第11話――「銀の小箱、秋谷の朝」
秋谷の古い屋敷は、まだ尚人の手に馴染みきっていない。だが、夜の静けさの中で隠し箱を見つけ、朝には誰かを迎え入れる支度をしているうちに、家は少しずつ「持ち物」ではなく「暮らしの場」へ変わっていく。そんな変化の始まりを描いた。
(1986年4月16日水曜日午後9時半、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)
尚人は、風呂に入ったあと、寝る前に母屋の中を少し探してみた。湯上がりの肌には、まだ石鹸の匂いと湯の熱が残っている。廊下へ出ると、古い木と畳の乾いた匂いが、夜の冷えといっしょに鼻へ入った。障子の向こうでは、庭の黒松が風に鳴り、池の水が石へ触れるかすかな音も聞こえる。広い家の夜は静かで、その静けさの中では、自分の足音さえ少し遠くへ響いた。
明日、秋谷へ連れて来る予定のスナック『さざなみ』のゆかりが、喜びそうな物があればいいと尚人は思った。あの女は、ただ高いだけの品よりも、手に取ったときに自分が少しきれいに見える物へ目を留める。店の灯りの下で指先に映える物、鏡の前で表情がやわらぐ物、そういう品が似合う女だった。
昼に見た洋間の紫檀の文机が、まだ頭に残っていた。一番下の抽斗が少し引っかかり、奥に薄い板がはまっていて、その裏から黒い革張りの小箱が出てきた。あの細工が一つあるなら、ほかにも似た仕掛けがあって不思議ではない。
尚人は洋間へ入った。卓上の小さなスタンドだけをつけると、黄色い光が机の縁と床板の艶だけを拾い、部屋の隅はやわらかな影になった。昼よりも広く見える部屋の中で、文机の向かいにある背の低い飾り棚が目に留まった。黒に近い茶色の木地で、扉には細い真鍮の金具がついている。近づくと、古いワックスの匂いがわずかに立った。
尚人はしゃがみこみ、一番下の棚板へ手をかけた。木は長く拭かれてきたらしく、指先にしっとりした艶が返る。軽く押しても動かない。そこで右奥へ指を差し入れると、爪の先に小さな金具の冷たさが触れた。
押し込むと、内側で細い金属が外れるような控えめな音がした。
棚板が、ほんの少しだけ浮いた。
尚人は板を静かに持ち上げた。木がこすれる匂いが立ち、隠し箱の中から、ほのかに甘い香りが流れた。底に収まっていたのは、掌に載るほどのガラスの小箱だった。蓋は面取りされ、縁には銀色の細い飾りが巻いてある。中には淡い藤色のベルベットが敷かれていた。
箱を開けると、蝶番が小さく鳴った。
中にあったのは、銀のシガレットケースと、細い口紅差し、それに丸い粉入れだった。どれも洋装の女が外へ持って出るための品らしい。銀は黒ずみ、ところどころに細かな曇りがあったが、スタンドの灯りを受けると、縁だけが水のように光る。粉入れの蓋には、曲線の細工があり、その中心に小さな青い石が一つはまっていた。大きな石ではないが、夜の灯りを受ければ、指先の動きに合わせてきらりと返るだろう。
尚人は粉入れを持ち上げた。ひんやりとした重みがある。蓋をひねると、中には薄い鏡が仕込まれていた。鏡は少し曇っていたが、指でそっと拭うと、自分の目元と背後の灯りが丸く小さく映った。かすかに白粉の匂いも残っている。
ケースの下には、薄い紙が一枚敷いてあった。広げると、横浜の元町にあった舶来品店の包装紙らしかった。店名はもう薄れていたが、飾り文字だけはまだ読める。さらに隠し箱の奥を探ると、小さな香水瓶も出てきた。親指ほどの背丈しかない細瓶で、ガラスは薄い琥珀色をしている。栓を抜くと、もう香りはほとんど飛んでいたが、最後に残った甘さだけが、乾いた夜気の中へ細くほどけた。
尚人は机の上へ品を並べ、少し離れて眺めた。銀のシガレットケース、青い石の入った粉入れ、細い口紅差し、琥珀色の香水瓶。どれも大げさではない。だが、女が指先で持ったときに、気分がひとつ上がる品ばかりだった。
このままでも悪くないが、せっかくなら、もう少し光らせてやりたかった。尚人は納戸へ回り、古いが目の細かい木綿の布を探し出した。長くしまわれていた布は乾いた匂いがする。洗面所で小さなボウルにぬるま湯を張り、台所の戸棚から中性洗剤をほんの一滴だけ落とした。指先でかき混ぜると、水面に薄い泡が広がり、石鹸の匂いがほのかに立った。
