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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第四章――「秋谷の屋敷、動き出す布陣」

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第10話――「4億1300万円の夜、秋谷の電話」

成城で榎本家との縁をつないだ尚人は、帰りにNTTの窓口へ寄り、自動車電話とショルダーホンの手配まで済ませた。秋谷へ戻れば、母屋には夕食の匂いが立ち、離れには新三と澄江が入る支度が進んでいる。広い屋敷がようやく家の形を取り始めた、その夜に、今度は小田原東口の札を買いたいという電話が何本も入ってきた。暮らしの始まりと、3億円を抜く商売の決着が、同じ夜の中で重なっていく。

 (1986年4月16日水曜日午後4時20分、世田谷・成城)


 榎本家を辞したあと、尚人はすぐには秋谷へ戻らなかった。成城の駅前までバイクを流し、NTTの取扱窓口へ立ち寄った。店内には案内が整然と並び、受付の女は紺の制服の襟元まできちんとしている。カウンターの向こうには、帳票の束と、まだ使い込まれていない事務机の角が白く光っていた。


 尚人は用件を簡潔に告げた。


 「自動車電話と、ショルダーホンを申し込みたい」


 相手の男は一瞬だけ目を上げた。若い顔で来た客が、ためらいなくその二つを並べて言ったので、少し意外だったのかもしれない。だが、すぐに営業の顔へ戻り、必要な書類を机へ揃え始めた。紙を置くたびに、乾いた軽い音がした。


 「いずれもレンタルになります。自動車電話は車載工事が必要ですので、すぐにはお使いになれません。ショルダーホンも在庫と手配の都合があります」


 「構わない。早い方がいい」


 「では、申込書をお願いします」


 尚人はその場で住所を書いた。秋谷の本宅、横須賀中央の拠点、会社の名。保証金だの基本料だの、説明の言葉はいちいち細かかったが、要するに、これから先の尚人には「いつでも車内からかけられる電話」と「車を降りても持ち歩ける電話」が要るというだけだった。秋谷、横須賀中央、品川、現場、そして都内。動く範囲が広がるほど、足と同じくらい声の線も要る。


 「取付日と受渡し日が決まりましたら、ご連絡いたします」


 窓口の男が最後にそう言って頭を下げた。


 尚人が何時頃になるのかと聞くと、彼はこう答えた。


 「ショルダーホンは4月末、自動車電話は連休明けに入る見込みです」


 尚人は軽く頷き、控えの紙を受け取り、胸ポケットへ入れた。薄い紙切れ一枚だったが、その中身はこの先の動き方を変える道具だった。


 外へ出ると、成城の午後は少し傾き始めていた。並木の影が歩道へ長く伸び、道端の車の屋根だけが白く光っている。尚人はバイクへまたがり、エンジンをかけた。排気の振動が腹へ返り、次の行き先はもう秋谷しかなかった。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年4月16日水曜日午後6時、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)


 尚人が成城を出て、秋谷へ戻ってきた時には、もう夕方6時を回っていた。谷戸の光は昼の白さを失い、黒松の枝の影が庭土の上へ長く落ちている。門を開けてバイクを入れると、土と池水の匂いに、夕方の冷えはじめた空気が混じった。遠くで鴉が1羽鳴き、道の下のほうからは、車が通り過ぎる鈍い音だけが遅れて届いた。


 玄関の鍵を回す音が、広い屋敷の奥へ小さく響いた。中へ入ると、昼間に開けておいた窓の空気がまだ少し残っていて、畳と古い木の匂いがやわらかく動いている。尚人が上着を脱いで廊下へ出たところで、台所のほうから包丁の小さな音が止まった。ほどなくして澄江が顔を出し、軽く頭を下げた。


 「お帰りなさいませ」


 着物の袖口を少し上げたままの姿で、頬には台所の熱がうっすらと残っている。出汁の匂いが、澄江の後ろから廊下へ流れてきた。醤油の焦げる匂いも、わずかに混じっている。尚人が戻ったのを見届けてから、夕食に手をつけたらしかった。


