉じ、唇を少しだけ上向けた。
二人の唇が重なった。
最初は軽く触れるだけだったが、ゆかりはすぐに腕へ力を込め、尚人の首へしがみつくように寄ってきた。尚人も抱く力を緩めず、もう一度、今度は少し長く口づけた。窓の外では風が木の葉を鳴らし、遠くで鳥が一声だけ鳴いた。静かな洋間の中では、互いの息づかいだけが近く聞こえる。
唇が離れると、ゆかりはまだ目を閉じたまま、小さく息をついた。頬が少し赤くなっている。
「こんな家に連れて来られて、こんな物まで貰ったら……好きにならないほうが無理よ」
言ってから、自分で少し照れたように笑った。だが、その笑いはごまかしではなかった。尚人の腕の中で、ゆかりの体はもうさっきより深く預けられている。
尚人はその髪へ手を入れ、軽く撫でた。髪は昼の光を受けてやわらかく、指のあいだをすべる。
「まだ庭の奥も残ってる」
そう言うと、ゆかりは尚人の胸にもたれたまま、くすっと笑った。
「じゃあ、ちゃんと案内して。今日はもう、三崎なんてどうでもいいわ」
その言い方が、冗談のようでいて本気だった。尚人はゆかりを抱いたまま、窓の外の庭を見た。黒松の枝が風に揺れ、昼の光が池のほうで白く跳ねている。この家は、まだ全部を見せていない。だからこそ、引き寄せる余地があるのだと、尚人は静かに思った。
◇ ◇ ◇
池の畔には、昼の光がやわらかく落ちていた。葦の葉が風にこすれ、細い音を立てるたび、水面の光も揺れた。尚人とゆかりは、岸辺の石に腰を下ろし、澄江が用意してくれた弁当をひろげた。包みを解くと、まだ少し温もりが残っている。炊きたての飯の匂い、出汁を含んだ卵焼きの甘い香り、煮物の醤油の匂いが、池の湿った空気にまじって立った。
「わあ、ちゃんとしてる」
ゆかりはそう言って、うれしそうに箸を取った。薄い春の上着の袖口からのぞく手首が、昼の光を受けて白く見える。尚人が弁当箱を渡すと、ゆかりは笑って、「ありがとう」と言った。その声は、さっき洋間で小箱を抱いていた時よりも、少し落ち着いていた。だが、まだ胸の奥が熱を持っているのは、頬の色を見れば分かった。
尚人も弁当へ箸をつけた。飯は冷めても甘みがあり、卵焼きはやわらかい。煮しめの椎茸には出汁がよく入っていた。池のほうから吹いてくる風が、食べるたびに頬をなでていく。ゆかりはひと口ごとに小さく感想を漏らした。
「おいしい。こういうお弁当、外で食べると、なんだか特別ね」
「屋敷の中で食うより、こっちのほうがうまいかもな」
「そうね。池もあるし、風もいいし。ほんとに、どこか遠くへ来たみたい」
ゆかりはそう言って笑い、卵焼きを半分、尚人の弁当箱へそっと置いた。尚人が見ると、「その代わり、そっちの煮物ちょうだい」と言う。そんなやり取りが続くうちに、二人のあいだの空気は、店の客と女のものではなくなっていった。春の昼の光の下で、ただ一緒にいることが心地いい男女の空気だった。
食べながら、ゆかりはときどき尚人の肩へ寄った。弁当箱を膝に載せたまま、ふと顔を向けて、軽く口づける。唇が触れるたび、味噌や卵焼きの匂いの残る息が近づき、尚人はそのたびに腕を回して引き寄せた。強く求めるような口づけではない。だが、ゆかりのほうから何度も寄ってくるところに、気持ちの傾きが出ていた。
昼の光の中で見るゆかりは、夜の店で見せる顔よりずっとやわらかい。無理に笑わず、甘えたい時にはそのまま甘える。尚人の肩へ頭を預けたまま、池の水を見ている顔は、年相応の若さがあった。
弁当を食べ終えるころには、風も少しだけ温んでいた。ゆかりは空になった弁当箱を重ね、両手を後ろについたまま池のほうを見た。
「こんなところへ連れて来られたら、もう戻りたくなくなるわ」
「まだ家の中もある」