まず、粉入れから磨いた。銀の縁を濡らした布でそっと拭くと、指先に細かなざらつきが伝わる。長いあいだ積もっていた曇りが、少しずつ布へ移った。布の白い面がすぐに灰色へ変わる。尚人は力を入れすぎず、丸い蓋の曲線に沿って何度も同じところをなぞった。やがて、くすんでいた銀の輪が、灯りを細く返し始めた。
次にシガレットケースを開いた。蝶番が小さく鳴り、内側から古い金属の匂いがした。縁や角には黒ずみがたまっている。尚人は布の端を爪に巻きつけ、細い溝をこする。黒い汚れが筋になって取れ、その下から滑らかな銀色が出てきた。スタンドの灯りがそこへ当たると、水面のような冷たい光が走った。
口紅差しは細く、指から落としそうなくらいだった。尚人は手の中で持ち替えながら、表面の曇りを丁寧にぬぐった。磨くたび、くすんだ銀が少しずつ冴え、細い筒の輪郭がはっきりしてくる。ゆかりの細い指がこれをつまむところを思うと、雑には扱えなかった。
粉入れの鏡も、乾いた布で根気よく磨いた。曇りはなかなか取れなかったが、何度も円を描くようにこすると、ぼやけていた光が次第に澄んでいく。最後には、尚人の目元と、背後のスタンドの灯りが、丸い鏡の中へきちんと収まった。
琥珀色の香水瓶は、水でぬらさず乾拭きだけにした。細い首をつまむと、ガラスはひやりとしている。表面に積もった細かな埃を払うと、飴色の胴がやわらかく灯りを通した。栓のまわりを布で拭うと、最後に残った甘い香りがほんのわずかに立ち、夜の空気へ細くほどけた。
尚人は磨き終えた品を順にガラスの小箱へ戻した。さっきまで鈍かった銀は、いまは灯りの筋をきちんと返している。青い石も、くすみの中へ埋もれず、小さな目のように光った。藤色のベルベットの上へ載せると、どれも見違えるほど映えた。
尚人は少し離れて眺め、口元だけで笑った。これならいい。明日、ゆかりが蓋を開けた瞬間、まず目が明るくなる。次に、指先を伸ばす。その顔がありありと浮かんだ。シガレットケースを手に取って灯りへかざすかもしれない。粉入れの鏡をのぞきこんで、「やだ、きれい」と小さく笑うかもしれない。そう思うと、夜の静かな屋敷の中で、その小箱だけが少し早く明日の空気をまとったように見えた。
尚人はガラスの小箱を洋間の小机へ移し、白い布をその下へ一枚敷いた。昼の光が入ったほうが、銀はもっときれいに見える。蓋を閉じると、磨かれたガラスが小さく澄んだ音を立てた。
廊下へ出ると、湯上がりの体に夜気が少しだけ冷たかった。尚人は障子の向こうの暗がりを見やり、明日の昼の気配を先に思った。庭の黒松は変わらず風に鳴り、池の水は石に当たっていた。その静かな家の中で、磨いた銀だけが、まだ眠らずに細く光っていた。
◇ ◇ ◇
(1986年4月17日木曜日午前6時、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)
尚人が目を覚ますと、障子の向こうはもう白みかけていた。夜の濃さは引き、朝の薄い光が紙を通して部屋の中へにじんでいる。布団の外へ手を出すと、空気はひんやりしていたが、冷たすぎるほどではない。春先の朝らしい、少し湿り気を含んだ冷えだった。
その冷えの中を、お味噌汁の匂いが台所の方から流れてきた。煮え立つ味噌のやわらかな匂いに、出汁の香りが混じっている。ときどき鍋の蓋がかすかに鳴り、包丁がまな板へ当たる乾いた音が続いた。広い屋敷の朝は静かだったが、その静けさの中では、台所の音だけが小さな灯のようにはっきりしていた。
尚人は起き上がり、寝間着の襟を直してから廊下へ出た。板敷きは裸足に少し冷たい。洗面所で顔を洗うと、井戸水を引いたような冷たさが頬に刺さり、眠気が一度で引いた。濡れた手で髪を撫でつけ、鏡に映る顔をざっと確かめる。昨夜遅くまで屋敷の中を歩いた疲れは残っていたが、目つきはもう起きていた。