 「ただいま」


 尚人がそう返すと、澄江はもう一度だけ頭を下げた。


 「すぐ支度いたします」


 そのまま台所へ引っ込む足音は軽く、廊下の板を無駄に鳴らさなかった。流しで水の走る音がして、次に鍋の蓋が触れ合う乾いた音が続く。やがて、煮立つ湯気の匂いが少しずつ濃くなり、味噌と魚の匂いが屋敷の中へ広がっていった。人が台所に立つだけで、家の夕方の顔はこうも変わるのかと、尚人はふとそんなことを思った。


 その間に、新三が母屋の縁側のほうから姿を見せた。昼に見た時と同じように背筋が伸びており、作業着ではなく、くたびれてはいるがきちんとした上着に着替えている。庭をひと回りしてきたのか、靴の縁にだけ土が少し付いていた。


 「尚人様」


 「どうしました」


 新三は廊下の柱のそばで立ち止まり、必要なことだけを口にした。


 「明日、引っ越してまいりますので、朝食後、ふたりとも出ます。帰りは夕方ころになります。夕食には間に合わせますので、よろしくお願いいたします」


 言い方に余計な飾りがない。もう勤めに入る者の口だった。尚人は頷いた。


 「そうか。了解した。昼食の弁当は2人分、用意しておいてくれ」


 新三もすぐに頷いた。


 「分かりました」


 それだけで話は済んだ。だが、その短いやりとりで、明日からこの屋敷にもうひとつ暮らしが入ることが、尚人にははっきり見えた。離れには新三と澄江が住み、門や庭や蔵に目を配る。母屋は尚人の本宅として静かに保たれる。屋敷の広さが、ようやく人の配置に追いつきはじめたのである。


 尚人は荷物を置きに寝室へ入った。障子の向こうでは、暮れきらない空がまだ薄く明るい。押入れの襖を開けると、昼に畳んでおいた布団から樟脳の匂いがかすかに立った。成城から戻る道で手に持っていた緊張は、もう少しずつ抜けている。だが、啓子の顔と声だけは、まだ頭のどこかに残っていた。白いブラウスの襟元、コーヒーの匂い、応接間の静かな光。その記憶をひとまず胸の内へしまい、尚人は顔だけ洗って母屋の居間へ戻った。


 廊下を渡ると、台所の明かりが少し濃くなっていた。油のはぜる細かな音がして、ついで包丁がまな板を打つ乾いた音が、間を置かずに続いた。味噌汁の湯気に混じって、焼き魚の皮の匂いが立ち始めた。腹の奥が、ようやく素直に空いてきた。成城ではコーヒーだけで時間が過ぎ、言葉ばかりが先に動いていたのだと、その時になって分かった。


 しばらくして、澄江が母屋の食卓へ膳を運んできた。湯気の立つ飯、味噌汁、焼いた鯵、小鉢にほうれん草のお浸し、それに香の物。白い飯の湯気が、夕方の少し冷えた空気に立ちのぼる。鯵の皮は香ばしく焼け、脂の匂いが近くでふっと広がった。


 「先に召し上がってください」


 澄江はそう言って、音を立てずに膳を置いた。尚人が座るのを確かめると、すぐ離れた。自分たちは離れで食べるつもりなのだろう。母屋で主人が食べ、管理人夫婦は離れで食べる。その線引きが、もう自然にできていた。


 尚人が箸を取るころには、離れのほうにも明かりがついていた。障子越しの灯が、庭の向こうで小さくやわらかい。こちらの母屋には味噌汁の湯気と、焼き魚の皮が割れる匂いがある。向こうには向こうの、夫婦だけの夕飯の音があるのだろう。聞こえるほどではない。だが、屋敷の空気がさっきまでの空き家の静けさではなくなっていることだけは、はっきり分かった。


 尚人はひと口、飯を口へ運んだ。釜で炊いた飯とはまた違うが、炊きたての甘さが舌に残る。味噌汁は少し熱く、喉を通る時に身体の芯へ落ちていく。鯵の身を箸でほぐすと、白い身の間から脂がにじみ、塩気と一緒に口の中へ広がった。昼に成城で飲んだコーヒーの苦みが、ようやくそこで消えた気がした。