「そうね」
返事をしてから、ゆかりは尚人のほうへ顔を向けた。目が合うと、そのままゆっくり近づいてきた。尚人は肩を抱き寄せ、静かに口づけた。昼の光と水の匂いの中で交わす口づけは、洋間でした時よりも穏やかで、だが余計に体の奥へ残る感じがした。唇が離れても、ゆかりはすぐには離れず、尚人の胸へ額を預けていた。
そのあと二人は母屋へ戻った。廊下へ上がると、外の潮気は遠のき、畳と木の匂いが戻る。障子越しの光は白く静かで、広い家の中には、昼の眠たさのようなものが満ちていた。さっきまで外で風に吹かれていたせいか、屋内のぬくもりは余計にやさしく感じられた。
洋間を通り、座敷へ入る。庭の緑がガラス越しに揺れ、遠くで鳥が鳴いていた。ゆかりはそこで尚人の袖を引き、また口づけをねだった。今度は言葉ではなく、目と仕草で分かる。尚人が抱き寄せると、ゆかりはまっすぐ胸へ寄ってきた。
二人だけの時間は、そこからゆっくり流れた。着物の擦れる音もなく、障子越しの明るさだけが部屋の中で静かに動く。ときどき風が入るたび、庭木の青い匂いが薄く漂った。ゆかりは最初、少し照れたように笑っていたが、尚人の手が背中を撫で、髪をすくたび、その笑いは次第に消えていった。代わりに、目を閉じて息をつく回数が増え、腕の力が少しずつ強くなる。尚人へ預ける体の重みが、さっきより深くなっていくのが分かった。
ふたりは長く寄り添い、互いの熱を確かめ合った。穏やかな時間が続いたあと、ゆかりのほうから尚人を求めるように身を寄せてきた。さっきまでのやわらかな甘えとは違い、もっと素直で、勢いのある求め方だった。尚人もその気配を受け止め、抱く力を強めた。午後の光の中で交わしたふたりの時間は、静かなだけではなく、笑いも混じり、息も乱れ、思わず名を呼ぶほどの熱を帯びた。母屋の古い天井の下で、二人の気配だけが濃くなっていく。庭の風の音も、遠くの鳥の声も、そのあいだはずっと遠かった。
やがて落ち着くと、ゆかりは尚人の腕の中へ体を預けたまま、しばらく動かなかった。頬はまだ熱を持ち、髪は少し乱れている。だが、その顔には妙な晴れやかさがあった。店で客に見せる笑顔ではない。気持ちごと揺さぶられたあとにしか出ない、ゆるんだ顔だった。
尚人はゆかりの髪を指で整えながら、静かに言った。
「ゆかり、ひとつ頼みたいことがある」
「なに?」
声はまだ少しかすれていたが、嫌がる調子はまったくない。
「これから少し、俺の仕事を手伝ってほしい」
ゆかりは目を上げた。驚いた顔をするより先に、尚人の言葉の重さを測るように見つめてくる。
「仕事って、どんな?」
「細かい用事だ。人の出入りを見ることもあるし、女の目で見たほうが分かることもある。店の中で笑ってるだけじゃ拾えない話を、拾ってほしい時がある」
ゆかりは黙って聞いていた。尚人は言葉を急がなかった。窓の外では、風に揺れた枝が障子へ影を落とし、その影がゆっくり流れていく。
「無理にとは言わない。ただ、お前なら出来ると思ってる」
その一言を聞いた時、ゆかりの目の色が変わった。うれしさと、少しの緊張と、自分が選ばれたという実感がいちどに入った顔だった。
「……私でいいの?」
「いいから頼んでる」
ゆかりは唇をきゅっと結んでから、すぐに笑った。迷う顔ではなかった。
「やる。そんなの、一も二もなくやるわ」
答えたあと、自分でも早すぎたと思ったのか、小さく笑って尚人の胸へ頬を寄せた。
「だって、こんなふうに言われたら、断れるわけないもの」
◇ ◇ ◇
尚人はその肩を抱いたまま、少し声を落とした。
「それと、あのフランス人の女たちのことだが、いきなり縁を切るな」
ゆかりは少しだけ顔を上げた。意外だったのだろう。まつ毛がわずかに揺れた。