身支度を済ませて部屋へ戻ると、澄江が朝食と二人前の弁当を盆に載せて入ってきた。炊きたての飯の湯気が白く立ち、焼き魚の香ばしい匂いがその後ろから追ってくる。味噌汁の椀からは湯気が細く上がり、刻んだ葱の青い匂いが鼻へ届いた。弁当箱はきちんと布で包まれ、手に持つとまだほのかに温かそうだった。
澄江は尚人の前へ膳を置き、背筋を伸ばして頭を下げた。
「おはようございます」
声は控えめだったが、朝の空気によく通った。尚人も軽くうなずき返す。
「おはよう。弁当まで悪いな」
「いえ。昼に召し上がれるよう、2人分お作りしました」
そう言うと、澄江は余計な言葉を付け足さず、静かに離れへ引っ込んだ。足袋の底が廊下を擦る音が遠ざかり、また屋敷の朝の静けさが戻る。
尚人は朝食に箸をつけた。飯はふっくらとしていて、口へ運ぶと甘みがある。焼き魚の皮はぱりっとして、噛むと塩気と脂が広がった。味噌汁は少し熱く、豆腐が舌の上で崩れる。外の空気はまだ冷たいのに、椀を持つ手の中だけがじんわり温まり、そのぬくもりが胸のあたりまで下りてきた。こういう朝飯を屋敷の座敷で食うと、借り物だった家が少しだけ自分の生活に近づいた気がした。
食べ終えると、尚人は弁当包みを手に取り、車の鍵をポケットへ入れて外へ出た。庭の空気には潮の匂いが薄く混じっている。松の葉先が朝の光を受け、池の水面にはまだ風の細かな皺が残っていた。ワゴン車のボディは朝露をうっすら残し、手で触れると金属が冷たい。エンジンをかけると、低い振動がハンドルへ伝わり、眠っていた機械がゆっくり目を覚ますようだった。
秋谷の道は朝のうちならまだ空いていた。海沿いを抜ける風が窓の隙間から入り、少し塩を含んだ冷たさを頬へ運ぶ。道路脇の家々はまだ戸を開けきっておらず、店の前にはほうきを持つ人影がぽつぽつ見えるだけだ。陽はもう高くなりかけていたが、春の朝の光はまだ柔らかく、道の白線も、街路樹の若葉も、どこか薄く洗われたように見えた。
横須賀中央へ近づくにつれて、町の音が増えてきた。バスのブレーキの鳴る音、商店のシャッターを上げる金属音、遠くで鳴る踏切の警報機、通学する学生たちの笑い声。海の近くの静けさから、人の暮らしが押し寄せる町の朝へ、車ごと流れ込んでいく感じだった。
駅横のコインパーキングへワゴン車を入れたのは、ちょうど午前9時頃だった。コンクリートの地面はもう日を受けて少し温み始めている。車を停めて外へ出ると、排気ガスの匂いと、近くのパン屋から流れてくる焼きたての匂いが一緒に鼻へ入った。駅前では人の足が絶えず動き、改札へ吸い込まれる流れと、商店街へ流れる流れが交差している。尚人は肩を一つ回してから、買い物袋を提げるつもりで商店街へ入った。
勝手知ったる横須賀中央の商店街は、朝からもう目を覚ましていた。八百屋の店先には春キャベツと新玉葱が山になり、濡れた葉が光っている。魚屋の氷は白く光り、その上に並ぶ鯵や鰯の腹が銀に見えた。乾物屋の前を通ると、昆布と鰹節の乾いた匂いがして、衣料品店へ入ると、新しい布と染料の匂いがむっと立つ。尚人は食材を選び、洗剤や石鹸を買い、下着や靴下、台所で要るこまごました物まで、思いつくままに揃えていった。
紙袋やビニール袋の持ち手が指に食い込む。缶詰は重く、野菜はかさばる。店を出て車まで運び、また商店街へ戻るたびに、額へじんわり汗がにじんだ。春とはいえ、日が上がるにつれて空気は少しずつ温んでいく。車の後ろへ荷物を積み込むと、味噌や醤油、洗剤や新品の布地の匂いが、車内で混ざって生活の匂いになった。
あれこれ買い込んでいるうちに、ちょうどよく時間が潰れた。尚人は腕時計を見てから、スナック『さざなみ』の方へ歩いた。昼前の繁華街は、夜の顔とは違う。看板の色はまだ眠そうで、路地の中にも酒の匂いは薄い。昨夜までの湿った気配が抜け、昼の光が建物の角をきっぱりと見せている。その中で、『さざなみ』の入口だけが、夜を知っている場所のように静かに口を閉じていた。