 食卓の向こうには、夜へ沈みかけた庭が見える。池の水面はもう白くは返らず、黒松の枝先だけが、残った光を細く拾っていた。春の夜気はまだ冷えきらず、障子の隙間から入る風に土の匂いが混じる。尚人は箸を置き、しばらくその暗くなりかけた庭を見た。


 明日は新三と澄江が本当に引っ越してくる。そうなれば、この屋敷はただ尚人が寝泊まりするだけの場所ではなくなる。門を開ける手が増え、台所に火を入れる手が増え、庭を見回る目が増える。今日の夕方は、その前日の静かな継ぎ目だった。


 離れのほうの灯は、まだ消えない。母屋の灯もまた、今夜はひとり分だけ明るかった。尚人は茶をすすり、熱の残る湯気を鼻へ通した。広すぎると思っていた家が、ようやく少しずつ、夜の中で収まりを持ちはじめていた。


 ◇ ◇ ◇


 尚人が箸を置いた時だった。黒い電話機が、母屋の静けさを裂くように鳴った。焼き鯵の脂の匂いと、味噌汁の湯気の残る食卓の上で、その音だけが妙に硬かった。尚人は湯呑みを机の端へ寄せ、受話器を取った。


 「早乙女です」


 向こうの男は、少し息が速かった。


 「夜分に失礼します。相模東都開発の石倉と申します。小田原東口の件で、少しお話をうかがいたいのですが」


 尚人は何も言わず、受話器を耳へ当てたまま待った。こういう男は、黙っていれば自分から喋る。


 「栄町スズランビル、ミナトヤビル、富士見倉庫ビル、それに周辺の土地も押さえておられると聞きまして」


 点で入ってきた。だが、欲しいのは面だと分かる。


 「持っている」


 尚人はそれだけ言った。


 「もしお考えがあるなら、全部まとめて3億2000万円ほどで、いかがでしょう」


 安い。小田原東口の熱を知ったうえでの値ではない。向こうはまず探りを入れたのだ。尚人は受話器の向こうの息遣いを聞きながら、机の上の物件表へ目を落とした。白い紙の上に、ビル、底地、長屋、パーキング、倉庫の名前が並んでいる。


 「話にならん」


 尚人は静かに言った。


 「4億1300万円だ。こっちの手取りは4億480万円を切らせん」


 向こうが黙った。紙をめくる音が少しして、何か小さく誰かへ確認する声まで漏れた。


 「4億1300ですか」


 「嫌なら結構だ」


 尚人はそこで受話器を置いた。かちりと乾いた音がして、また屋敷が静かになる。障子の向こうでは、池の水面がもう光を返していない。黒松の枝先だけが、わずかな庭灯りを吸って黒く沈んでいた。


 3分も置かずに、また電話が鳴った。


 今度の相手は、年配らしい少し低い声だった。


 「箱根湾岸不動産の高瀬です。小田原東口の一括譲渡の件で、お話ししたい」


 最初から全部で来た。さっきよりは腹が据わっている。


 「いくら出せる」


 尚人が先に言うと、高瀬は一拍置いて答えた。


 「3億8000万円なら、社へ上げられます」


 尚人は茶をひと口すすった。もうぬるくなっていたが、渋みだけは残っている。


 「小田原東口で、底地、ビル、長屋、倉庫、パーキングまで一団で押さえている。1週間で売る気になる値段じゃない」


 向こうで、ふっと息を吐く音がした。


 「そこまで言われますか」


 「言う。東口の計画は、もう表へ出ている」


 高瀬は少し黙ったあと、声を落とした。


 「4億ならどうでしょう」


 惜しい。だが、まだ届かない。


 「4億1300万円だ。こっちの手取りは4億480万円を切らせん」


 受話器の向こうで、小さく舌打ちに近い息が漏れた。高瀬は無理に声色を変えずに言った。


 「少し時間をください」


 「待たん」


 尚人は即座に返した。


 「明日木曜の午後3時。秋谷の本宅へ来い。銀行振出小切手4億1300万円。司法書士立会いで、契約と所有権移転登記までその場で落とす。それができないなら次だ」


 今度は、高瀬の方から先に電話が切れた。悔しさが、そのまま最後の呼吸の荒さに残っていた。


 尚人は受話器を戻し、膳の上の湯呑みを見た。飯の湯気はもう消えている。だが、夜の屋敷の空気は、さっきまでとは違っていた。金額が机の上に乗ると、静けさの重さまで変わる。