「切らなくていいの?」
「表向きは、いつもどおりでいい。ただ、深く入るな。向こうから声がかかった時だけ、誰がいたか、どこで会ったか、どんな日本人が出入りしてるか、それを俺に教えてくれ」
ゆかりは尚人の胸に頬を寄せたまま、しばらく黙っていた。庭では風が池の葦を揺らし、細い葉のこすれる音が障子の向こうから続いている。
「……私、あの人たちの全部を知ってるわけじゃないのよ」
「それでいい」
尚人はすぐに言った。
「全部を知ってる女なんて、向こうも使わない。だが、出入りしてる末端の顔や、よく使う店や、誰が勘定を払ってるかくらいは見てるはずだ」
ゆかりはそこで、少しだけ息をのんだ。尚人がそこまで読んでいることに驚いた顔だった。
「……見てるわ。何人か、いつもいる男はいる。フランス女たちだけで動いてるんじゃないってことくらいは、私にも分かる」
「名前は知らなくていい。顔、口調、来る時間、よく座る席、乗ってくる車。そういうので足りる」
ゆかりは尚人を見上げた。さっきまでの甘い熱とは別の色が、目の中へ少しずつ戻ってきていた。男に抱かれている女の顔の奥で、店で客を見てきた女の勘が起きてくる。
「私、最初は買い物の付き添いみたいなもので呼ばれただけだったの。日本語がうまく通らない時に、店を教えたり、電話を取ったり、それだけ。でも、何度か一緒にいるうちに、土地の話になる時だけ、別の男が来るのは分かった」
「どんな男だ」
「まだ、うまく言えない。でも、ひとりじゃないわ。フランス女が金を持ってる顔をしてても、話を決める時は日本人の男が入るの。あの人たち、そこだけ急に静かになるのよ」
尚人は黙って聞いた。急がせると、記憶はかえって逃げる。ゆかりの髪へ指を入れ、ゆっくり撫でると、彼女の肩の力が少し抜けた。
「無理はさせない。ただ、思い出したことは、そのつど俺に話してくれ。会う場所でも、連れて来る男でも、ちょっとした癖でもいい」
ゆかりは小さくうなずいた。
「分かった。そうする」
それから、少し迷って続けた。
「でも、もう前みたいにはしない。向こうに引かれるまま付いていったりしない。会うにしても、ちゃんと気をつける。あなたに隠しては会わない」
「それでいい」
尚人がそう言うと、ゆかりはようやく安心したように笑った。さっきまでの甘い顔とは少し違う。頼られたことと、信用されたことが、いちどに胸へ入った女の顔だった。
「私、たぶんね。もう、あの人たちより、あなたのほうを見てる」
その言葉は囁くように小さかったが、冗談ではなかった。尚人は笑わず、親指でゆかりの頬をそっと撫でた。肌はまだ熱を残していて、なめらかだった。
「じゃあ、これからは俺のほうを見ろ」
ゆかりは、うれしそうに目を細めた。それから自分から尚人の唇へ軽く口づけた。今度の口づけは、さっきまでの甘えだけではない。小さな約束に判を押すような、静かな口づけだった。
部屋の中には、畳の匂いと、昼の光に温められた木の匂い、それに二人の残した熱が静かに残っていた。庭では風が池の水を揺らし、葦がまた細い音を立てている。秋谷の古い屋敷は、昼の明るさの中で何も言わず、新しく結ばれた甘い約束と、その裏に潜んだ細い企みとを、どちらもひっそり受け止めていた。
この回では、秋谷の屋敷そのものが一つの舞台として働くように意識しました。黒松の前庭、細長い池、雑木林、井戸まわりの生活の跡が、ゆかりの気持ちをゆるやかにほどき、尚人の側へ寄せていく。贈り物の銀の小箱は、ただ喜ばせるための品ではなく、尚人が相手の心をどう動かすかを示す手つきでもある。池の畔の昼と母屋の静けさの中で、二人の距離ははっきり縮まる。ここから先は、甘さの裏にある仕事の線が、少しずつ表へ出てくる。