店の前には、ゆかりがもう立っていた。薄い色の春物の上着を羽織り、髪はいつもより少し明るく見える。昼の光の下では、夜の店で見るときより化粧が軽く、目元の線もやわらかい。だが、尚人の姿を見つけたとたん、口元に浮かぶ笑みだけは夜と同じだった。人を迎えることに慣れた女の笑みで、同時に、これからどこへ連れて行かれるのかを楽しんでいる顔でもある。
「待った?」
尚人が声をかけると、ゆかりは肩をすくめた。
「少しだけ。けど、いい天気だから平気」
近づくと、甘い香水の匂いがほのかにした。夜の店で嗅ぐ濃い匂いではなく、昼に合う軽い香りだった。尚人は車へ案内し、助手席のドアを開ける。ゆかりが乗り込むと、シートがきしみ、春物の布が擦れる音がした。ドアを閉めると、外のざわめきが一段薄くなり、車内には二人分の呼吸と、買い込んだ荷物の匂いだけが残った。
ワゴン車はそのまま三浦半島方面へ向かった。町を抜けるうちは信号が多く、車の列もまだ続いていたが、少し走ると流れは軽くなった。道の左右に見える家並みがまばらになり、空が広がる。窓の向こうで畑の土が日に乾き、遠くに海の青がちらつく。助手席のゆかりは、最初は窓の外を眺めていたが、しばらくして尚人の方へ顔を向けた。
「今日は、ほんとに三崎まで行くの?」
尚人はハンドルを握ったまま、前を見て答えた。
「そのつもりだったけど、今度、新しい家を買ったんだ。この近くの秋谷にある。旧海運商の別邸で、敷地が広すぎて、まだ全部は見ていない」
ゆかりの眉がすぐに動いた。興味を持ったときの顔だった。目の中に光が入る。
「新しい家?」
「古い屋敷だよ。庭も広い。池もある」
そう言うと、ゆかりは少し身を乗り出した。口元がはっきり上がる。
「三崎の保育園より、私はその屋敷が見たいわ。お庭も広いんでしょう?」
声が一段明るくなった。窓から入る光が、その頬の薄い化粧をきれいに見せる。尚人は思わず笑った。
「そう言うと思った」
「だって、保育園は逃げないじゃない。でも、お屋敷の見学は今日のほうが面白そうだもの」
ゆかりはそう言って、窓の外へ目を戻した。だが、その横顔はもう海ではなく、これから見る屋敷のほうを向いているように見えた。
尚人はそこで進路を切り替えた。道は思ったより空いていた。平日の午前で、行楽の車もまだ少ない。信号で止まる回数も少なく、ワゴン車は軽い足取りで秋谷方面へ流れていく。カーブを曲がるたび、窓の外に海が見えたり消えたりした。陽に照らされた水面は白く光り、磯の匂いが風に乗って入ってくる。山の斜面では若葉がまだやわらかく、ところどころに残る桜が薄い色を見せていた。
車内では、荷物が揺れるたびに袋同士が擦れ合い、缶詰の当たる小さな音がした。ゆかりは途中で弁当包みに気づき、「ちゃんとお昼まであるのね」と笑った。尚人が「澄江が作ってくれた」と言うと、ゆかりは「へえ、気が利く人」と返した。そういう何でもないやり取りが続くうちに、車の中の空気も自然にほぐれていった。
秋谷へ入るころには、道路の脇の木々が濃くなり、家並みも落ち着いてきた。潮の匂いの中へ、土の匂いと草の匂いが混じる。尚人は見覚えのある角を曲がり、細い道を屋敷の方へ進めた。車のタイヤが砂利を踏む音が変わり、ゆかりが窓の外を見て、少し息をのんだ気配がした。
門の前へ着いたとき、ちょうど出発から30分ほどだった。黒松の枝が門の上へ張り出し、その奥に古い屋敷の屋根が見える。朝の光はもうしっかり差していたが、敷地の中には木の影がまだらに落ちていて、ただ広いだけではない家の深さを見せていた。
エンジンを切ると、急に静かになった。遠くで波の気配がかすかにあり、どこかで鳥が鳴いている。車の中に残っていた町の匂いは薄れ、代わりに庭木と潮の混じった空気が入りこんできた。
ゆかりは窓の外を見たまま、小さく言った。
「ほんとに、お屋敷だわ」
その声には、驚きと、面白い物を見つけたときのよろこびが、きれいに混じっていた。
夜の屋敷の静けさと、翌朝の横須賀中央のにぎわいが描かれている。隠し箱の中の品は、ゆかりが手に取ったときに心が動くだろうと考えて取っておいたものだ。後半では、ゆかりが三崎ではなく秋谷の屋敷に惹かれていく流れを入れ、彼女が尚人の新しい生活へ一歩踏み込む場面になった。