 3本目の電話は、少し間を置いてから鳴った。今度の呼び出し音は、さっきまでより落ち着いて聞こえた。尚人はすぐに受話器を取った。


 「早乙女です」


 「関東新都心開発の三橋と申します」


 男の声は、低く、無理に熱を隠していた。こういう声は、値を知ったうえで掛けてきている。


 「小田原東口の件です。全部まとめて、でございます」


 「そうだろうな」


 尚人は椅子へ深く腰を下ろした。畳の匂いと、食後の茶の匂いがまだ鼻の奥に残っている。


 「4億です」


 三橋は、そこで一度区切った。まず大きい数字を置いて、相手の息を見ようとしている。


 「4億1300万円だ。こっちの手取りは4億480万円を切らせん」


 尚人は同じ言葉を、同じ声で返した。三度同じ数字を口にすると、その額はもう単なる希望ではなく、線になる。


 向こうはすぐには引かなかった。


 「端数を少し譲っていただけませんか」


 「その1300万円が、まとめた値打ちだ」


 尚人は物件表の端を指で押さえた。


 「スズランの底地だけでも、ミナトヤだけでも、倉庫だけでもない。全部まとめて取れるから、おたくは今夜電話してきている」


 受話器の向こうで、小さく笑う声がした。ようやく本音が出た。


 「若いのに、商売が固い」


 「若いからだ」


 尚人はそれだけ言った。


 しばらく沈黙が続いた。遠くで、離れの方の障子が小さく鳴った。新三か澄江が、明日の引っ越し支度でまだ起きているのだろう。母屋の灯の下で、尚人は受話器を握ったまま待った。急くのは向こうだ。こちらではない。


 やがて、三橋が言った。


 「分かりました。4億1300万円で結構です」


 声は平らだったが、決めた後の速さが違った。


 「明日木曜日の午後3時、秋谷のご本宅へ、銀行振出小切手4億1300万円を持参します。契約は司法書士立会いで。所有権移転登記まで、その場でお願いしたい」


 「そのつもりだ」


 「こちらは2名で伺います」


 「待っている」


 電話が切れると、夜の屋敷はまた静かになった。だが、さっきまでの静けさとは違う。もう相手は決まり、額も決まり、明日の時刻まで落ちている。池の向こうの闇も、黒松の影も、全部その約束の外側に沈んでいるだけだった。


 尚人は間を置かず、司法書士の小沼へ電話を入れた。呼び出し音は2回で切れ、すぐに出た。


 「小沼です」


 「俺だ。明日木曜の午後3時、秋谷へ来てくれ。小田原東口の一括売却だ。金額は4億1300万円。銀行振出小切手。契約と所有権移転登記を、その場で落とす」


 受話器の向こうで、小沼が一度だけ息を吸った。


 「ずいぶん早いですね」


 「早いから値が付いた」


 「分かりました。売渡証書、登記原因証明、委任状、評価証明の控え、必要書類は全部持って参ります」


 「頼む」


 電話を切ると、尚人は物件表をもう一度見た。買値は1億480万円。明日の手取りは4億480万円を下らない。純益は3億。わずか1週間で、小田原東口の札はそこまで跳ねたことになる。


 尚人はようやく背を椅子へ預けた。鼻の奥には、ぬるくなった茶の香りと、畳の匂いが残っている。だが頭の中では、もう明日午後3時、白い銀行振出小切手が机の上へ置かれるところまで、はっきり見えていた。

秋谷の屋敷は、成城から戻った尚人をただ受け入れるだけの場所ではなくなっていた。母屋には澄江の台所の火が入り、離れには新三と澄江の暮らしが入ろうとしている。その静かな夜に、小田原東口の一団地へ買いの電話が重なり、尚人は相手の焦りを聞き分けながら値を決めた。家の中へ人の気配が増え、電話線の向こうでは街の熱が膨らむ。秋谷の夜が、本宅であると同時に商売の本陣にもなり始めたところがよい。

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